ホッブズ
1651年
『リヴァイアサン』で社会契約と強い主権を論じた
イングランドの内戦を背景に、秩序が失われる危険を考えました。人々が契約によって権力をまとめる必要を説きます。ロックやルソーも社会契約を論じますが、望ましい政治の説明は異なります。著書名と、権力をどう位置付けたかを組み合わせて覚えましょう。
第3部 · 第19章
17〜18世紀 / ヨーロッパ・北アメリカ
位置関係を示す地図です。歴史的国境・支配領域を表す図ではありません。地形:Natural Earth(Public Domain)。
考える視点:議会や権利の文書があっても、全住民が平等とは限らない
近世のは軍隊、税、、地方の有力者の協力に支えられました。ルイ14世のヴェルサイユ宮殿は貴族や宮廷の秩序を示します。絶対王政という語は、王が何の制限もなくすべてを決めた意味ではありません。戦争の費用や既存の権利との交渉が必要でした。
重商主義は国の財政やを重視する政策の総称です。関税、会社への特権、産業の保護など方法は異なります。商業が国の力を支える一方、や農民、納税者に負担がかかる場合もありました。国全体の富と、個々の人の生活を同じものと考えないようにします。
国王と議会の対立には宗教、税、政治的な権限などが関わりました。内戦後には国王が処刑され、クロムウェルが力を持ちます。王がいなくなれば直ちに民主的な社会になるわけではありません。軍の力や宗教上の制限にも注目しましょう。
王政復古の後、名誉革命を経て議会の役割が強まります。権利の章典は重要ですが、選挙権がすべての人に認められたわけではありません。への制限、議会の力、住民の政治参加を別の問題として整理すると、制度の変化が正確に理解できます。
ホッブズは秩序を守る強い、ロックは権利の保護と抵抗、ルソーは一般意志や人民を論じました。同じ社会契約の考えでも、望む政治は異なります。契約という言葉を覚えた後に、人間をどう捉え、何から守るためにが必要とされたかを比較しましょう。
モンテスキューは権力の集中を防ぐ仕組みを論じました。思想は後の憲法へ影響しますが、現実の制度は地域で異なります。考えが書かれた年と、それが実際の法律や政治になる時期は同じではありません。思想、読者、運動、制度という段階を追います。
アダム・スミスはや市場の働きを分析し、道徳についても論じました。市場を重視する考えは、すべての規制を無条件に否定する主張と同じではありません。啓蒙専制君主と呼ばれる支配者も、改革を進めながら制や支配を維持しました。
ピョートル1世やエカチェリーナ2世の改革には、軍事、行政、教育などが関わります。新しい制度を取り入れる利益と、それを実行する負担を両方考えましょう。18世紀の問いは、次の市民革命やにおける自由、財産、平等の問題へつながります。
王権を制限する制度と、住民の選挙権の範囲は区別する。
モンテスキューが権力の集中を避ける仕組みを論じた。
スミスが生産や市場の働きを分析した。
この地域の前後の時代も含め、信仰・思想と暮らしの関係をたどる読み物です。
近代ヨーロッパでは、理性、経験、良心などを根拠に、政治や宗教の権威を問い直す議論が広がりました。ただし、啓蒙の思想家が全員無神論者だったわけでも、科学と宗教が常に二つの陣営に分かれたわけでもありません。宗教内部からの改革や寛容の議論もありました。近代化を「人びとが迷信から抜け出した」という一方向の物語にすると、当事者の多様な動機を見失います。
宗教上の意見の違いを国家がどこまで規制できるかという問題は、政治権力の限界をどう定めるかという問いにつながります。したがって、信仰の自由の歴史は思想史だけでなく、憲法や市民の権利の歴史でもあります。個人の良心を守る原則が、国家の制度とどう関わるかを考えます。
1789年のフランス人権宣言は、公共の秩序を乱さない限り宗教上の意見を理由に不利益を受けないという原則を示しました。米国では1791年の憲法修正第1条が、連邦議会による国教の樹立や宗教の自由な実践の禁止を制限しました。これらは重要な転機ですが、すべての人への平等な保障がただちに実現したわけではありません。原則の宣言と現実の運用は区別します。
宗教団体の特権を制限する制度は、信徒の自由な活動を守る制度と同時に検討されました。ただし、奴隷制や植民地支配、性別などによる権利の不平等も存在しました。宣言の文章に示された普遍性と、その適用から除かれた人びとの経験をあわせて見ることが必要です。
世俗化という語は、政治や教育などが宗教組織から相対的に独立すること、信仰実践が弱まることなど、複数の意味で用いられます。国家制度の変化が、そのまま個人の信仰の消滅を意味するわけではありません。都市化、識字の広がり、移民、印刷物の普及は、既存の権威を変えると同時に、新しい教団や運動が広がる条件にもなりました。
たとえば学校や行政が宗教組織から独立しても、家庭で祈る人が減るとは限りません。また、所属する教団を持たなくても宗教的な行事へ参加することがあります。何を測って世俗化と呼んでいるのかを明らかにしなければ、異なる社会の比較はかみ合いません。
国教会を残す国、国家と宗教団体の制度的な分離を強く打ち出す国など、国家と宗教の関係は一様ではありません。政教分離は「宗教を社会から排除すること」と同義ではなく、国家の権力と信仰の自由をどう調整するかという問題です。歴史を比べる際には、個人の自由、宗教団体の自律、国家の支援や規制を別々に見ます。
重要なのは、特定の一制度を歴史の到達点として、ほかの社会を遅れていると決めつけないことです。誰の自由が保障され、誰が制約を受けたかという具体的な問いから見ると、制度の名称だけではわからない課題が見えてきます。日本の近代史も、その比較の一例となります。
近代化への対応はヨーロッパの外でも進みました。南アジアでは、カーストによる差別と宗教の関係が大きな論点となります。アンベードカルは差別からの解放を追求し、1956年に多くの人びととともに仏教へ改宗しました。これは、宗教を離れることだけが近代的な解放なのではなく、別の宗教的伝統を選び直すことで尊厳を求める道もあったことを示します。

この原本は、成立後の十か条を印刷し直したものではなく、議会が州に送った十二か条の提案文書です。宗教に関する条項は、原本では三番目に置かれています。1791年に三番目から十二番目が批准されたため、宗教の条項が修正第1条となりました。
いいえ。提案された十二か条と、1791年に批准された十か条が異なるためです。文書の段階を確かめる必要があります。
| 時点 | 文書・手続 | 読むときの注意 |
|---|---|---|
| 1789年8月24日 | 下院が十七か条を可決 | これがそのまま最終条文ではない |
| 1789年9月25日 | 議会が十二か条を提案 | 写真はこの段階の文書 |
| 1791年12月15日 | 十か条が批准される | 原案の三〜十二番が修正第1〜10条となる |
提案の第一条・第二条を除いた十か条が、1791年の権利章典です。年表は成立過程に限定しています。
本文を読んだ後の復習や、言葉を調べるときに使えます。
1651年
『リヴァイアサン』で社会契約と強い主権を論じた
イングランドの内戦を背景に、秩序が失われる危険を考えました。人々が契約によって権力をまとめる必要を説きます。ロックやルソーも社会契約を論じますが、望ましい政治の説明は異なります。著書名と、権力をどう位置付けたかを組み合わせて覚えましょう。
1689年
『統治二論』で自然権や抵抗権を論じた
イングランドの思想家です。生命、自由、財産などの権利を守るために政府が存在すると考えました。権力が目的に反する場合の抵抗も論じます。後の革命や自由主義に影響を与えました。ホッブズの強い主権の考えと比較すると違いが分かります。
1748年
『法の精神』で権力の分立を論じた
フランスの啓蒙思想家です。権力の集中を避けるため、立法・執行・司法の働きを分ける考えを示しました。後の憲法制度にも影響します。現代の制度がすべてそのまま著書のとおりではありません。権力を抑制する仕組みという目的を押さえましょう。
1762年
『社会契約論』で人民主権と一般意志を論じた
ジュネーヴ出身の思想家です。政治の正当性を人々の共同の意思に求めました。教育を扱う『エミール』も代表作です。一般意志は単に個々の願望を足したものとは区別されます。ロックやモンテスキューとの考えの違いを、著書名とともに学びましょう。
1776年
『国富論』で分業や市場の働きを分析した
スコットランドの思想家・経済学者です。富が生まれる仕組みを、労働や生産、交換から考えました。『道徳感情論』も著しており、自己利益だけを無条件に勧めた人物ではありません。経済の制度と、人々の道徳や社会の関係を合わせて理解しましょう。
1653年
ピューリタン革命後に護国卿としてイングランドを統治した
議会側の軍を率い、国王との内戦で力を持ちました。チャールズ1世の処刑後に共和国が成立しますが、後には軍の影響が強い体制となります。王政がなくなれば直ちに民主主義になるわけではありません。革命と政治制度の変化を段階的に整理しましょう。
17世紀後半
ヴェルサイユ宮殿を政治の中心とし、フランスの王権を強めた
太陽王とも呼ばれ、絶対王政を代表する王です。貴族を宮廷へ集め、官僚制度や軍事力を用いて支配を進めました。戦争には大きな財政負担が伴います。「絶対」でもすべてを自由に決められたわけではなく、社会の制度や利害の中で統治していました。
18世紀初め
西欧の制度や技術を取り入れ、サンクトペテルブルクを建設した
ロシアの皇帝で、軍隊や行政を改革しました。バルト海への進出を進め、新しい都を対外交流の拠点とします。改革には強制や人々の負担もありました。西欧化という言葉だけでなく、国家の力を高める目的と社会への影響を考えましょう。
18世紀後半
ロシアの領土を拡大し、啓蒙思想家とも交流した女帝
ロシアで強い王権を維持し、黒海方面やポーランド分割に関わりました。啓蒙思想への関心と、農奴制の現実は必ずしも一致しません。理想を語る思想と実際の統治の違いに注目すると、啓蒙専制君主という位置付けが理解できます。
18世紀前半
『マタイ受難曲』などを作曲したバロック音楽の作曲家
ドイツで教会や宮廷の音楽に関わりました。複数の旋律を組み合わせる対位法などの技法にすぐれます。宗教曲だけでなく器楽曲も多数残しました。モーツァルトやベートーヴェンより前の世代として、音楽史の流れと作品名を整理しましょう。
1791年
オペラ『魔笛』などを作曲した古典派の作曲家
ザルツブルクに生まれ、幼い頃から演奏や作曲で活動しました。交響曲、協奏曲、室内楽、オペラなど多様な作品を残します。宮廷の仕事と都市の音楽市場の両方に関わりました。バッハのバロック音楽と、古典派の時代の違いを押さえましょう。
ルイ14世
ヴェルサイユ宮殿。
ルソー
人民主権。
1688年
無血革命。
1689年
議会の権利を明文化。
モンテスキュー
「法の精神」。
サンクトペテルブルク
「西欧への窓」。
生命・自由・財産
アメリカ独立宣言に影響。
いびつな真珠
当初は「歪んだ、奇妙な」という否定的な意味で使われた。
軍事独裁的な共和制
1653〜58年。アイルランド・スコットランドも征服。
西欧の技術・軍事・造船術の習得
自ら職人に変装して造船所で働いた。
ルソー(途中で離脱)
ルソーは当初協力したが、文明批判の立場から離反。
中央集権化と軍制改革
オーストリア継承戦争後。プロイセンのフリードリヒ2世に対抗。
貴族を宮廷に集め監視し王権を強化
貴族は宮廷儀礼に忙殺され、地方での勢力を失った。
軍人王
軍隊の近代化と質素な財政で息子フリードリヒ2世の基盤を作った。
ルイ14世
1648〜53年。のちの絶対王政の動機に。
「国家第一の下僕」
啓蒙専制君主。プロイセン。
クリミア
ロシアの啓蒙専制君主。
フリードリヒ2世(大王)
「君主は国家第一の僕」。宗教的寛容・法改革。
啓蒙専制君主としての近代化(だが農奴制は維持)
ヴォルテールやディドロと交流。クリミア半島を獲得。
コルベール
ルイ14世の財務総監。マニュファクチュア育成。
公式行事・条約調印の場
1919年のヴェルサイユ条約もここで調印。
自然に基づく教育論
子どもの自然な成長を重視。近代教育学の先駆け。
装飾的で華やか
ヴィヴァルディ、バッハ、ヘンデルが代表。
ルイ14世
ヴェルサイユ宮殿を造営し中央集権体制を築いた。
ピューリタン革命(清教徒革命)
クロムウェルが議会派を指導し、チャールズ1世が処刑された。
名誉革命
ウィリアム3世とメアリ2世を新たな国王に迎えた。
権利章典
立憲君主政の基礎を築いた。
ピョートル1世(大帝)
西欧視察をもとに軍事・行政の近代化を進めた。
マザラン
リシュリューの後継者としてフランス絶対王政を支えた。
王権神授説
ジェームズ1世やボシュエらが唱えた。
統治二論(市民政府二論)
アメリカ独立宣言にも影響を与えた。
オーストリア継承戦争
プロイセンがシュレジエンを奪い、両国の対立が深まった。
プガチョフの乱
鎮圧後、農奴制はかえって強化された。
北方戦争
ロシアが勝利し、バルト海の覇権を握った。
サンスーシ宮殿
「憂いなし」を意味し、ヴォルテールも招かれた。
武装中立同盟
アメリカ独立戦争でイギリスを国際的に孤立させた。
ルイジアナ
探検家ラ・サールが領有を宣言した。
ジェームズ2世
カトリック復活政策が議会の反発を招き、フランスへ亡命した。
ヴィヴァルディ
聖職者でもあり「赤毛の司祭」と呼ばれた。
ポルタヴァの戦い
この勝利でロシアの強国化が決定的となった。
アイルランド
この征服がのちのアイルランド問題の淵源となった。
ボシュエ
『聖書のことばから引き出された政治学』を著した。
本文を閉じて、この章の「背景 → 展開 → 結果」を自分の言葉で説明してみましょう。誰にどんな変化があったかも加えると、説明が具体的になります。
ルイ14世
ヴェルサイユ宮殿。
ルソー
人民主権。
1688年
無血革命。
1689年
議会の権利を明文化。