CHAPTER 03 / 13

第3章 二十七分の人

 資料室の入口では、靴を脱ぐことになっていた。

 昔の保育所を使っているため、下駄箱には小さな靴の形の日焼け跡が残っていた。灯里は履き替えたスリッパの踵を鳴らしながら、受付の机へ進んだ。大庭から届いた申請の控えを差し出すと、担当の女性が厚いバインダーを三冊運んできた。

「個人の連絡先を伏せた写しです。追加の資料は今日中には出せません」

 灯里は礼を言った。資料を見る目的を聞かれ、音源の背景確認と書いた。それ以上の何かをしようとしている自分を、役所の紙にはまだ書けなかった。

 二〇〇〇年の地域交通協議会。ページをめくると、北階段は正式には「旧駅構内北側連絡路」と呼ばれていた。廃線後に土地の管理が町へ移った際、道路としては引き継がれず、建物の付属地になったらしい。利用を禁じる決議はなく、安全点検の対象に加えるという文言もなかった。

 灯里には、そこがずっと存在しているのに、何の項目にも入りきらなかったことが不思議だった。階段は確かにあった。三十六段あり、今朝も誰かが使っている。なのに紙の上では、一行の備考より軽かった。

 八月の議事要旨に「窯業学校及び工房利用者の徒歩到達時間を再確認する」とあった。九月は「案内の適正化を図る」。十月は「現行の案内を継続」。灯里は三枚を並べた。再確認して、適正化して、現行のままにする。その途中に何をしたのかが、要旨にはない。

「詳細な議事録はありますか」

「この時期は、保存されているのは要旨です」

「歩いた記録とか、調査票は」

 担当の女性は収蔵台帳を調べてくれた。結果は、交通関係の年度別箱が一箱あるということだった。閲覧には別の申請が必要で、早くても月曜日になる。今日は金曜日だ。灯里は焦りを飲み込み、申請書をもう一枚書いた。

 十一時半、相良から連絡が来た。有賀さんが会うと言っている。ただし録音はしない。写真も撮らない。メモは、書いたものを最後に本人に見せること。

 場所は、町立図書室の二階だった。灯里は売店で買ったパンを公園のベンチで食べ、約束の一時より十分早く着いた。階段を上り、二階の小さな学習室の前で立ち止まった。ここにも階段がある、と思った。人に会うだけのことに、歩く経路が幾つも重なる日だった。

 有賀千鶴は窓際に座っていた。五十代に見え、濃い緑のシャツを着ていた。机の上に布張りの手帳と眼鏡ケースが並んでいる。相良はいなかった。灯里が頭を下げると、千鶴は正面の椅子を示した。

「澄江さんが亡くなったと聞きました。お葬式には行けなくて」

「ありがとうございます」

「先に言います。私を、お母さんの思い出の中の困った人にしないでください」

 灯里は椅子に触れた手を止めた。千鶴は続けた。

「逆でも同じです。私を助けてくれた美談の相手にもしないで。何の話を聞きたいですか」

「七四番という録音があります。北階段の案内を作りかけて、完成しなかったものです。母とは違う女性が、そこを消すと私が間に合ったことになる、と言っています。その意味を確かめたいです」

「聞いたんですね」

「整理の過程で。許可なく誰かに聞かせていません」

「相良さんは?」

「機械の状態を確認していました。昨日、話をしました」

 千鶴は手帳を開かなかった。窓の外で、葉を掃く人が竹箒を持ち替えていた。灯里はノートの上部に日付だけを書いた。

「あれは私の声です。当時、共同工房で仕事を始めたばかりでした。右脚を怪我した後で、歩く速さが落ちていた。階段は上り下りできたけれど、休まずには無理でした」

 千鶴はそこで灯里の顔を見た。

「どこを怪我したのか、どうしてかは、今日の話に必要ですか」

「いいえ」

「では、それは書かないで」

 灯里は、右脚という言葉まで書きかけた手を止めた。歩行に休憩が必要だった、とだけ記した。

「工房は四時で終わり、北の停留所は十七分。案内では十分で歩けることになっていた。でも私が歩くと、二十七分かかりました。信号のない階段の道でも。最初は私が遅いだけだと思いました」

「何度か乗り遅れたんですか」

「五回。それから、作業を二十分早く切り上げるようにしました。仕事の引き継ぎは他の人に頼んだ。その人の帰りも遅くなる。私だけの問題とは言えなくなって、案内室に相談しました」

 灯里は、母が電話を取る場面を想像した。紫の習字袋を探した声と、同じ声だったはずだ。

「お母さんは、まず実際に歩こうと言ってくれた。相良さんも来ました。時計を三つ合わせて、駅前から工房まで、工房から停留所まで。一人ずつ歩いたんです。私は途中で二度休んだ。数字は、そのときに出ました」

「二十七分」

「ええ。ただし、私が歩いた日の私の時間です」

 千鶴はそこで初めて手帳を開いた。古い冊子ではなく、今の予定を書いている普通の手帳だった。巻末のポケットから、折った便箋を出した。

「それから私は、案内に幅を持たせてほしいと頼みました。階段がある、休む場所がない、迂回するとさらにかかる。その情報が先にあれば、私も帰る便を変えるとか、工房に仕事の時間を相談するとか、選べます」

「時刻変更を求めたわけでは?」

「求めました。でも、それだけではなかった。変えられないなら、変えられないとわかるように言ってほしかったんです」

 灯里は、昨日の結衣の言葉を思い出した。同じような問いが二十六年の間に離れて立っている。似ているからといって、一人の声をもう一人へ貸してよいわけではない。

「録音は、あなた自身がしゃべる予定だったんですか」

「お母さんが案内を読み、その後で私の体験を短く入れる案でした。『利用者の声』という言い方でしたね。試しに、私が歩いた時間を言った。休みながら二十七分、という言葉を」

「七四番には、そこがありません」

「でしょうね。別のテープか、その前を上書きしたのか、私は知りません。私が黙ったところが長すぎると言われて、お母さんが録り直しを提案した。私は、黙っている時間も歩いている時間だ、と答えました」

 灯里は顔を上げた。

「二十三秒の沈黙は、考えていた時間ですか」

「少し違います。言おうとしたら息が切れた。階段を上って来たばかりだったから。休んでから話せばいいと、お母さんは言いました。私も、それはそうだと思った。でも完成したものに、休む時間が全く残らないなら、伝えたいことが変わる。私はうまく言えなくて」

 千鶴の指が、便箋の折り目をなぞった。

「その話し合いの途中で、私が少し怒った。その声だけが残ったなら、残念です」

 灯里は胸の内で作りかけていた物語が崩れるのを感じた。母が誰かの声を切り取って黙らせた、という単純な事件ではなかった。録音には、その前の交渉が入っていない。それを知らない自分が、残った部分の意味を早く決めたがっていた。

「その後、案内は変わらなかったようです」

「私の申し入れは、翌月に取り下げました」

「どうして」

「共同工房の契約が変わったから。仕事を自宅ですることになりました」

 灯里は言葉を探した。申し入れたために仕事を失ったのか、と聞けば、また一つの物語ができてしまう。

「案内の件と、契約の変更には関係がありましたか」

「その場でそう言われたことはありません。私の作業量が落ちていたのも事実です。どこまで関係したか、今もわからない」

 千鶴は便箋を灯里の方へ滑らせた。二〇〇〇年十月二十五日の日付と、申し入れを取り下げるという文があった。末尾に、案内についての課題が解決したと認めるものではありません、と小さく書かれていた。

「これ、役場の写しには」

「入っているかどうか、私は知りません。私の控えです。写真を撮っていいです。ただし、名前の扱いは後で相談して」

 灯里はその場で使い道を決めないと約束した。撮った画像を千鶴に見せ、メモも渡した。千鶴は「仕事を失った」と書かれていないことを確かめ、歩いた日の天気を付け加えた。曇りで、風が強かった。晴れの日より疲れたのかもしれない。その程度の差も、数字を出すなら残してほしいと言った。

「お母さんは、その後、謝りに来ました」

 帰ろうとしたとき、千鶴が言った。

「何に対して」

「私の相談を、『個人差』でまとめたことについて。あなたの時間を町の説明から外した、と言いました」

「それで、許したんですか」

 聞いてしまってから、灯里は自分の無礼さに気づいた。

 千鶴は眼鏡をケースに戻した。

「許すかどうかは、録音を片づける人に渡す答えじゃありません」

「すみません」

「謝ったことは事実です。でも私は、その人の一生に丸を付ける係ではない。娘さんにも、その役を引き受けなくていいと思います」

 図書室を出ると、灯里の携帯に大庭から連絡が入っていた。月曜日の資料閲覧は可能。箱の中には当時の調査票が数枚ある。灯里はありがとうと返信し、北階段へ向かった。

 昼間の階段には人がいなかった。下の埋もれかけた一段に靴を置き、登り始める。最初の十二段は平気だった。次の踊り場で振り返ると、案内室の屋根が目の高さになった。母がここを歩いた。千鶴の少し後ろで、時計を見ながら。灯里には、その距離を美しい絵にしてはいけない気がした。

 途中で一度止まった。息が切れたからではない。ただ、止まれる場所を確かめたかった。踊り場は狭く、人が一人立つと、荷物を持った人は脇を抜けにくい。手すりの付け根から錆が流れ、壁に細い筋を作っていた。

 階段を登りきると、工房の煙突が見えた。白い煙ではなく、午後の空気の揺らぎだけが上がっていた。灯里は時計を止めなかった。帰り着くまでが、歩く時間だと思った。