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第4部 · 第22章

国民国家と19世紀ヨーロッパ

1815〜19世紀末 / ヨーロッパ・ロシア

用語集
この章の目次
  1. ウィーン体制と自由主義
  2. 革命と政治参加
  3. イタリアとドイツの統一
  4. ロシアと東欧の課題
  5. 年表
  6. 人物・重要事項
  7. 理解を確かめる

場所をつかむ

国民国家と19世紀ヨーロッパの主な地域12345
  1. ウィーン
  2. ベルリン
  3. ローマ
  4. サンクトペテルブルク
  5. パリ

位置関係を示す地図です。歴史的国境・支配領域を表す図ではありません。地形:Natural Earth(Public Domain)。

背景から変化へ

  1. 背景革命後の秩序と自由・統一の要求
  2. 展開 →運動、外交、軍事を通じる国家の再編
  3. 結果 →国民国家と政治参加の制度が発展

考える視点:統一後も地域、宗教、階級の違いと権利の制限が残る

1. ウィーン体制と自由主義

ナポレオン戦争後、メッテルニヒらは王朝と勢力均衡を重視する秩序を作ろうとしました。一方、憲法や議会、言論の自由を求めるの運動が起こります。はすべての時代で同じ政策を意味する言葉ではありません。何からの自由を、誰が求めたかを確認します。

は言語、文化、歴史などをもとに共同体を作る運動と関わります。しかし、民族の境界が初めから明確で変わらなかったわけではありません。学校、新聞、軍隊なども共通の意識を広げました。が民族をまとめる動きと、からの独立を求める動きの両方があります。

2. 革命と政治参加

1830年や1848年の革命は各地に広がりましたが、参加する人々の目的は同じではありません。憲法、国の統一、労働、食料、などの要求が重なります。革命が失敗したとされても、制度や運動の経験が後の政治へ影響しました。

選挙権の拡大は長い過程です。男性の内部でも財産などの制限があり、女性の参政権はさらに後の運動と関わります。議会が存在することと、すべての人の代表が平等に参加することは同じではありません。政治制度の対象を具体的に読むことが大切です。

3. イタリアとドイツの統一

イタリアの統一には外交、軍事、民衆の運動が関わりました。ガリバルディの南部での活動と、王国の外交の役割は異なります。ドイツではプロイセンを中心にビスマルクが戦争と外交を進めました。統一は一人の計画だけで完成したわけではありません。

統一後にも地域や宗教、経済の違いが残りました。共通の国旗や法律ができることと、住民の生活や考えが一つになることは別です。の行政、教育、軍隊、産業がどのように統合されたかを追うと、の仕組みが理解できます。

4. ロシアと東欧の課題

ロシアでは広い領土と多様な人々を統治し、制の廃止などの改革が行われました。解放は重要ですが、土地や負担の問題が残りました。の制度を変えることと、生活の格差がなくなることは同じではありません。

東欧やバルカンでは複数のと民族運動が関わります。独立や領土の要求は周辺国の外交とも結び付きました。地図の国境線だけで社会を説明せず、言語、宗教、移住、地域の経済を考えましょう。これらの対立は第一次世界大戦へ向かう背景にもなります。

年表で流れを確かめる

  1. 1814〜1815年
    ウィーン会議

    王朝や勢力均衡を重視する秩序が構想された。

  2. 1861年
    イタリア王国の成立

    統一には外交、軍事、運動が関わり、その後も領域が変化した。

  3. 1871年
    ドイツ帝国の成立

    プロイセンを中心に戦争と外交で統一が進んだ。

人物・重要事項を調べる

本文を読んだ後の復習や、言葉を調べるときに使えます。

メッテルニヒ

1814〜1815年

ウィーン会議を主導し、保守的な国際秩序の維持を目指した

オーストリアの外交家です。ナポレオン戦争後、王朝や勢力均衡を重視する体制を作ろうとしました。自由主義や民族運動を警戒します。1848年の革命で失脚しました。革命を求める勢力と、それを抑えようとする外交の対立を理解する人物です。

ビスマルク

1871年

プロイセンを中心とするドイツ統一を進めた

プロイセンの首相として軍事と外交を用い、オーストリアやフランスとの戦争を経て統一を実現しました。ドイツ帝国成立後は宰相を務めます。労働者への社会保険制度の導入にも関わりました。統一、外交、国内政策という異なる面を組み合わせて理解しましょう。

ガリバルディ

1860年

赤シャツ隊を率いて南イタリアを制圧し、イタリア統一に貢献した

イタリアの統一運動で活動した軍人です。シチリアやナポリへ進軍し、征服地をサルデーニャ王に引き渡しました。統一にはカヴールの外交なども関わります。軍事行動と外交、民衆の運動が組み合わさった過程として学びましょう。

フローレンス・ナイチンゲール

1850年代

クリミア戦争で看護や衛生環境の改善に取り組んだ

イギリスの看護師・改革者です。病院の環境と死亡の関係を統計などを用いて示しました。看護教育の整備にも力を尽くします。献身的な看護というイメージに加え、記録やデータを制度改革に使った点が重要です。医療と社会の仕組みをつなぐ人物です。

ドイツ統一の「鉄血宰相」は?

ビスマルク

1871年統一。

ウィーン会議を主導した人物は?

メッテルニヒ

正統主義と勢力均衡。

1848年フランスの革命は?

二月革命

第二共和政成立。

イタリア統一の中心人物は?

カヴール

サルデーニャの首相。

ナイチンゲールが活躍した戦争は?

クリミア戦争

近代看護の母。

ロシアのニコライ2世が退位した革命は?

二月革命

1917年。ロマノフ朝崩壊。

ロシアの農奴解放の皇帝は?

アレクサンドル2世

1861年。

「コンサート・オブ・ヨーロッパ(ヨーロッパ協調)」とは?

ウィーン体制下の列強による協調的外交

メッテルニヒ体制。革命の防止と秩序維持を目指した。

1848年革命が「諸国民の春」と呼ばれた理由は?

ヨーロッパ各地で同時に自由主義・民族主義運動が勃発

フランス・オーストリア・ドイツ・イタリア・ハンガリーなど。

クリミア戦争でナイチンゲールが改善したのは?

野戦病院の衛生状態

死亡率を42%から2%に激減させたとされる。

「ツァーリ解放者」と呼ばれたロシア皇帝は?

アレクサンドル2世

1861年の農奴解放令。しかし1881年に暗殺された。

ドイツの「文化闘争」(1870年代)とは?

ビスマルクとカトリック教会の対立

イエズス会の追放、教会の学校管理権剥奪。最終的にビスマルクが譲歩。

ウィーン体制下の「神聖同盟」を提唱したのは?

ロシアのアレクサンドル1世

キリスト教的原理に基づく君主間の同盟。実際の効果は限定的。

「七月革命」(1830年)の影響は?

ベルギーの独立・ポーランドの蜂起

フランスの革命が周辺国に波及。

ビスマルクの「再保障条約」(1887年)の相手は?

ロシア

ロシアとの関係維持。ビスマルク失脚後に更新されず→露仏同盟へ。

七月革命後のフランス王は?

ルイ・フィリップ

「市民王」。

ガリバルディの千人隊が征服したのは?

シチリアと南イタリア

1860年。イタリア統一に貢献。

ドレフュス事件でゾラが書いた文書は?

「我弾劾す」(ジャキューズ)

1898年。反ユダヤ主義への告発。

ウィーン会議の「会議は踊る、されど進まず」の意味は?

社交行事ばかりで議論が進まない

シャルル・ド・リーニュの言葉。メッテルニヒが主導。

七月革命(1830年)で退位したフランス王は?

シャルル10世

反動政治への不満。「市民王」ルイ・フィリップが即位。

ドイツ関税同盟(ツォルフェライン)の意義は?

経済統合によるドイツ統一の基盤

1834年。プロイセン主導。オーストリアは不参加。

クリミア戦争で初めて使われた技術は?

電信と写真による戦争報道

近代戦争報道の始まり。ナイチンゲールの活動も報道。

イタリア統一でシチリアを征服した義勇軍の指導者は?

ガリバルディ

「赤シャツ隊」千人隊でシチリアとナポリを征服。

ドイツ統一の3つの戦争は?

デンマーク戦争・普墺戦争・普仏戦争

ビスマルクの「鉄血政策」。1864・1866・1870年。

ドレフュス事件(1894年)とは?

フランスのユダヤ人軍人への冤罪事件

反ユダヤ主義の横行。ゾラが「私は弾劾する」を発表。

ウィーン体制の基本原則は?

正統主義と勢力均衡

メッテルニヒが主導。ナポレオン後の秩序回復。

クリミア戦争(1853〜56年)の主要対立は?

ロシア vs オスマン帝国・英仏連合

セヴァストポリ包囲戦が有名。

ドイツ統一を主導し「鉄血宰相」と呼ばれたプロイセンの政治家は?

ビスマルク

「鉄と血によってのみ問題は解決される」との演説で知られる。

「赤シャツ隊」を率いて南イタリアを制圧し、イタリア統一運動を軍事面で主導した人物は?

ガリバルディ

征服地をサルデーニャ王に献上し、イタリア統一に貢献した。

ウィーン会議で敗戦国フランスの代表を務めた外交官は?

タレーラン

正統主義を唱え、フランスの国益を巧みに守った。

1815年、ウィーン体制を支えるためイギリス・オーストリア・プロイセン・ロシアが結んだ同盟は?

四国同盟

のちにフランスが加わり五国同盟となった。

ウィーン体制下、自由と統一を求めたドイツの学生組合は?

ブルシェンシャフト

メッテルニヒのカールスバート決議で弾圧された。

1848年、ドイツ統一と憲法制定を討議するため開かれた議会は?

フランクフルト国民議会

プロイセン王が帝冠を拒���し、統一は実現しなかった。

1848年にウィーンで起こり、メッテルニヒが亡命した革命は?

三月革命

ウィーン体制が崩壊し、「諸国民の春」が広がった。

「青年イタリア」を結成し、共和主義によるイタリア統一を目指した人物は?

マッツィーニ

1849年にはローマ共和国の樹立を指導した。

1873年、ビスマルク外交のもとでドイツ・オーストリア・ロシアが結んだ同盟は?

三帝同盟

フランスの孤立化を狙うビスマルク体制の柱の一つ。

ビスマルク引退後の1890年代に成立した、ロシアとフランスの同盟は?

露仏同盟

ドイツは東西二正面に敵を抱えることになった。

イタリア統一後もオーストリア領に残った「未回収のイタリア」の代表的地域は?

トリエステ・南チロル

この領土要求が第一次世界大戦の参戦動機となった。

1879年、ビスマルクがロシアとの関係悪化に備えて結んだ同盟は?

独墺同盟

のちにイタリアが加わり三国同盟へ発展した。

理解を確かめる

本文を閉じて、この章の「背景 → 展開 → 結果」を自分の言葉で説明してみましょう。誰にどんな変化があったかも加えると、説明が具体的になります。

ドイツ統一の「鉄血宰相」は?

ビスマルク

1871年統一。

ウィーン会議を主導した人物は?

メッテルニヒ

正統主義と勢力均衡。

1848年フランスの革命は?

二月革命

第二共和政成立。

イタリア統一の中心人物は?

カヴール

サルデーニャの首相。

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