伊藤博文
1885年
内閣制度の発足時に日本の初代内閣総理大臣となった
長州出身の政治家で、欧州の憲法制度を調査しました。大日本帝国憲法の制定や議会制度の整備に関わります。初代韓国統監も務め、日本の植民地支配へ向かう過程にも関わりました。制度づくりの功績と対外政策の影響を合わせて学びましょう。
第4部 · 第22章
1870年代後半〜1890年代 / 東京・各地の結社と議会
地点の位置関係を示す地図です。海岸線は現代の地形資料に基づき、当時の海岸線・国境・支配領域を表すものではありません。地形:Natural Earth(Public Domain)。
考える視点:法の文章と実際の力関係をどう区別するか
板垣退助らによる民撰議院設立の建白書は、議会を求める動きの目印です。には士族だけでなく、地域の有力な農民や知識人なども関わりました。税を納める人々が政治へ発言する仕組みをどう作るかという問いが広がります。
各地の結社、演説、新聞、私擬憲法は、将来の制度を考える場となりました。参加者の要求は一様ではなく、生活の不満や地域の事情も含みます。憲法を政府だけが作った物として見るのではなく、社会の議論と政府の対応を合わせて読みます。
自由党や立憲改進党などが組織され、国会開設を求める活動が続きました。政府は言論や集会を規制し、運動の一部では暴力的な事件も起こります。自由を求める理念と、実際に行われた方法や参加の範囲を分ける必要があります。
1881年の国会開設の勅諭は、将来の議会へ向けた準備を進める目印となりました。政府内部でも制度や人物をめぐる対立がありました。政治の展開を「政府対民衆」の二つの塊だけで説明すると、それぞれの内部の違いが見えなくなります。
伊藤博文らは欧州の制度をべ、憲法や行政の整備を進めました。1889年に発布された大日本帝国憲法では、天皇、議会、政府の権限や臣民の権利が定められます。権利に法律上の制限がある点と、天皇の権限を、現代の憲法と比較して整理します。
憲法は条文の言葉だけで政治を自動的に決めません。元老、政党、軍、官僚などの実際の力関係が運用に関わりました。国の制度を覚えるときは、法の規定と誰が決定するかの両方を見ます。議会の成立は新しい政治参加を生みながら、多くの人を対象外にもしました。
1890年に帝国議会が開かれました。衆議院の選挙権には性別や納税額などの条件があり、全員が投票できたわけではありません。予算をめぐる政府と議会の対立は、国家の仕事と負担を誰が決めるかという問題でした。
教育勅語は教育と国家への忠誠を結び付ける役割を持ちました。学校は知識を学ぶ場であると同時に、国民としての価値観を伝える場にもなります。教育の普及と思想の統制が同じ仕組みの中で進むことを、日々の生活へつなげて考えましょう。
議会と政治参加を求める運動の重要な目印です。
天皇、議会、政府、臣民の権利の枠組みが定められます。
議会と教育が、政治参加と国民の形成へ関わります。
この地域の前後の時代も含め、信仰・思想と暮らしの関係をたどる読み物です。
近代日本では神社の制度が国家によって整えられ、神社祭祀は一般の宗教とは区別される公的な営みとして位置づけられました。そのため「宗教ではない」とされる参拝と、個人の信仰の自由との間に緊張が生じます。国家神道という語は、近代の国家・神社・天皇をめぐる制度や思想を考えるために用いられますが、その範囲や成立の捉え方には研究上の議論もあります。
国家が何を宗教と呼び、何を公的な儀礼と呼ぶかは、実際の自由に影響します。参拝を公的な義務とみなす側と、自分の信仰との関係で受け入れられない側では、同じ行為の意味が違っていたからです。宗教の定義が中立的な分類にとどまらず、政治の問題にもなる例です。
憲法の条文 · 1889年に発布
条文を読むときは、天皇、議会、政府、臣民に関わる言葉を分けて探します。政治を決める権限と、人々に認められる権利は同じ種類の規定ではありません。「法律」の範囲で認められる権利を、どの機関が定めるかにも注目します。
条文の表現と、実際の政治の決定は区別します。法の枠組みを読み、議会の議事や政府の記録、新聞などと比べると、誰が判断に関わったかを検討できます。後の日本国憲法と比較する際には、主権、天皇の地位、権利をそれぞれ比べます。
同じではありません。法律による制限、裁判、政治参加などの仕組みと合わせて読む必要があります。名称だけで、現代と同じ権利の保障だと判断しないことが大切です。
出典:国立国会図書館|大日本帝国憲法の条文
本文を読んだ後の復習や、言葉を調べるときに使えます。
1885年
内閣制度の発足時に日本の初代内閣総理大臣となった
長州出身の政治家で、欧州の憲法制度を調査しました。大日本帝国憲法の制定や議会制度の整備に関わります。初代韓国統監も務め、日本の植民地支配へ向かう過程にも関わりました。制度づくりの功績と対外政策の影響を合わせて学びましょう。
1882年
東京専門学校を創設し、後の早稲田大学の基礎を築いた
佐賀出身の政治家で、財政や外交に関わり、首相も務めました。1881年の政変後に立憲改進党を結成しました。教育では政治や経済を学ぶ学校を設けます。政治活動と私学の創設を組み合わせ、伊藤博文らとの立場の違いも確認しましょう。
1874年
民撰議院設立建白書に名を連ね、自由民権運動を進めた
土佐出身の政治家です。国民の代表による議会の設置を求め、自由党の結成にも関わりました。自由民権運動には地方の人々やさまざまな団体も参加しています。建白書、運動の広がり、政党の成立という段階を整理すると理解しやすくなります。
1882年
ルソーの『社会契約論』を紹介し、自由民権の思想に影響を与えた
フランスで学び、民主主義や人民の権利について論じました。『民約訳解』によってルソーの思想を漢文で紹介します。『三酔人経綸問答』も代表作です。西洋の思想をそのまま写すだけでなく、日本の政治や社会の課題にどう生かすかを考えました。
板垣退助
「板垣死すとも自由は死せず」。国会開設を要求。
1889年
伊藤博文が起草。プロイセン憲法を参考。天皇主権。
板垣退助・後藤象二郎ら
1874年。自由民権運動の出発点。
1881年
10年後の1890年に国会を開設すると約束。
1885年
伊藤博文が初代内閣総理大臣。
1890年
「忠君愛国」。戦前の教育の根幹。
伊藤博文
1906年就任。1909年にハルビンで暗殺された。
板垣退助
1881年。フランス流の急進的自由主義。
大隈重信
1882年。イギリス流の漸進的改革主義。
「神聖にして侵すべからず」(主権者・統治権の総攬者)
天皇大権(統帥権・緊急勅令権など)を持つ。
1890年に国会を開設する
1881年。伊藤博文が憲法調査のためヨーロッパへ。
ドイツ(プロイセン)・オーストリア
グナイスト・シュタインに師事。1882〜83年。
伊藤博文
1888年。枢密院は天皇の最高諮問機関。
井上毅・元田永孚
1890年。儒教的道徳と天皇への忠誠を教育の根幹に。
民間が独自に作った憲法草案
植木枝盛の「東洋大日本国国憲按」など。先進的な人権規定も。
衆議院(選挙)と貴族院(華族・勅選議員)
1890年開設。貴族院は非公選。
大隈重信
1881年。イギリス流の議院内閣制を主張して薩長から排斥された。
自由党はフランス流急進派、改進党はイギリス流穏健派
自由党:板垣退助、改進党:大隈重信。
天皇が国民に与える形で制定された憲法
1889年2月11日発布。主権は天皇にある。
自由党・立憲改進党など政府に対抗する政党
「民力休養・政費節減」を主張し、政府の予算案に反対。
天皇への忠誠と道徳を国民全体に徹底する
1890年。御真影(天皇の写真)とともに学校に安置。
ハルビン(満州)
1909年10月26日。安重根に射殺された。
ドイツでグナイスト・シュタインに立憲主義を学んだ
1882〜83年。プロイセン型の立憲君主制を採用。
「法律の範囲内」で認められる(法律の留保)
表現・集会・信教の自由は法律で制限可能。日本国憲法との大きな違い。
立憲改進党
都市の実業家・知識人に支持基盤を持った。
国会期成同盟
愛国社が発展・改称して成立した。
中江兆民
『民約訳解』でルソーの社会契約論を翻訳・紹介した。
明治十四年の政変
大隈重信が政府を追われ、10年後の国会開設が約束された。
太政大臣
三条実美が最後の太政大臣を務めた。
枢密院
伊藤博文が初代議長として大日本帝国憲法草案を審議した。
教育勅語
戦後の1948年に国会で排除・失効確認の決議が行われた。
金子堅太郎
アメリカに留学し、憲法起草の実務を支えた。
本文を閉じて、この章の「背景 → 展開 → 結果」を自分の言葉で説明してみましょう。誰にどんな変化があったかも加えると、説明が具体的になります。
板垣退助
「板垣死すとも自由は死せず」。国会開設を要求。
1889年
伊藤博文が起草。プロイセン憲法を参考。天皇主権。
板垣退助・後藤象二郎ら
1874年。自由民権運動の出発点。
1881年
10年後の1890年に国会を開設すると約束。