メッテルニヒ
1814〜1815年
ウィーン会議を主導し、保守的な国際秩序の維持を目指した
オーストリアの外交家です。ナポレオン戦争後、王朝や勢力均衡を重視する体制を作ろうとしました。自由主義や民族運動を警戒します。1848年の革命で失脚しました。革命を求める勢力と、それを抑えようとする外交の対立を理解する人物です。
第4部 · 第22章
1815〜19世紀末 / ヨーロッパ・ロシア
位置関係を示す地図です。歴史的国境・支配領域を表す図ではありません。地形:Natural Earth(Public Domain)。
考える視点:統一後も地域、宗教、階級の違いと権利の制限が残る
ナポレオン戦争後、メッテルニヒらは王朝と勢力均衡を重視する秩序を作ろうとしました。一方、憲法や議会、言論の自由を求めるの運動が起こります。はすべての時代で同じ政策を意味する言葉ではありません。何からの自由を、誰が求めたかを確認します。
は言語、文化、歴史などをもとに共同体を作る運動と関わります。しかし、民族の境界が初めから明確で変わらなかったわけではありません。学校、新聞、軍隊なども共通の意識を広げました。が民族をまとめる動きと、からの独立を求める動きの両方があります。
1830年や1848年の革命は各地に広がりましたが、参加する人々の目的は同じではありません。憲法、国の統一、労働、食料、などの要求が重なります。革命が失敗したとされても、制度や運動の経験が後の政治へ影響しました。
選挙権の拡大は長い過程です。男性の内部でも財産などの制限があり、女性の参政権はさらに後の運動と関わります。議会が存在することと、すべての人の代表が平等に参加することは同じではありません。政治制度の対象を具体的に読むことが大切です。
イタリアの統一には外交、軍事、民衆の運動が関わりました。ガリバルディの南部での活動と、王国の外交の役割は異なります。ドイツではプロイセンを中心にビスマルクが戦争と外交を進めました。統一は一人の計画だけで完成したわけではありません。
統一後にも地域や宗教、経済の違いが残りました。共通の国旗や法律ができることと、住民の生活や考えが一つになることは別です。の行政、教育、軍隊、産業がどのように統合されたかを追うと、の仕組みが理解できます。
ロシアでは広い領土と多様な人々を統治し、制の廃止などの改革が行われました。解放は重要ですが、土地や負担の問題が残りました。の制度を変えることと、生活の格差がなくなることは同じではありません。
東欧やバルカンでは複数のと民族運動が関わります。独立や領土の要求は周辺国の外交とも結び付きました。地図の国境線だけで社会を説明せず、言語、宗教、移住、地域の経済を考えましょう。これらの対立は第一次世界大戦へ向かう背景にもなります。
王朝や勢力均衡を重視する秩序が構想された。
統一には外交、軍事、運動が関わり、その後も領域が変化した。
プロイセンを中心に戦争と外交で統一が進んだ。
本文を読んだ後の復習や、言葉を調べるときに使えます。
1814〜1815年
ウィーン会議を主導し、保守的な国際秩序の維持を目指した
オーストリアの外交家です。ナポレオン戦争後、王朝や勢力均衡を重視する体制を作ろうとしました。自由主義や民族運動を警戒します。1848年の革命で失脚しました。革命を求める勢力と、それを抑えようとする外交の対立を理解する人物です。
1871年
プロイセンを中心とするドイツ統一を進めた
プロイセンの首相として軍事と外交を用い、オーストリアやフランスとの戦争を経て統一を実現しました。ドイツ帝国成立後は宰相を務めます。労働者への社会保険制度の導入にも関わりました。統一、外交、国内政策という異なる面を組み合わせて理解しましょう。
1860年
赤シャツ隊を率いて南イタリアを制圧し、イタリア統一に貢献した
イタリアの統一運動で活動した軍人です。シチリアやナポリへ進軍し、征服地をサルデーニャ王に引き渡しました。統一にはカヴールの外交なども関わります。軍事行動と外交、民衆の運動が組み合わさった過程として学びましょう。
1850年代
クリミア戦争で看護や衛生環境の改善に取り組んだ
イギリスの看護師・改革者です。病院の環境と死亡の関係を統計などを用いて示しました。看護教育の整備にも力を尽くします。献身的な看護というイメージに加え、記録やデータを制度改革に使った点が重要です。医療と社会の仕組みをつなぐ人物です。
ビスマルク
1871年統一。
メッテルニヒ
正統主義と勢力均衡。
二月革命
第二共和政成立。
カヴール
サルデーニャの首相。
クリミア戦争
近代看護の母。
二月革命
1917年。ロマノフ朝崩壊。
アレクサンドル2世
1861年。
ウィーン体制下の列強による協調的外交
メッテルニヒ体制。革命の防止と秩序維持を目指した。
ヨーロッパ各地で同時に自由主義・民族主義運動が勃発
フランス・オーストリア・ドイツ・イタリア・ハンガリーなど。
野戦病院の衛生状態
死亡率を42%から2%に激減させたとされる。
アレクサンドル2世
1861年の農奴解放令。しかし1881年に暗殺された。
ビスマルクとカトリック教会の対立
イエズス会の追放、教会の学校管理権剥奪。最終的にビスマルクが譲歩。
ロシアのアレクサンドル1世
キリスト教的原理に基づく君主間の同盟。実際の効果は限定的。
ベルギーの独立・ポーランドの蜂起
フランスの革命が周辺国に波及。
ロシア
ロシアとの関係維持。ビスマルク失脚後に更新されず→露仏同盟へ。
ルイ・フィリップ
「市民王」。
シチリアと南イタリア
1860年。イタリア統一に貢献。
「我弾劾す」(ジャキューズ)
1898年。反ユダヤ主義への告発。
社交行事ばかりで議論が進まない
シャルル・ド・リーニュの言葉。メッテルニヒが主導。
シャルル10世
反動政治への不満。「市民王」ルイ・フィリップが即位。
経済統合によるドイツ統一の基盤
1834年。プロイセン主導。オーストリアは不参加。
電信と写真による戦争報道
近代戦争報道の始まり。ナイチンゲールの活動も報道。
ガリバルディ
「赤シャツ隊」千人隊でシチリアとナポリを征服。
デンマーク戦争・普墺戦争・普仏戦争
ビスマルクの「鉄血政策」。1864・1866・1870年。
フランスのユダヤ人軍人への冤罪事件
反ユダヤ主義の横行。ゾラが「私は弾劾する」を発表。
正統主義と勢力均衡
メッテルニヒが主導。ナポレオン後の秩序回復。
ロシア vs オスマン帝国・英仏連合
セヴァストポリ包囲戦が有名。
ビスマルク
「鉄と血によってのみ問題は解決される」との演説で知られる。
ガリバルディ
征服地をサルデーニャ王に献上し、イタリア統一に貢献した。
タレーラン
正統主義を唱え、フランスの国益を巧みに守った。
四国同盟
のちにフランスが加わり五国同盟となった。
ブルシェンシャフト
メッテルニヒのカールスバート決議で弾圧された。
フランクフルト国民議会
プロイセン王が帝冠を拒���し、統一は実現しなかった。
三月革命
ウィーン体制が崩壊し、「諸国民の春」が広がった。
マッツィーニ
1849年にはローマ共和国の樹立を指導した。
三帝同盟
フランスの孤立化を狙うビスマルク体制の柱の一つ。
露仏同盟
ドイツは東西二正面に敵を抱えることになった。
トリエステ・南チロル
この領土要求が第一次世界大戦の参戦動機となった。
独墺同盟
のちにイタリアが加わり三国同盟へ発展した。
本文を閉じて、この章の「背景 → 展開 → 結果」を自分の言葉で説明してみましょう。誰にどんな変化があったかも加えると、説明が具体的になります。
ビスマルク
1871年統一。
メッテルニヒ
正統主義と勢力均衡。
二月革命
第二共和政成立。
カヴール
サルデーニャの首相。