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第2部 · 第8章

イスラームの成立と広がる世界

7〜13世紀 / 西アジア・北アフリカ

用語集
この章の目次
  1. アラビアの共同体
  2. 征服と統治
  3. 商業と学問の網
  4. 地域の政治と文化
  5. 年表
  6. 人物・重要事項
  7. 理解を確かめる

場所をつかむ

イスラームの成立と広がる世界の主な地域12345
  1. メッカ
  2. メディナ
  3. ダマスクス
  4. バグダード
  5. カイロ

位置関係を示す地図です。歴史的国境・支配領域を表す図ではありません。地形:Natural Earth(Public Domain)。

背景から変化へ

  1. 背景アラビアの都市・交易と信仰の問い
  2. 展開 →共同体とカリフの政治の形成
  3. 結果 →都市、商業、翻訳、学問が広がる

考える視点:政治の拡大と改宗の進み方は同一でなく、地域の違いが残る

1. アラビアの共同体

アラビア半島には遊牧、農業、のなど多様な生活がありました。ムハンマドは唯一神への信仰を説き、メディナへの移住を通じて共同体を形成します。622年のヒジュラはイスラーム暦の起点です。宗教だけでなく、人々の協力や規範を定める社会の変化として学びます。

ムハンマドの死後、共同体を率いる権威をどう継承するかが問題となりました。カリフの政治と宗教上の権威の関係は変化します。スンナ派とシーア派を、単に現代の国境に対応する分類としないことが重要です。歴史的な対立と、各地域の内部の多様性を区別します。

2. 征服と統治

ウマイヤ朝、アッバース朝などの時代に支配や交流が広がりました。征服は軍事的な勝利だけでなく、行政、税、、地方の有力者との関係を必要とします。支配下の人々がすぐにすべて改宗したわけではありません。政治の拡大と信仰の広がりは、異なる速度で進みました。

の共通する制度の中にも、言語や文化、宗教の違いがありました。非ムスリムの扱いは時代と地域、政治状況によって変化します。寛容か抑圧かという一語で全時代を説明することはできません。法的な分類と日常の交流を分けて読みます。

3. 商業と学問の網

バグダードなどのはと知識の中心となりました。紙、書物、翻訳、学者の移動が知識を広げます。ギリシア、イラン、インドなどの学問を受け継ぎ、数学、医学、天文学などを発展させました。既存の知識を保存しただけでなく、新しい研究や実践が行われました。

商人の活動は陸路と海路を結びました。インド洋や地中海、中央アジアは、それぞれ異なる商品や交通の条件を持ちます。宗教の広まりにもや移住が関わりました。地図では一本の道だけでなく、港、、内陸の結節点をつなぐ複数の網として考えましょう。

4. 地域の政治と文化

広い世界では各地の王朝が力を持ち、カリフの権威と実際の政治的な力が一致しない場合もありました。ファーティマ朝やセルジューク朝などを学ぶときは、宗教上の立場だけでなく、支配する場所との関係を確認します。が分かれても交流は続きました。

サラディンと十字軍の関係は、イスラーム側の政治と軍事を見る例です。戦争の間にも交渉や取引はありました。宗教間の対立だけで説明せず、王朝、地域、利害の違いを考えます。後のオスマン朝などへ続く政治の変化を、社会の連続性とともに追いましょう。

年表で流れを確かめる

  1. 622年
    ヒジュラ

    ムハンマドのメディナへの移住。イスラーム暦の起点。

  2. 750年
    アッバース朝の成立

    政治の中心や統治の条件が変わり、広い交流と学問が発展した。

文化・社会を深く読む

この地域の前後の時代も含め、信仰・思想と暮らしの関係をたどる読み物です。

メッカでの活動と啓示

7世紀初めのアラビア半島では、多様な祭祀のほか、ユダヤ教やキリスト教の伝統も知られていました。メッカ出身のムハンマドは、610年頃から神の啓示を受けたと伝えられます。信仰上、クルアーンは神の言葉であり、ムハンマドは預言者です。歴史教材では、この信仰上の理解を示したうえで、教えがどのように共同体の行動と結びついたかを考えます。

唯一神への信仰は、礼拝の対象だけでなく、富や責任、共同体のあり方への問いでもありました。ムハンマドの教えが人びとの行動を変えようとしたことは、メッカでの支持と反発を理解する背景になります。信仰が社会関係にどのような変化を求めたかを考えることが重要です。

622年のヒジュラ

ムハンマドと信徒たちは622年にメッカからメディナへ移りました。このヒジュラが、後にイスラム暦の紀元とされます。メディナでは信仰を共有する共同体、ウンマの形成が進み、ムハンマドは宗教的指導とともに調停や政治的指導にも関わりました。630年にメッカを掌握し、632年に死去します。啓示の開始、移住、共同体の拡大は、それぞれ異なる段階です。

移住は活動の場所を変えるだけでなく、新しい関係を築く機会となりました。信徒相互の結びつきと、周囲の集団との交渉や争いを通じて、共同体の形が整えられます。イスラム暦は太陰暦なので、後世の出来事を比較するときには西暦との換算が必要です。本書の年代は原則として西暦を用いています。

日常生活と信仰を結ぶ実践

イスラム教では唯一神アッラーへの信仰を基礎とし、礼拝、喜捨、断食、巡礼などが重視されます。アッラーはアラビア語で神を指す語です。クルアーンと預言者の言行を伝えるハディースなどをもとに、学者たちは生活の規範を論じました。シャリーアという規範と、それを人間が解釈する法学(フィクフ)を区別すると、時代や地域、学派による違いも理解しやすくなります。

宗教的な規範が日常生活に及ぶことと、歴史上のすべての国家が同じ法律で動いたことは別です。学者、統治者、地域の慣習は互いに関わりながら、実際の社会の仕組みを形づくりました。イスラム法を一つの不変の法典として見るより、解釈が積み重なった歴史として読むことが大切です。

後継者問題から宗派へ

ムハンマドの死後、共同体を誰が、どの権威によって導くかが争点となりました。アリーと預言者の家族を重んじる立場は、のちのシーア派の形成につながります。680年のカルバラーでアリーの子フサインが殺されたことは、シーア派の記憶の重要な出来事です。スンナ派とシーア派の教義・制度はその後も形成が続きました。7世紀の政争を、現在まで変わらない二集団の対立として描くのは不正確です。

初期の指導者をどう評価するかという違いは、共同体の記憶や宗教的な権威の根拠にも影響しました。しかし、異なる系統の信徒が常に争い続けたわけではありません。共存や交流もあり、後世の政治的対立が宗派の境界を強める場合もありました。現代の事件を7世紀の争いだけへ還元しないようにします。

正統カリフ時代からウマイヤ朝へ

ムハンマドの死後、スンナ派の伝統で正統カリフと呼ばれる最初の4人の指導者の時代に、アラブの軍隊はシリア、エジプト、イラン方面へ勢力を広げました。661年に成立したウマイヤ朝はダマスクスを中心とし、その領域はイベリア半島からインダス川方面にまで及びました。征服された地域にはキリスト教徒、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒などが暮らし続けました。統治者がムスリムになったことは、住民全員がすぐ改宗したことを意味しません。

領域を支配するには、軍事力だけでなく税の徴収や行政の継続が必要でした。征服以前の人材や技術、建築の伝統も新しい社会へ受け継がれます。王朝が変わっても生活のすべてが一度に置き換わるわけではないことは、美術や遺構からも読み取れます。

アッバース朝と都市の学問

750年に成立したアッバース朝では、バグダードが政治と文化の大きな中心となりました。広域の交流は技術、文学、美術、学問の発展を支えました。ギリシア語・シリア語などの学術文献がアラビア語へ訳され、ムスリムだけでなくキリスト教徒らも翻訳や知的活動に関わりました。「イスラム世界の文化」は信徒一集団だけの作品ではなく、多言語・多宗教の社会の中で生まれたものです。

学問を支えたのは、研究者だけでなく、文献を求める人、翻訳を援助する人、写本を作る人などでした。交流によって得た知識はそのまま保存されるだけでなく、新たな問いのもとで発展しました。のちの他地域への翻訳も含め、知の歴史は多くの社会をつなぐ連続した営みです。

交易とスーフィーのネットワーク

サハラを越える交易やインド洋の航路では、商人の往来、婚姻、支配者の改宗、学者やスーフィーの活動が信仰の広がりに関わりました。スーフィズムは神との関係を深める修行や精神性を重視し、師弟関係や教団を通じて地域に根づきました。西アフリカや東南アジアの歴史を、中東からの軍事征服だけで説明することはできません。

商人との取引や指導者との関係が、宗教への接近のきっかけになる場合があります。それでも改宗の動機は一つではなく、信仰への共感、家族関係、政治的条件などが重なります。支配者の改宗を記録した年代と、広い社会に実践が定着する時期の間には、時間差がありました。

共存と不平等の両方を見る

イスラム支配下では、一定の非ムスリム共同体が信仰を続ける仕組みがありました。しかし、それは現代的な意味での平等な市民権と同じではなく、課税や法的地位の違いがありました。保護、協働、差別、迫害のあり方は政権や時代によって変わります。「常に寛容だった」「常に剣で改宗させた」という両極端の説明では、この長い歴史を理解できません。

宗教間の関係を見るときは、法的な区分だけでなく、職業、地域、支配者との関係なども確認します。ある時代の共存の例を全時代へ広げることも、迫害の例をすべての関係へ広げることもできません。具体例の条件を確かめることが、中立的であるための方法です。

史料を読み解く

羊皮紙に横へ長く伸びる黒いアラビア文字が並び、赤や緑の点が添えられたクルアーン写本の一葉。
クルアーン写本の一葉。9世紀後半〜10世紀初頭、シリア制作と推定。羊皮紙に墨と金。メトロポリタン美術館蔵(30.45)。
The Metropolitan Museum of Art, Gift of Rudolf M. Riefstahl, 1930 (CC0)
MET|Folio from a Qur'an Manuscript · CC0 1.0(MET Open Access)
現物はムハンマドの時代から、およそ2〜3世紀後の写本。7世紀の啓示の場面や本人の自筆資料ではなく、後世の継承を示す。

聖典を伝える文字と、資料の年代を読む

横に長く伸びる黒い文字と、その周りの赤・緑の点に注目してください。METによれば、点は母音を示す記号です。この一葉は、聖典が書写され、読み継がれた営みを考える手がかりになります。ただし制作は9世紀後半〜10世紀初頭です。7世紀のイスラム教成立を学ぶ資料として使うときは、信仰上語られる啓示と、現存する写本の制作時期を分ける必要があります。

この写真を「ムハンマドが啓示を受けた当時のクルアーン」と紹介してよいでしょうか。

適切ではありません。ムハンマドの活動した7世紀と、この写本が作られた9〜10世紀には大きな隔たりがあります。

成立の歴史と、写真の現物を同じ時間軸に置く

時期出来事・資料区別しておきたい点
610年頃ムハンマドが啓示を受け始めたと伝えられる信仰上の理解と、後世の写本の制作年は別である。
622年メッカからメディナへのヒジュラ共同体の歴史上の節目で、後にイスラム暦の紀元となる。
632年ムハンマドの死その後も共同体の展開と聖典の継承が続く。
9世紀後半〜10世紀初頭写真の写本が作られた時期成立期から数世代以上を経た、書写文化の資料である。

写本が後世のものでも資料価値はあります。何が信じられ、どのように伝えられたかという問いに合わせて使います。

史料を読み解く

白い地に濃色の大きなアラビア文字を環状に描き、中央に組紐のような文様を置いた陶器の鉢。
アラビア語の銘文をもつ鉢。10世紀後半〜11世紀。サマルカンド制作と推定、イランのニーシャープール出土。メトロポリタン美術館蔵(40.170.15)。
The Metropolitan Museum of Art, Rogers Fund, 1940 (CC0)
MET|Bowl with Arabic Inscription, "Blessing, Prosperity, Well-being, Happiness" · CC0 1.0(MET Open Access)
7世紀の征服の時代より後の生活用器。制作地は推定で、出土地と同じではない。

器の文字と出土地から、文化のつながりを読む

器の内側を囲むアラビア文字は、持ち主の幸福などを願う言葉です。METは中央の文様を他の工芸品と比べ、この鉢の制作地をサマルカンドと推定しています。一方、出土したのはニーシャープールです。制作地と発見地を分けると、物や意匠が地域を越えて動いた可能性を考えられます。ただし、この一品から交易路や持ち主の信仰まで断定することはできません。

この器から「ニーシャープールの住民は皆アラブ人だった」と言えるでしょうか。

言えません。器の銘文の言語は分かりますが、利用者や地域の全住民の出自を示す資料ではありません。

一つの器でも、情報の根拠は異なる

注目する情報根拠・館の説明この資料だけでは決められないこと
幸福などを願うアラビア語銘文の読解所有者の母語や民族、周囲の人びとの信仰。
サマルカンドという制作地中央の文様と、同地の金属器の意匠との比較による推定工房・職人の名前や確定した制作場所。
ニーシャープールという出土地博物館の出土記録そこへ届くまでの道筋や、売買された回数。
10世紀後半〜11世紀という年代博物館による作品の年代判断7世紀の征服時に人びとがどの程度改宗したか。

生活用具は文化の広がりを調べる資料です。政治的な領域、流通した物、住民の信仰は、それぞれ別の証拠と照らし合わせます。

人物・重要事項を調べる

本文を読んだ後の復習や、言葉を調べるときに使えます。

ムハンマド

622年

イスラームを説き、メッカからメディナへ移住した

7世紀のアラビアで、唯一神への信仰を説きました。メディナへの移住であるヒジュラは、イスラーム暦の起点となります。宗教共同体の形成は政治や社会のあり方とも結び付きました。イスラームでは預言者として尊重される人物で、神そのものとされるわけではありません。

イブン・バットゥータ

14世紀

イスラーム世界などを広く旅し、旅行記を残した

モロッコ出身の旅行家です。メッカ巡礼をきっかけに、アフリカ、アジアなど各地を訪れました。旅の記録は後に口述をもとにまとめられています。宗教、商業、学問のつながりによって長距離の移動が可能だった中世の世界を示します。

サラディン

1187年

エルサレムを奪回したアイユーブ朝の指導者

エジプトやシリアで勢力をまとめ、十字軍勢力と戦いました。エルサレム奪回は第三回十字軍のきっかけになります。交渉や休戦も戦いの一部でした。十字軍をヨーロッパ側だけから見ず、イスラーム側の国家や政治の動きも学ぶための人物です。

ムハンマドが開いた宗教は?

イスラム教

610年頃に啓示を受けた。

イスラム教の聖典は?

コーラン

アッラーの啓示。

イスラームの五行とは?

信仰告白・礼拝・喜捨・断食・巡礼

信仰を日々の実践と結び付ける基本的な行為です。巡礼などには実行可能な人に求められる条件があります。

「知恵の館」があった都市は?

バグダード

アッバース朝の首都。

ヒジュラ(聖遷)の年は?

622年

イスラム暦の起点。

代数学を発展させたイスラム学者は?

フワーリズミー

「アルゴリズム」の語源。

イスラム世界の医学者で「医学典範」を著したのは?

イブン・シーナー

ヨーロッパでも教科書として使用。

中世イスラム世界の天文台で有名なのは?

ウルグ・ベク天文台

サマルカンドにあった15世紀の天文台。

中世の「ハールーン・アッラシード」はどの王朝のカリフ?

アッバース朝

千夜一夜物語にも登場。イスラム文明の黄金期。

中世の「ムーア人」とは?

イベリア半島のイスラム教徒(北アフリカ系)

711〜1492年にイベリア半島を支配。文化的に大きな貢献。

中世の「アイユーブ朝」を建てた人物は?

サラディン(サラーフ・アッディーン)

1187年にエルサレムを奪回。騎士道精神で敵味方から尊敬。

中世イスラムの病院「ビーマーリスターン」の特徴は?

宗教に関わらず無料で治療(近代病院の先駆け)

バグダードのアドゥディー病院が有名。精神病の治療も行った。

中世の「メヴラーナ(ルーミー)」の特徴は?

スーフィズム(イスラム神秘主義)の大詩人

13世紀。旋回舞踊(セマー)で知られるメヴレヴィー教団を創始。

アッバース朝の「翻訳運動」とは?

ギリシア語の学術文献をアラビア語に翻訳する大事業

アリストテレス、プトレマイオス、ガレノスなどの著作を翻訳。

中世イスラムの「スーフィズム」とは?

イスラム神秘主義

瞑想と修行で神との一体化を目指す。メヴラーナ(ルーミー)が有名。

中世インドの「デリー・スルタン朝」とは?

インドを支配したイスラム王朝の総称

1206〜1526年。5つの王朝が交代。のちにムガル帝国に。

中世の「マリ帝国」の宗教は?

イスラム教

スンジャタ・ケイタが建国。マンサ・ムーサのメッカ巡礼で有名。

中世イスラム世界の「バイト・アル=ヒクマ」とは?

知恵の館(翻訳・学問の中心機関)

バグダード。ギリシア語文献のアラビア語訳。学問の黄金時代。

中世イスラムの「ワクフ」制度とは?

公共目的のための寄進財産制度

モスク・病院・学校などの運営資金。

ウマイヤ朝の首都は?

ダマスクス

661〜750年。

アッバース朝の首都は?

バグダード

750〜1258年。イスラム文化の黄金期。

後ウマイヤ朝の首都は?

コルドバ

イベリア半島。学問の中心。

サラディンの業績は?

エルサレム奪還(1187年)

アイユーブ朝の創設者。騎士道精神で尊敬。

マンツィケルトの戦い(1071年)の結果は?

セルジューク・トルコがビザンツに勝利

アナトリアへのトルコ進出。十字軍の遠因。

ムハンマドの後継者「カリフ」の意味は?

代理人・後継者

正統カリフ時代は632〜661年。

711年、ウマイヤ朝が西ゴート王国を破りイベリア半島進出のきっかけとなった戦いは?

グアダレーテの戦い

この勝利によりイベリア半島の大部分がイスラム勢力下に入った。

中世イスラム世界の「マドラサ」とは?

イスラム高等教育機関

法学・神学・科学を教えた。

中世のイスラム世界で発展した天文学の成果は?

アストロラーベの改良と星表の作成

ギリシア天文学を継承・発展させた。

「千夜一夜物語(アラビアン・ナイト)」の舞台は?

イスラム世界

シェヘラザードが王に物語を語る枠物語。

イスラム建築の代表的な特徴は?

アラベスク(幾何学模様)とドーム

偶像崇拝禁止のため、幾何学模様が発達。

イスラム教のスンナ派とシーア派の分裂の原因は?

ムハンマドの後継者問題

アリーの正統性を巡って分裂。

イスラム教の断食月は?

ラマダン

日の出から日没まで飲食を断つ。

十字軍の結果、ヨーロッパにもたらされた文化は?

イスラム文化(科学・数学・医学)

アラビア数字、代数学、ギリシア古典の再発見。

イスラム教徒に課される五行に含まれないものは?

洗礼

五行は信仰告白・礼拝・喜捨・断食・巡礼(ハッジ)の5つ。洗礼はキリスト教の儀礼。

ムハンマドがメッカからメディナへ移住した出来事は?

ヒジュラ(聖遷)

622年。イスラム暦(ヒジュラ暦)の元年とされる。

751年、アッバース朝が唐と戦い、捕虜となった技術者を通じて製紙法が西方に伝わる契機となった戦いは?

タラス河畔の戦い

この戦いを機に製紙技術がイスラム世界からヨーロッパへ広まったとされる。

アッバース朝で「知恵の館」が置かれ、ギリシア哲学の翻訳・研究が盛んに行われた都市は?

バグダード

保存されたギリシア古典は、のちにヨーロッパのルネサンスにも影響を与えた。

13世紀末、アナトリアに建国されたトルコ系のイスラム王朝は?

オスマン帝国

建国者オスマン1世の名にちなむ。

イベリア半島でキリスト教勢力がイスラム勢力を駆逐した運動は?

レコンキスタ(国土回復運動)

1492年のグラナダ陥落で完了した。

ムハンマドの死後、初代の正統カリフに選ばれた人物は?

アブー・バクル

ムハンマドの古くからの盟友で、共同体の分裂を防いだ。

シーア派を奉じ、969年にカイロを建設したイスラム王朝は?

ファーティマ朝

アッバース朝に対抗して自らカリフを称した。

1055年にバグダードへ入城し、カリフからスルタンの称号を得たセルジューク朝の建国者は?

トゥグリル・ベク

以後、政治の実権はスルタンが握るようになった。

10世紀にアフガニスタンで成立し、北インドへの侵入を繰り返したイスラム王朝は?

ガズナ朝

マフムードの時代に十数回のインド遠征を行った。

チンギス・ハンの西征によって滅ぼされた、中央アジア〜イランのイスラム王朝は?

ホラズム朝

使節殺害事件をきっかけにモンゴル軍の攻撃を受けた。

イスラム暦(ヒジュラ暦)が基準とするのは?

月の満ち欠け(太陰暦)

1年が約354日のため、季節と月がずれていく。

イスラム政権下で土地に課された税は?

ハラージュ

非ムスリムに課されたジズヤ(人頭税)と並ぶ主要な税だった。

11世紀にモロッコを中心に成立し、ガーナ王国を攻撃したベルベル人のイスラム王朝は?

ムラービト朝

マラケシュを都とし、イベリア半島にも進出した。

732年、フランク王国がウマイヤ朝の軍を撃退した戦いは?

トゥール・ポワティエ間の戦い

イスラム勢力の西ヨーロッパ進出が食い止められた。

フラグが1258年のバグダード攻略後、イラン方面に建てた国は?

イル・ハン国

アッバース朝を滅ぼして成立。のちにイスラム教を受容した。

642年、イスラム軍がササン朝の軍を破り、その崩壊を決定づけた戦いは?

ニハーヴァンドの戦い

ササン朝は651年に滅亡した。

ムハンマドの言行に関する伝承を集めた記録は?

ハディース

コーランに次ぐ法源として重視される。

コーランやハディースに基づいて体系化されたイスラム法は?

シャリーア

信仰から日常生活までを規律する法体系。

9〜10世紀に中央アジアのブハラを都として栄えたイラン系イスラム王朝は?

サーマーン朝

トルコ人奴隷(マムルーク)の供給地としても知られた。

946年にバグダードへ入城し、大アミールとして実権を握ったイラン系シーア派の王朝は?

ブワイフ朝

アッバース朝カリフは名目的な存在となった。

12世紀にガズナ朝に代わって北インドへ進出したイスラム王朝は?

ゴール朝

その武将アイバクがデリーに奴隷王朝を建てた。

スーフィズム(神秘主義)と正統神学の調和を図った11〜12世紀のイスラム学者は?

ガザーリー

「イスラムの証明」と称された大学者。

ナスル朝の都グラナダに建てられた、イスラム建築の傑作とされる宮殿は?

アルハンブラ宮殿

「赤い城」を意味し、精緻な装飾で知られる。

理解を確かめる

本文を閉じて、この章の「背景 → 展開 → 結果」を自分の言葉で説明してみましょう。誰にどんな変化があったかも加えると、説明が具体的になります。

ムハンマドが開いた宗教は?

イスラム教

610年頃に啓示を受けた。

イスラム教の聖典は?

コーラン

アッラーの啓示。

イスラームの五行とは?

信仰告白・礼拝・喜捨・断食・巡礼

信仰を日々の実践と結び付ける基本的な行為です。巡礼などには実行可能な人に求められる条件があります。

「知恵の館」があった都市は?

バグダード

アッバース朝の首都。

世界史の一問一答へ

用語