CHAPTER 05 / 13

第5章 五人の平均

 日曜日の共同工房は、煙突の影から先に起きていた。

 灯里が着いたのは午前八時半だった。相良は門の前で、自動販売機の缶を両手に持っていた。一つを灯里に渡す。熱い茶だった。朝食を食べてきたかと聞かれ、灯里がうなずくと、相良はそれを確かめたかっただけのように歩き出した。

 工房の敷地には、焼き上がった器を入れる木箱が並んでいた。日曜だから休みだと思っていた灯里に、相良は、火の都合で休日が決まる仕事もあると言った。建物の奥で若い男が窯の温度を記録し、別の人が釉薬の桶を混ぜていた。

 相良はここで、週に二日、工具と機械の点検をしていた。バス会社は去年退職したという。古い運行表を探すにも、今は現役の担当者に頼まなければならない。町に長くいる人が、町のすべてを自由にできるわけではなかった。

「二十六年前、ぼくは四十歳前でした」

 工房の裏のベンチに座って、相良が言った。

「鉄道がなくなって、バスの便を守るのが仕事になった。赤字だと言われるたびに、乗る人がいると説明した。一分延ばせば折り返しが遅れ、その先の市の電車に接続しなくなる。時計の数字をつなぐだけで、一日が終わった」

「それで、歩く時間を短くしたんですか」

「短くしたのではなく、短い方を採った。測り直したのは五人。ぼく、工房の職員二人、学校の先生一人、有賀さん。ぼくら四人は八分から十二分。有賀さんは二十七分だった」

 相良は缶の口を指で押さえた。

「平均を出せば十三、四分になる。でも案内は、普通に歩いた場合の時間を書くものだと思った。ぼくら四人の平均なら十分。それを標準として出した」

「有賀さんは普通じゃないと」

「そういう説明にしたつもりはなかった。怪我をしたばかりの人の数字を、恒常的な案内に使うのは違う、と考えた」

「本人は休みながら歩く情報もほしいと言った」

「ええ。お母さんもそう言った。でも、案内を長くすると電話の回線がふさがる。基本の放送は一分以内にしていた。個別に問い合わせてもらえば説明できる、と言いました」

 相良はそこで茶を飲んだ。喉が小さく動いた。

「問い合わせをしなければ、その道が使えるかもわからないのにね。ぼくは、訊かれたら答えることを親切だと思っていた」

 灯里は何か言おうとしてやめた。相良が後から学んだ言葉を、今ここで採点するような返事になる気がした。

「録音をやめたのは、ぼくです。あの場で結論が出ないなら、録り続けても仕方がないと。有賀さんの話を聞く会と、案内を作る作業を、別の日にしようと言った」

「別の日は、来なかった」

「来ませんでした」

 相良は工房の壁を見た。新しい蛍光灯の器具が、古い配線の跡を横切っていた。

「翌週に、申し入れの取り下げが来た。ぼくはそれで終わったと判断した。お母さんは、解決したとは書いてない、と言っていた。でも、課題として継続する手続きを誰がするかとなったら、誰もしなかった」

「母もしなかったんですね」

「お母さんは案内室の契約職員です。会議で発言する立場ではなかった。でも、ぼくに何度も言うことはできた。それが十分だったとも思いません。ぼくには、少なくとも議題に載せる立場があった」

 灯里は足元を見た。ベンチの前は土で、乾いた小さな落ち葉が靴に触れていた。誰かが何もしなかった話は、誰かがひどいことをした話より、輪郭を描きにくい。相良の説明を、そのまま免罪にしてもいけないと思った。

「その後は、一度も見直さなかった?」

「ぼくの担当では、一度も。路線の見直しは何度もした。でも歩く道は同じだと思っていた」

 相良は空き缶を鞄の中へ入れた。

「今回の図面で階段が消えると聞いたとき、最初に思ったのは、古い手すりの事故を心配しなくてよくなる、でした。その次に、あれはまだ誰かの道だと思い出した。順番が、ぼくの中ではそうだった」

 灯里は結衣の地図を取り出した。相良は赤と青の線を見て、紙の下端にある小さな絵に気づいた。焼き物の箱を背負った人が描かれている。

「荷物を持って歩く時間は、測っていない」

「今度も、私たちが測るだけでは足りないですよね」

「足りません」

「だったら、どうすれば」

 相良はすぐには答えなかった。灯里は、その間を急かしたくなる自分を抑えた。

「困ってる人を集めて数字を出せば済む、と思わない方がいい。集まれない人がまた外れる。まず道を、条件として書く。階段の段数、勾配、幅、休める場所。それから利用者の時間を、一つの数字にしないで示す」

「それは大庭さんの仕事ですか」

「町がやるべきことです。でも、今のぼくらが情報を渡すことはできる」

 灯里は、母の代わりに町を直しに来たわけではない。七日で音源を整理するために帰ってきた。それなのに、もとの仕事へ戻る道がわからなくなっていた。全部を引き受ければ母と同じ机に沈み込むし、何も関係ないと言えば、今聞いたことを消すことになる。

 工房の扉が開き、白い前掛けの女性が出てきた。相良に呼ばれた見学者だと思ったらしく、灯里に新しい直売所の話をした。

「うちの品も置いてもらうことになったの。学校出た子の作品も。駅前に売る場所ができるの、やっとよ」

 灯里はうなずいた。工場の計画は、誰かの道をなくすために作られたのではない。だが、道がなくなることに変わりはない。その両方を同じ言葉で説明しなければならなかった。

「工場側と話す場は、ありますか」

 相良が女性に尋ねると、火曜日の午後に出店者の打ち合わせがあると言った。灯里は、自分がいきなりそこへ行くのは違うと思った。話したいなら、先に役場へ相談し、何を決められる場なのかを聞くべきだろう。

 帰り道、相良は北階段を下りず、工房の東側へ曲がった。

「一つ見てほしい場所があります」

 細い舗装路が、塀と倉庫の間を通っていた。急な階段はなく、ゆるく折れて案内室の東側へ下りていく。途中に黄色い柵があり、手書きで「搬入車専用」とあった。灯里は立ち止まった。

「ここを使えれば、学校から停留所まで近い」

「元は資材置場へ行く道です。土地は三つに分かれています。工房の組合、町、それから食品会社が買う部分。誰でも通れる道にはなっていません」

「階段を残すより、安全ですか」

「今のままでは危ない。車と人が同じ狭いところを通る。出口の見通しも悪い。柵を開ければよいという話ではないです」

 相良は柵の外から道の曲がりを指した。灯里は写真を撮った。希望の道、と名前をつけたくなったが、その先を自分が毎日通るわけではない。工場の車を運転する人にも、安全に出入りする道が必要だった。

 案内室へ戻ると、入口のガラスに一枚の紙が貼られていた。解体前の記録写真を撮りたい人は役場へ連絡してほしい、というお知らせだった。大庭の名前と番号がある。灯里の机には、小さな段ボール箱が置かれていた。売店の道子が預かったという。

 中には母の湯飲みと、一枚の封筒が入っていた。道子の字で「倉庫に置いたままだった」と書かれている。湯飲みは灯里が覚えていた白いものではなく、茶色の取っ手つきのカップだった。底の直径は、机の半円の跡にぴったり合った。

 封筒の中身は、母が退職するときの寄せ書きだった。お疲れさまでした、いつもありがとう。そんな言葉の間に、違う筆跡の短い一文があった。

 私の二十七分を、忘れないでください。

 有賀千鶴。小さくても、読む者を避けない字だった。

 灯里はしばらく、その文を見ていた。謝った後も、千鶴は母に忘れないでと言った。和解したとも、敵だったとも、それだけでは言えない。二人は、終わらなかったことを互いに知ったまま、同じ町で暮らしていたのだ。

 灯里はカップを洗った。縁に細いひびがあったので、飲むためには使わず、乾かして机に置いた。二十六年前の録音を母の思い出に回収しないこと。それが千鶴の求めたことで、自分にとっても必要だった。

 午後の作業で、保存する音源の分類を一つ増やした。完成、試作、内容確認保留。その下に、未完の協議に関する記録、と書いた。完成していないから保存価値がない、という選び方はやめた。ただし、公開できるという意味ではない。保存と公開を同じ箱に入れないよう、別の欄を作った。

 その欄を埋めるのは、母との会話をやり直すことに似ていた。似てはいたが、同じではなかった。母はもう答えない。灯里が聞く相手は、生きていて、次のバスに乗る人たちだった。

 夕暮れ、灯里は大庭へ二通目のメールを送った。階段の廃止だけを議題にするのではなく、工房と学校から停留所までの移動条件を確認する時間を設けられないか。東側の搬入路は安全上の課題があり、代替に使えると決めつけていないことも書いた。

 送信を押した後、すぐに返事を待つのをやめ、残りのテープを数えた。聞き終えたのは四十三本。七日で全部を聴く見積りは、初めから無理だったかもしれない。倍速なら終わる。でも声を倍にして聞くと、息を整える時間も半分になる。

 灯里は作業予定を引き直した。すべての箱を一度に空にする計画ではなく、何が未確認かを引き継げる計画へ。机の上のカップの中に、鉛筆を三本立てた。ひびのある器にも、今の自分が決めてよい使い道が一つあった。