世界の宗教史 第4巻 · 近世編

第2章

宗教改革 ― 信仰・印刷・国家

16〜17世紀ヨーロッパ約4分

教会への批判は、印刷術と政治的な支持を得て広がりました。改革は教義だけでなく、教育や国家の仕組みも変えていきます。

1.1517年、ルターの問題提起

1517年、マルティン・ルターは贖宥状をめぐる実践に対して九十五か条の論題を示しました。贖宥は本来、罪の赦しそのものをお金で買う制度ではなく、罪に伴う罰の免除に関わるカトリックの教えです。その扱いをめぐる批判は、救いと信仰、聖書と教会の権威の問題へ広がりました。ルターの主張は印刷物によって広まり、支持する領邦君主たちの存在も改革を支えました。

改革の背景には、教会をよりよくしようとする従来の運動もありました。論争が大きくなったのは、一つの不正への抗議が、誰に信仰の解釈を決める権威があるのかという問題に及んだからです。印刷術は複製と流通を速めましたが、読者や支持する権力があって初めて政治的な影響を持ちました。

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2.改革は一つの運動ではなかった

ツヴィングリやカルヴァンらは、それぞれの地域で改革を進めました。改革派の間でも聖餐などの理解は一致せず、ルター派・改革派など複数の流れが形成されます。イングランドではヘンリ8世の王権と教皇権の対立を背景にローマとの関係が断たれ、その後も教義や礼拝の変化が続きました。プロテスタントを単一の教義や一つの教会と考えることはできません。

聖書を重んじるという共通点があっても、解釈や教会組織の形は一致しません。地方の行政、学校、礼拝の制度が各宗派のもとで整えられ、信仰の違いが日々の生活の違いにもなりました。近代以降の多様なプロテスタント教会を理解する出発点がここにあります。

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3.カトリック内部でも改革が進む

カトリック教会では、1545〜1563年のトリエント公会議などを通じて教義が再確認され、聖職者の教育や規律の改革も進みました。イエズス会は学校教育や布教で重要な役割を果たします。美術や建築も礼拝と教育に関わりました。宗教改革を「古い教会が一方的に衰えた出来事」と見るより、複数の教会が制度と信仰を再編した時代として読むと理解が深まります。

改革の推進には、教育を受けた聖職者を育て、信徒へ教えを伝え直すことが必要でした。したがって学校、出版、礼拝のあり方が重要になります。カトリックとプロテスタントを固定した二つの陣営として並べるだけでなく、双方が何を変えようとしたかを比べることができます。

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4.宗教戦争から共存の制度へ

1555年のアウクスブルクの宗教和議では、神聖ローマ帝国内のカトリックとルター派の併存が制度化されましたが、すべての個人に自由な信仰選択を保障したわけではありません。1618〜1648年の三十年戦争には宗派対立と諸国の勢力争いが重なりました。1648年のウェストファリア条約は宗派の共存を調整する転機ですが、この年に現代の信教の自由や完全な政教分離が完成したわけではありません。

宗派をめぐる政治上の妥協は、まず戦争を終え、秩序を維持する必要に応えるものでした。信仰の違いをすべて私的な選択とみなす発想が直ちに成立したわけではありません。国家や支配者が宗派を定める制度から、個人の権利の問題へと論点が移るには、さらに長い歴史が必要でした。

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章末のまとめ

この章のポイント

  1. 教義への批判、印刷物、政治的支持が重なって改革が広がった。
  2. プロテスタントにも複数の宗派があり、カトリック側も改革した。
  3. 宗派の併存を認める制度と、個人の信教の自由は区別する。

重要用語・人物

贖宥状(免罪符)
罪に伴う罰の免除をめぐる文書。「金銭で罪そのものを赦す券」とだけ説明するのは不正確。
プロテスタント
16世紀の宗教改革から展開した多様なキリスト教の系統。
宗派化
教義・教育・儀礼・統治などを通じ、各宗派のまとまりと境界が強まる過程。
マルティン・ルター
1483〜1546年。1517年の論題を契機にドイツの宗教改革を進めた。
ジャン・カルヴァン
1509〜1564年。ジュネーヴを中心に改革派の教義と教会組織を整えた。

この章の参考資料

本文の数字に対応しています。確認日:2026年9月25日。参考資料と編集方針