源頼朝
1192年
征夷大将軍となり、鎌倉を拠点とする武家政権を築いた
御家人との主従関係を基礎に支配を広げ、守護・地頭の設置などを進めました。1192年は征夷大将軍への任命の年です。鎌倉幕府は段階的に成立したため、この一年だけで成立したと決め付けないことが大切です。土地の権利と軍事奉仕の関係を押さえましょう。
第2部 · 第10章
12世紀末〜13世紀前半 / 鎌倉・京都・各地の荘園
地点の位置関係を示す地図です。海岸線は現代の地形資料に基づき、当時の海岸線・国境・支配領域を表すものではありません。地形:Natural Earth(Public Domain)。
考える視点:幕府の成立を一つの年だけで説明できるか
源頼朝は鎌倉に拠点を置き、武士を組織しながら政治の仕組みを整えました。1185年の・の設置に関わる権限と、1192年の征夷大将軍への任命は異なる段階です。鎌倉幕府の成立を一つの年だけで説明せず、何の権限が整ったかを確かめます。
武士の政府ができても、朝廷や貴族、寺院の政治と土地の権利は残りました。鎌倉と京都は対立するだけでなく、権限を整する関係でもありました。幕府の成立は天皇の政治がすべて消えた出来事ではなく、複数の権力が並び立つ社会の変化です。
は将軍との主従関係を結び、土地の権利を認められると、軍役などのを通じて関係を維持しました。主従関係は気持ちだけではなく、暮らしを支える土地と仕事の仕組みでした。争いのときに誰が味方するかを左右する基盤になります。
頼朝の死後には有力の競争が続き、北条氏がとして政治を主導しました。将軍の名が残っていても、実際に決定する人は変わります。将軍、、を区別して読むと、人物の交代と制度の変化を混同せずに理解できます。
は軍事・警察の役割を担い、は土地の管理や年貢の徴収に関わりました。が置かれたからといって、領主の権利が直ちになくなったわけではありません。年貢や土地の範囲をめぐり、領主、、農民の間で交渉や争いが起こります。
請や下地中分は、土地や収益の管理を整する方法でした。年貢を納める約束や土地の分割によって、同じ場所に重なる権利を整理します。中世の土地を、現代の一人の所有者がすべてを決める土地と同じにすると、その仕組みを読み違えます。
1221年の承久の乱では、後鳥羽上皇の側に幕府が勝利しました。幕府は京都に六波羅探題を置き、西日本にも影響を広げます。勝利は土地や役職の再配分につながり、の力を変えました。軍事的な出来事と政治の制度を一緒に読みましょう。
北条泰時は1232年にを定め、武士社会の慣習に基づく裁判の基準を示しました。を全国で廃止して新しい法に置き換えたわけではありません。異なる法が、それぞれの社会と権限に関わって用いられました。法が誰の争いを、どんな根拠で裁くのかが重要です。
幕府の成立は、権限と制度が段階的に整う過程として理解します。
幕府の勝利後、京都と西日本への影響が強まります。
武士社会の慣習に基づく裁判の基準が示されます。
法と伝来の資料 · 1232年に制定・後の写本などを通じて伝わる
御成敗式目は、北条泰時のもとで武士社会の裁判の基準を示した法です。土地や役職をめぐる争いを、どんな根拠で判断するかに注目しましょう。法の名前を覚えるだけでなく、裁く人、訴える人、認められる権利を分けて考えます。
古い法は、後世の写本や注釈などを通じて伝わることがあります。制度が作られた年代と、目の前の本が書き写された年代は同じとは限りません。原本・写本・注釈・現代の解説を区別することも史料の読み方です。
そうではありません。朝廷、荘園領主、幕府などの権限と法が重なりました。誰の争いをどの場で裁くかを確かめることが重要です。
出典:国立公文書館|歴史と物語・年表
本文を読んだ後の復習や、言葉を調べるときに使えます。
1192年
征夷大将軍となり、鎌倉を拠点とする武家政権を築いた
御家人との主従関係を基礎に支配を広げ、守護・地頭の設置などを進めました。1192年は征夷大将軍への任命の年です。鎌倉幕府は段階的に成立したため、この一年だけで成立したと決め付けないことが大切です。土地の権利と軍事奉仕の関係を押さえましょう。
1221年
承久の乱に際して御家人の結束を促した頼朝の妻
頼朝の死後も鎌倉政治に強い影響力を持ち、尼将軍と呼ばれました。承久の乱では、頼朝以来の恩を訴えて御家人を動かしたと伝えられます。北条氏の権力拡大と幕府の安定に関わりました。将軍の地位に正式に就いたわけではない点も区別しましょう。
1232年
武家社会の裁判基準となる御成敗式目を制定した
鎌倉幕府の執権です。御成敗式目は武士の慣習や道理をもとに、土地争いなどを裁く基準を示しました。朝廷の律令をすべて置き換える法律ではなく、主に幕府の支配に関わる法です。権力の運営と裁判制度の整備が結び付いていたことを理解しましょう。
1221年
鎌倉幕府への討伐を企て、承久の乱で敗れた
院政を行い、朝廷の政治的な力を回復しようとしました。承久の乱では幕府側が勝利し、後鳥羽上皇は隠岐へ配流されます。この乱を境に幕府の朝廷への影響力が強まりました。和歌にも深く関わり、『新古今和歌集』の編纂を命じた人物でもあります。
源頼朝
1185年(実質)/1192年(征夷大将軍就任)。
後鳥羽上皇
朝廷と幕府の武力衝突。幕府が勝利し六波羅探題を設置。
北条泰時
1232年。武士の慣習に基づく法典。51カ条。
将軍が御家人に領地を与え、御家人が軍事奉仕する関係
封建制度の基本。
京都の監視と西国御家人の統括
承久の乱後に設置。北条一門が就任。
御家人の統率と軍事・警察
和田義盛が初代別当。
荘園の土地を領主と地頭で半分に分ける解決法
地頭の荘園侵略に対する妥協策。
「頼朝公の御恩を忘れるな」という趣旨の演説
御家人の団結を呼びかけ。「尼将軍」の名場面。
頼朝の側近・梶原景時が御家人に排斥された事件
1200年。頼朝死後の権力闘争の一つ。
北条時政が有力御家人・比企氏を滅ぼした事件
1203年。北条氏の権力独占への過程。
元寇に備えて九州の御家人に課した海岸防備の義務
元寇後も長期間続き、御家人の負担となった。
頼朝死後に合議制を担った13人の御家人・官僚
1199年。北条時政・義時・大江広元・三善康信・梶原景時など。
京都
1221年。朝廷監視と西国御家人の統括。北条一門から選出。
神社の修理と祭祀を怠るな
1232年。神仏への敬意が第一条に。武家社会の道徳観。
将軍と直接の主従関係があるかどうか
御家人は「御恩と奉公」の関係。非御家人は幕府の保護を受けない。
後鳥羽上皇
1205年。藤原定家が選者。幽玄の美。
御家人に排斥され一族が滅亡
1200年。頼朝の側近だったが嫌われていた。
北条泰時・北条時頼
御成敗式目の制定(泰時)、引付衆の設置(時頼)。
1232年
貞永元年のため貞永式目とも呼ばれる。
鶴岡八幡宮
参道の若宮大路は鎌倉の都市軸となった。
西面の武士
承久の乱に向けた軍事力増強の一環だった。
大番役
守護の職権「大犯三カ条」には大番役の催促が含まれた。
本領安堵
新たな所領を与える新恩給与と並ぶ御恩の柱だった。
霜月騒動
この後、得宗の専制政治(得宗専制)が強まった。
六波羅探題
北条氏一門が任じられ、西国支配の拠点となった。
足利尊氏(高氏)
後醍醐天皇方に転じ、幕府滅亡の決定打となった。
下地中分
荘園領主と地頭の紛争を解消する現実的な手段だった。
女子への相続(ただし本人一代限りの一期分が多い)
鎌倉時代の武家社会でも女性の財産権は一定程度認められていた。
御家人が売却・質入れした所領を無償で取り戻させること
かえって御家人への金融が滞り、混乱を招いた。
本文を閉じて、この章の「背景 → 展開 → 結果」を自分の言葉で説明してみましょう。誰にどんな変化があったかも加えると、説明が具体的になります。
源頼朝
1185年(実質)/1192年(征夷大将軍就任)。
後鳥羽上皇
朝廷と幕府の武力衝突。幕府が勝利し六波羅探題を設置。
北条泰時
1232年。武士の慣習に基づく法典。51カ条。
将軍が御家人に領地を与え、御家人が軍事奉仕する関係
封建制度の基本。