金曜日の夕方、灯里は母の家の物置で、赤い箱を見つけた。
布団袋の下に押し込まれた菓子の缶だった。蓋には、かつて町にあった映画館の名前が刷られている。母は大事なものを洒落た箱にしまう人ではなかった。通帳は銀行の封筒、保証書は役場の古い封筒。だから、どこかに特別な箱があるなどとは思わなかった。
中には、舞台の台本が四冊入っていた。町民劇団の名前と、一九九〇年代の公演日。母の名前の横に配役が書かれている。灯里が覚えているのは、母が舞台の裏で受付をしていたことだけだった。台詞を言っていたことは知らなかった。
一本の台本には、細い鉛筆で息継ぎの印がついていた。句読点とは違う場所に縦線が引かれ、ある頁には「ここで待つ」とある。案内原稿の余白にあったものと、よく似た印だった。母は何もかも即座に読めたわけではない。読めるようになるまで練習していたのだ。
灯里は台本を膝に置いて、物置の床に座った。家には小さな暖房しかつけていなかったので、板の冷たさが靴下を通ってきた。母の家へ戻ると、いつも灯里は、自分が遠くへ出ていったことを説明する準備をしてしまう。台本の中の母は、灯里が出ていくずっと前から、別の場所へ行く練習をしていた。
裏表紙に、土居真琴の母親の名前があった。真琴は灯里の同級生で、今は旧駅の反対側でパン屋をしている。連絡を取ると、店じまいの後なら寄ってよいと言われた。
店の厨房には、明朝のための生地が並んでいた。真琴は粉のついた腕を洗い、灯里の持ってきた台本を見て声を上げた。
「これ、うちにもある。お母さんたち、毎週練習してた」
「私、知らなかった」
「灯里は塾だったんじゃない。金曜日、七時から」
「そうだったかも」
記憶の欠け方は、きれいな謎とは違う。塾に行った曜日さえ思い出せない自分が、母の人生の大事な部分を知らないことを、大事件のように感じていた。
真琴は焼き損じのパンを二つ皿に載せた。片方の底が少し焦げていた。
「捨てるには惜しいけど売れない。こういうの、昔は親に見せたくなかった」
「今は?」
「母が店に来ると、一番焦げたのを持って帰る。売ってる方より、私が作った感じがするんだって。ひどい感想よね」
灯里は笑った。パンをちぎると、中は柔らかかった。
「案内室、残す運動でもするの?」
「そこまでは考えてない。階段のことは気になるけど」
「うちの仕入れの車、新工場の荷捌き場と道を共有するの。会社が来てくれるの、助かる店もあるよ」
灯里は顔を上げた。反対する者と賛成する者を図面の両側に配置すれば済むわけではない。真琴の店の裏口には、狭い坂道が一本あるだけだった。粉の袋を運ぶ車が一度で曲がれず、切り返すのを、灯里も子供のころから見ていた。
「階段が残ると、車が入れないの?」
「わからない。図面はちゃんと見てない。ただ、全部止まれば困る人もいる。そのことを灯里に言っておきたかった」
「私が、町を知らないから?」
自分でも予想しなかった刺々しさが、声に混じった。
真琴は口元のパン屑を払った。
「私も町全部なんか知らない。店の半径しか。灯里に帰ってきてくれて嬉しいのと、工場に来てほしいのは、両方ある」
灯里は謝ろうとしたが、真琴が先に台本を開いた。母の名前がある頁で止める。
「この役、初めは私の母がやるはずだったの。急に声が出なくなって、澄江さんが代役。すごく怖がってたって。うちの母、今でも言う」
「怖がってた?」
「お客さんの方を向くと、何も言えなくなるんだって。電話の方が楽だって。でも出た。客が六十人くらいしかいなくて、知ってる人ばっかりなのが、一番怖かったらしい」
台本の余白には「知らない人に届ける」と書いてあった。灯里は指を載せずに、その言葉を見た。母の声が人のために一段高く作られていたという自分の解釈も、もしかしたら違うのかもしれない。自分が知っている相手の顔から、逃れるための高さだったのかもしれない。
真琴の電話が鳴った。明朝の注文が一つ増えたらしい。彼女は粉を量り直し始めた。灯里は手伝えることを聞き、紙袋に値札を貼った。単純な作業をしながら、七四番の話をした。千鶴の名前や相談の細部は出さず、母が案内の時間を直そうとして、できなかったらしいとだけ言った。
「うちの母にも、聞いていい?」
「個人の話を広げたくない」
「舞台の話よ。案内の方じゃなくて。澄江さんが辞めたの、ちょうど二〇〇〇年だったから」
灯里は値札を一枚、斜めに貼った。指で剥がすと、紙袋の表面まで薄く剥けた。
「辞めた理由、知ってる?」
「本人から聞いてない。それはそう言う」
真琴の返事は、千鶴のそれに似ていた。町に残った人たちが同じ秘密を共有しているのではない。知っていることの端を、それぞれが探しているのだと、灯里はようやく思えた。
家へ帰ると、東京の仕事の返信が届いていた。沈黙を残す案は採用したい。ただし全体の尺は変わらないので、別の話題を削ってほしいという。灯里は椅子に座り直した。音の中の誰かを守るために、別の誰かの話を短くする。そのことを職業としてやっている。選ばないで済む場所など、自分の机の上にもない。
対談を聞き直し、同じ説明を二度している箇所をまとめた。意味が変わっていないかを確かめ、編集箇所を依頼主に示した。普段なら完成音だけを送るところだった。灯里は、その作業に余計にかかった時間を請求することも決めた。善意だけで続けられる手順にはしたくなかった。
翌朝、案内室で相良に会うと、彼は戸棚の前でしゃがんでいた。棚板の下から薄い紙が出てきたという。古い配線図だった。灯里は息をつき、紙に埃がつかないよう箱を用意した。
「七五番は、何を録る予定だったんでしょう」
「訂正版です。北階段の」
「空白の番号なのに、どうしてわかるんですか」
相良は眼鏡を外した。目の下に、薄い赤い跡がついていた。
「ぼくが空けたからです。新しい案内を作るとき、続き番号を取る。作らなくなっても、他の用途に使わない。途中の番号が動くと、問い合わせの記録がずれるから」
「なら、作ろうとはしていた」
「そうです」
「お母さんは、どうしてやめたの」
「ぼくもやめた。そこを飛ばさないでください」
灯里は黙った。相良は椅子に腰を下ろし、机の上に両手を置いた。
「母親を知りたい、という気持ちと、町の記録を調べる仕事は、重なるところもあります。でも同じではない。ぼくが話せるのは、ぼくがしたことです」
「聞かせてください」
「今日、午後は時間が取れません。明日の朝、工房の方に来てください。あそこを見てから話したい」
また先送りだと、灯里は一瞬思った。だが相良は、話さないとは言っていなかった。時計を見て、持っている用事を数え、その上で時間を決めていた。灯里がいつも編集する、話と話の間の生活がそこにあった。
土曜日の案内室には、子供を連れた人が二組来た。解体前に中を見たいという。大庭から見学会ではないと念を押されていたので、灯里は入口から見える範囲だけを示した。小学生らしい男の子が、電話機を指さした。
「これ、つながる?」
「もう、つながらない」
「じゃあ、誰かがかけたらどこへ行くの」
「今は役場の別の番号が案内されるはず」
「間違えた人は?」
灯里にはわからなかった。母なら、番号を間違えた相手にも道を教えただろう。そう思って、また母を一つの役に閉じ込めかけていると気づいた。母にだって、早く電話を切りたい日はあったはずだ。
子供たちが帰った後、灯里は台帳の保存先を増やす相談を大庭に送った。棚二段ではなく、データと紙の両方を保管する方法。費用と必要な作業を短くまとめた。最後に、委託の範囲を超える分については別途協議したいと書いた。母の娘であることを、無償で何でも引き受ける理由にはしなかった。
返事はすぐには来なかった。
午後、七四番の音声をもう一度聞いた。今度は沈黙の波形を拡大せず、初めから終わりまで通して聞いた。音がないのではなかった。空気の中を、何人かが違う速さで息をしている。短くしようと思えば、半秒でつながる。それだけのことに、誰かが二十六年も異議を持ち続けていた。
灯里は保存用ファイルに、派手な名前をつけなかった。番号、日付不明、原音。その三つにした。胸を打つ題名を与えた瞬間、そのファイルは自分の作品になってしまう。それはまだ、自分にできる仕事ではなかった。