ユスティニアヌス1世
6世紀
東ローマ帝国でローマ法の編纂を進めた
ビザンツ帝国の皇帝です。『ローマ法大全』と呼ばれる法の集成を整え、旧西ローマ領の回復も試みました。ハギア・ソフィアの再建でも知られます。大事業には税や軍事費の負担も伴いました。古代ローマの制度が中世へ受け継がれた点に注目しましょう。
第2部 · 第7章
4〜15世紀 / 地中海東部・ヨーロッパ
位置関係を示す地図です。歴史的国境・支配領域を表す図ではありません。地形:Natural Earth(Public Domain)。
考える視点:戦争や宗教上の対立があっても、社会の連続性は残る
ローマの西側の支配が変わると、ゲルマン系の王国などが形成されました。移動する人々は一枚岩の民族ではなく、戦争や同盟の中で構成が変わります。ローマの制度や住民も残りました。「が滅びてすべてが始め直された」と考えるより、継承と変化を分けて見ることが大切です。
東ローマはコンスタンティノープルを中心に続きました。地中海、黒海、アジアを結ぶ位置は貿易と外交に重要でした。皇帝は軍隊や行政だけでなく宗教にも関わります。をヨーロッパ史の付録にせず、周辺のイスラーム世界やスラヴの地域との交流から理解しましょう。
ユスティニアヌス1世はローマ法の編纂を進め、旧西ローマ領の回復を試みました。法の集成は後世の制度にも影響します。大事業や戦争には費用と負担が伴いました。皇帝の成果と、統治を支える財政、役人、人々の労働を一緒に見る必要があります。
ハギア・ソフィアなどの建築は宗教とを表しました。美術やの施設は、材料、技術、職人、注文者の協力で作られます。建築を現存する姿だけで判断せず、再建や用途の変化も確認しましょう。同じ建物が異なる時代に異なる意味を持つことがあります。
キリスト教内部にはや儀礼、組織をめぐる違いがありました。東西の教会の分離は長い過程であり、一つの年にすべての交流がなくなったわけではありません。言語、政治、教会の権威など複数の問題が重なります。信仰の説明と教会制度の歴史を分けて整理します。
スラヴの地域へは信仰や文字の文化が伝わりました。受け入れる側の支配者や人々も、教えを自分たちの社会に位置付けます。宗教の伝播を一方向の授与とせず、翻訳、教育、政治の選択を含む過程として読みましょう。
はペルシア、イスラーム諸、十字軍、トルコ系の勢力などと、戦争と外交を重ねました。や婚姻、条約も関係を作る方法でした。1204年の第四回十字軍によるコンスタンティノープル占領は、キリスト教徒同士の対立を示す出来事です。宗教名だけで敵味方を決められません。
1453年にオスマン軍が都を征服しても、地域の人々や文化がすべて消えたわけではありません。の終わりと、社会の連続性は別の問題です。と、宗教の変化を追うと、ビザンツからオスマンへの関係が次の時代につながります。
ユスティニアヌス1世の事業は後世の法制度に影響した。
宗教が同じでも、政治や経済の利害は異なった。
オスマン朝が都を支配し、地域の歴史は新しい制度の中で続いた。
この地域の前後の時代も含め、信仰・思想と暮らしの関係をたどる読み物です。
西ヨーロッパでは、司教座や修道院が礼拝、教育、写本の継承、救済活動などを担いました。土地や財産を持つ宗教施設は政治・経済の担い手でもあり、王や貴族との協力と対立が生まれました。巡礼は信仰の実践であるとともに、人・物・情報を動かし、街道や町、建築にも影響しました。中世社会を、教会が一方的にすべてを支配した静止した世界と捉えないことが大切です。
教会の権威と世俗の支配者の権威は、協力すれば互いを強めますが、人事や財産をめぐって競合することもあります。宗教施設の運営には地域の有力者の支援が関わり、その影響を抑えて改革しようとする動きも生まれました。「中世の教会」は一つの意思だけで動いた組織ではありません。
ラテン語圏の西方教会とギリシア語圏の東方教会では、政治の環境、典礼、ローマ教皇の権威の捉え方などに相違が積み重なりました。1054年の教皇使節とコンスタンティノープル総主教側の相互破門は象徴的な事件です。ただし、この年に全信徒が一斉に二分されたわけではありません。長期の分離の結果、ローマ・カトリックと東方正教会の違いが定着していきました。
東方ではコンスタンティノープルの皇帝と教会の関係が重要で、西方では複数の王国と教皇の関係が展開しました。違う政治条件のもとで育った教会が、権威の範囲や共通の信仰の表現をめぐって交渉したのです。言語の差はその相互理解を難しくする条件にもなりました。
1095年の教皇ウルバヌス2世の呼びかけは、聖地へ向かう十字軍の大きな契機となりました。参加には救済への期待、政治的な思惑、土地や富への関心などが重なりました。遠征の過程ではムスリムやユダヤ人らに対する虐殺も起きました。1204年の第4回十字軍はキリスト教の都市コンスタンティノープルを攻略し、東西教会の亀裂を深めます。「二つの宗教が一枚岩で争った」とする図式では説明できません。
遠征は東地中海の社会を破壊するとともに、商業や物の移動も生みました。ただし、交流の成果が暴力の被害を相殺するわけではありません。史料に残る複数の立場を読み、軍事行動、信仰上の説明、交易の動きを区別しながら関連づける必要があります。
古代の教義論争から分かれたコプト、アルメニア、シリアなどの諸教会も、それぞれの歴史を持ちます。キリスト教史は西欧だけの歴史でも、1054年以後の二つの教会だけの歴史でもありません。ビザンツからスラヴ世界への伝播、アフリカやアジアで継承された信仰も含めて見ることで、現在の教会の多様性が理解できます。
教会名だけを見て、現在の国家の単位へ対応させることもできません。信徒や聖職者の移動、帝国の境界の変化によって、一つの教会の共同体が複数の地域に暮らすようになります。こうした歴史は、現代の移民社会にある多様な教会を理解する背景にもなります。

長辺約10cmの小箱の蓋には、十字架上のキリストと聖人の姿が描かれています。館の解説では、内部に聖遺物を収める十字形の区画があります。像を見て祈ることと、聖なる人物につながると考えられた物を大切にすることが、一つの器に重なっています。ただし、像や聖遺物の扱いは常に一致していたわけではありません。ビザンツでは8〜9世紀に、聖像への崇敬をめぐる論争が起きました。
意味しません。容器は人びとの崇敬や制作技術の資料ですが、中身の由来の検証は別の課題です。
| 用語 | 信仰の中での位置づけ | 今回の資料との関係 |
|---|---|---|
| 聖像(イコン) | キリストや聖人などを表す像。絵画以外の素材でも作られる。 | 蓋や側面に表された人物像を観察できる。 |
| 聖遺物 | 聖なる人物や出来事につながると考えられ、大切にされた物。 | この容器は十字架に関わる聖遺物を収めるためのもの。 |
| 聖遺物容器 | 聖遺物を収めるために人が制作した器。図像で飾られる場合もある。 | 写真に写る9世紀初頭の金属製の小箱そのもの。 |
聖なるものの真偽を判定する表ではなく、歴史資料として何を観察しているのかを整理する表です。
本文を読んだ後の復習や、言葉を調べるときに使えます。
6世紀
東ローマ帝国でローマ法の編纂を進めた
ビザンツ帝国の皇帝です。『ローマ法大全』と呼ばれる法の集成を整え、旧西ローマ領の回復も試みました。ハギア・ソフィアの再建でも知られます。大事業には税や軍事費の負担も伴いました。古代ローマの制度が中世へ受け継がれた点に注目しましょう。
コンスタンティノープル
約1000年間首都。
ユスティニアヌス帝
ビザンツ帝国の皇帝。
ギリシア語
初期にはラテン語が法や行政で用いられましたが、時代が進むとギリシア語の比重が増しました。千年近く続いた帝国を一つの時点の制度で説明しないようにします。
キリスト教・イスラム・ビザンツ文化の融合
多文化共存の王国。
軍事奉仕の代わりに土地収益を与える制度
西欧の封建制に類似。11世紀以降に拡大。
水上でも燃え続ける
正確な組成は不明。帝国の軍事的優位を支えた。
ヨーロッパとアジアの接点に位置
ボスポラス海峡を制する要衝。三方が海に囲まれた天然の要塞。
大ドームとモザイク壁画
ハギア・ソフィアが最高傑作。内部の金モザイクが特徴的。
コンスタンティノープル
1204年。ラテン帝国を建設。
水上でも燃え続ける焼夷兵器
製法は国家機密で失われた。
海上で使う焼夷兵器
水をかけても消えない。製法は国家機密。
軍管区制(兵農一致の地方統治制度)
各テマに軍団を配置し、兵士に土地を与えた。
ハギア・ソフィア
537年完成のビザンツ建築。のちにモスクに改修。
ローマ法大全
後のヨーロッパ法学の基礎となった。
クローヴィス
メロヴィング朝の創始者。
1453年
オスマン帝国のメフメト2世がコンスタンティノープルを陥落させた。
メフメト2世
「征服王」と呼ばれ、同地をイスタンブルとして新首都にした。
ラテン帝国
1204年成立。1261年にビザンツ帝国が復活した。
ランゴバルド王国
その脅威が教皇とフランク王国の接近を促した。
西ゴート王国
都トレドは後にカスティリャの文化中心となった。
カタラウヌムの戦い
アッティラの西方進出が食い止められた。
ヘラクレイオス1世
公用語をラテン語からギリシア語に改めた時期の皇帝。
バシレイオス2世
「ブルガリア人殺し」の異名で知られる。
ノミスマ
品位の高さから「中世のドル」とも呼ばれる。
本文を閉じて、この章の「背景 → 展開 → 結果」を自分の言葉で説明してみましょう。誰にどんな変化があったかも加えると、説明が具体的になります。
コンスタンティノープル
約1000年間首都。
ユスティニアヌス帝
ビザンツ帝国の皇帝。
ギリシア語
初期にはラテン語が法や行政で用いられましたが、時代が進むとギリシア語の比重が増しました。千年近く続いた帝国を一つの時点の制度で説明しないようにします。
キリスト教・イスラム・ビザンツ文化の融合
多文化共存の王国。