シルクコード図書館 · 小説の棚潮の届かない灯台 · 目次

潮の届かない灯台 · 全5部

五 誰かの明日

十月十三日の朝、町のあちこちで戸を開ける音がした。

 風が去ったあとの空は、洗いすぎた布のように白かった。澪が連絡所の玄関を出ると、靴の底に薄い泥がついた。坂の下では消防団の車がゆっくり進み、そのうしろを、ほうきを肩にした男が歩いていた。昨夜は水の動く音に紛れて聞こえなかった鳥の声が、電線から降ってきた。

 連絡所の長机には、避難先を確かめた家の一覧が残っていた。最後の一軒に確認の印が入ったのは、明け方近くだった。けがをして診療所に運ばれた人はいたが、命を失った人はいなかった。澪はその報告を聞いたとき、自分の椅子の脚が急に長くなったように感じた。地面に足が届いているのを、踵を踏んで確かめた。

 家に戻らず仮眠を取っていた律が、連絡所の窓を細く開けていた。机の上の紙が飛ばないか、振り返って確かめている。

「少し、空気を入れ替えます」

「外、思ったより冷えますよ」

 澪が言うと、律は窓の幅をもう少し狭めた。二人で空の段ボール箱を畳み、玄関脇へ重ねた。夜中に配られた菓子の包みが底に残っていて、律はそれを拾って分別の袋へ入れた。

 作業が済むと、二人は玄関脇の縁石に腰を下ろした。澪は水筒に残っていたぬるい茶を飲んだ。喉を通ると、ようやく自分が渇いていたことに気づいた。

「これから、何をするんですか」

「危ない場所の確認が先です。迂回水路も、開けたら終わりじゃない。護岸、流木、下流の土砂。閉める順番も決めなきゃいけない」

 律は一口飲んでから続けた。

「私は昼まで交代です。寝るように言われました」

「寝てください」

「真瀬さんも」

 互いの顔に、言われるまでもない疲れがあった。笑うと頰が少し痛んだ。

 昨夜、澪は何度も外へ出たくなった。そのたび、連絡所の壁に貼った地図を見た。地図に線を引く手も、電話の内容を復唱する声も、ここで必要とされていた。留まるという仕事を、彼女はようやく一晩分だけ覚えたのだった。

 そこへ航が、折り畳んだ毛布を抱えて現れた。

「姉ちゃん、店は無事。玄関の隙間からちょっと入っただけ。台所の床は乾いてる」

「見に行ったの」

「戻るついで。勝手に上がってごめん。冷蔵庫のもの、傷みそうなのだけ処分した」

「ありがとう」

「牛乳は捨てた。あと、サエさんが先週くれた白菜は無事」

 サエは苗の世話をする一方で、畑仲間から届く収穫物を人に分けることも多かった。先週、澪も大きな白菜を一玉もらい、半分を台所へ置いていた。

 白菜という言葉を聞いた途端、澪の腹が鳴った。航は黙って、持っていた袋から握り飯を一つ出した。

 店へ帰る道で、澪は二度呼び止められた。一度は自転車屋の前で、落ち葉を詰めた袋を運ぶのを手伝った。もう一度は、浸水した家の畳をどこへ置けばいいかを聞かれた。澪には答えられなかったので、連絡所で渡された紙を取り出し、担当の番号を一緒に確かめた。

 町が無事だった、という一言には入らないものが、道沿いにあった。濡れた座布団。泥の入った米びつ。水を吸って開かなくなった引き戸。数は少なくても、その家の人には暮らしの全部だった。

 菓子店の藤野は、裏口にしゃがんで木型を洗っていた。木型は水に長く浸してはいけないと、前に紗季が話していたのを澪は思い出した。

「何か、運びますか」

「運ぶものは済んだ。あんたは寝なさい」

「寝る前に一つだけ」

 藤野は少し考え、店の奥を指した。

「じゃあ、帳面。棚の上の黒いやつ。手がこんなんでね」

 澪は乾いた棚から帳面を取り、新聞紙の上に置いた。藤野は頁の端を指の背でめくり、昨日の注文に一本ずつ線を引いた。

「作れなかった分、連絡しないと」

「皆さん、わかってますよ」

「わかってるのと、知らせるのは違うでしょう」

 澪はうなずいた。店へ戻ったら、まず預かり品の持ち主に連絡しようと思った。

 修理店の扉を開けると、止まった時計たちが迎えた。

 停電で止まったものも、修理を待って止まっていたものも、同じ静けさの中にあった。窓辺の振子時計だけが動いていた。床に敷かれた古いタオルは、航が置いてくれたものだった。澪は靴を脱ぎ、濡れたタオルを集めて洗い桶へ入れた。

 作業台の一番奥に、記録館から戻った置き時計があった。丸い文字盤の下には、蓋付きの小窓がある。裏蓋を開けたまま、布をかけてある。底の「三」という鉛筆の字は、まだ薄く残っていた。母の手紙を取り出したあの朝から、澪は機構を記録することを優先し、本格的な修理を後にしていた。

 彼女は布を持ち上げたが、そのまま戻した。眠らずに精密な部品に触るのは、直す仕事ではない。

 客へ連絡を終えてから、二階で横になった。雨戸を開けた部屋に、乾いた風が通った。眠りに落ちる手前で、昨夜の電話の声が順序を変えて戻ってきた。数字をもう一度お願いします。そこは通らないでください。確認が取れました。その声の中に父はいなかった。いなくても、自分がここにいてよかったと思えることが、少し不思議だった。

 十五日、澪は航と一緒に灯台へ上がった。

 坂道には折れた枝があり、根元を洗われた草が斜面に伏せていた。二人は立入を止める縄の手前で待った。点検を終えた職員が合図してから、灯台の敷地へ入った。

 白い壁の下のほうに、泥が跳ねていた。扉の上に垂れた古い鉄の庇は片側が曲がっていたが、塔そのものに大きな損傷は見つからなかったという。光の止まった塔は、澪の記憶よりも小さく見えた。

 サエは物置の椅子に座り、膝の上で軍手を揃えていた。足首に包帯が巻かれていた。

「ひねっただけだよ。皆、骨が折れたような顔をする」

「お医者さんは、何て」

 航が聞いた。

「当分、階段はやめなさいって」

「じゃあ、やめてください」

「言い方が紗季に似たね」

 航は返事の代わりに、サエの脇へ持ってきた水筒を置いた。

 澪は床の隅に積んである紙箱を見た。湿気を避けるために移した観測帳が入っていた。表紙の年代も、書き手も、揃っていない。紙の大きさまで違っていた。

「これ、記録館で預かれますか」

 澪が航に尋ねると、サエが先に答えた。

「持っていっておくれ。ここじゃまた濡れる」

「寄託の手続きがいるけど、できます。返してほしい時に返せる形で」

「返す先は私でなく、この場所にしてほしい」

 航は一度うなずき、それから言った。

「その希望も書類にします。口で約束すると、次の担当者が知らないから」

 サエは軍手を置いた。うつむいた顔が少し硬くなり、澪は余計なことを言ったのではないかと思った。だが、やがてサエは、手の甲で膝を二度叩いた。

「そうだね。それを、もっと早くやればよかった」

 物置の外で、職員が庇の寸法を読み上げた。別の人が復唱し、手帳に書きつけていた。ありふれたやり取りを、三人はしばらく聞いていた。

「私は、ここを下りるよ」

 サエは窓の先の塔を見て言った。

「今度の足のことだけじゃない。この先も私に聞けばいいと、皆が思うのはよくない。私も、聞かれたら答えられるつもりでいる。それが危ないんだ」

「いなくならなくても、いいでしょう」

 澪は、自分でも驚くほど早く言った。

 サエが振り向いた。

「お茶を飲みに来てください。帳面を見て、違うと思うことを言いに。でも、一人で鍵を持って、一人で上がるのは終わりにする」

「それは、引退になるのかね」

「なるように決めましょう」

 サエは笑った。笑うと目尻の皺の間に、疲れがはっきり見えた。

「なら、私はそれがいい」

 帰り際、彼女は鍵束から塔の鍵を外した。すぐには渡さず、掌の上に載せて眺めた。丸い頭の縁が、指の形に磨り減っていた。

「役場の人に渡す時、付き合ってくれるかい」

 澪は、はい、と答えた。鍵を受け取る役を自分が引き受けなくてよいことに、安堵していた。

 十九日の夕方、店に一台の電気ストーブが戻ってきた。

 町内の集会所へ貸し出していたものだった。運んできた二人は、コードを巻き直し、足の裏まで拭いてくれていた。澪はその丁寧さに礼を言い、代わりに貸せる延長コードを一本渡した。片付けはまだ続いていた。床下の乾燥を待っている家も、家財を選別しきれない家もあった。

 澪は毎日店を半日だけ開け、残りの時間に片付けを手伝った。水をかぶった時計は、持ち主の了解を得て先に手をつけた。値段の高いものからではない。錆が進む速さに順番を合わせた。直せるかどうか、開けるまでわからない品もあった。

 ある客は、動かなくてもいいから洗ってほしいと言った。亡くなった夫が使っていた腕時計だった。澪は防水の失われたケースの内側を示し、どこまでできるか説明した。客は虫眼鏡を覗き込み、こんなに小さいんだね、と言った。

 その晩、料金表を書き直していた澪は、母の修理帳を開いた。

 修理の履歴を照らし合わせるためだった。革の表紙が柔らかくなり、角が丸まっている。一年前には、その帳面を開くことも辛かった。母が最後に使った鉛筆が、まだ溝に収まっていたからだ。

 修理の日付と部品番号、代金、受渡しの印。几帳面な字が並ぶ。その余白に、小さく別の字があった。

〈航、靴を片方だけ川に落とす。取りに行かせず。本人納得せず〉

 澪は声を出して笑い、すぐに帳面を両手で押さえた。

 次の頁には、こうあった。

〈澪、初めて一人でぜんまいを納める。夕飯の時まで指を丸めていた〉

 覚えていなかった。思い出そうとすると、作業台の灯りと、指先の油の匂いだけが浮かんだ。

 母は、修理の帳面に暮らしを紛れ込ませていた。頁の端には、白菜を塩で揉む時間、診療所の予約、サエへ届ける電球の型番。航の受験の日には、出発時刻が三度書き直されていた。澪の上京の頁には、ただ、窓側、とあった。列車の席だろうか。母が駅で何を見ていたかなど、当時の澪は考えもしなかった。

 父についての行を見つけたのは、夜が更けてからだった。

〈修の長靴を捨てた。中に乾いた砂。捨てても何も軽くならず〉

 その下には、一週間後の日付で修理代の計算が続いていた。

 澪は、頁から目を離した。窓に映った自分の顔は、母には似ていなかった。似ていてほしい時に限って、似ていないと思う。

 母は父のことを語らなかった。語らないまま、子供たちの食事を作り、店を開け、暮らしの細かい部分を繋いだ。それが精一杯だった日があったのだろう。けれど、澪が何も聞けずに育ったことまで、帳消しにはならない。

「知りたかったよ」

 声にすると、思ったより静かだった。

 知りたかった。母が何を怖れていたかも、父がどんな失敗をしたかも。好きだった人を、立派なまま遠ざけずに知りたかった。

 澪は新しい紙を取り、修理帳の何頁に生活の記述があるかを書き留めた。母の字の脇へ、自分の返事を書き込むことはしなかった。母の頁は、母のままにしておきたかった。

 電話をかけると、航はすぐに出た。

「明日、来られる」

「何かあった?」

「母さんの帳面に、あんたの靴のことが書いてある」

「あれ、まだ言われるの」

「覚えてるんだ」

「覚えてるよ。父さんに買ってもらったから、取りたかった」

 澪は鉛筆を持ったまま黙った。

 父の死後に起きた出来事だと思っていた。日付を見直すと、その少し前だった。自分の記憶にも、順番の入れ違いがある。帳面が全部を教えるわけではないが、思い込みを一つ留めてくれる。

「明日、それも聞かせて」

「うん。弁当を買っていく」

「白菜があるよ」

「白菜以外を買っていく」

 電話を切ったあと、澪は湯を沸かした。帳面のある机へ、湯気の届かない距離を取ってカップを置いた。

 航が作っていた展示の原稿は、父一人の話から始まらなくなっていた。

 記録館の閲覧室で、澪は机いっぱいに広がった紙を読んだ。十八年前の降雨量、旧水門の構造図、当時の連絡網。それぞれの資料に出典が書かれ、確認できない数字には空欄が残っていた。

「埋めないの」

「わからないものは、わからないと書く」

 航は付箋の角を押さえた。

「昔の話になると、皆、間を繋いでくれるんだ。たぶんこうだった、あの人ならそうしたはずだって。それを事実の欄に入れると、次に読む人は区別できない」

 父と同じ班にいた人、避難の呼びかけを聞いた人、連絡を待ち続けた家族。航は話を聞いた相手に原稿を返し、公開してよい部分を確認していた。名前を伏せたいという希望も、そのまま受けていた。

 澪が読んだ証言の一つに、父が戻ってくると思って弁当を残していた、という行があった。別の人は、指示を聞き違えたかもしれないと話していた。だが、当時の無線記録は残っておらず、どの言葉が誰まで届いたのかは確定できなかった。

 父の行動を、勇気とも、不注意とも、一つに括らない原稿だった。澪はそれを読み、胸の中の硬いところが、ほんの少し動くのを感じた。

「父さんを褒めない展示になるね」

「褒める場所がないわけじゃないよ」

 航は鉛筆を置いた。

「でも、褒めたら済むものにしたくない。助けようとした人が死んで、その人が偉かったから、で終わると、同じ仕事を次の誰かに渡してしまう」

 窓の向こうで、小学生の列が歩いていた。先頭の子が止まり、後ろの子も次々に止まった。先生が、道を渡る前に列を短く整えていた。

「姉ちゃんの話も、入れていい?」

「私の?」

「十二日の連絡所のこと。自分の判断で現場に行かなかった人の話も必要だと思う」

 澪は、しばらく考えた。

「私が、ちゃんとわかってたみたいに書かないで。行きたかったし、怖かったし、何度も立った。皆が戻してくれたの」

「そのまま書く。あとで読んで」

 澪はうなずいた。自分の言葉も、記録にすると確かめ直さなければならない。それは窮屈さより、安心に近かった。

 展示の最後の頁には、今後の観測と連絡体制についての説明があった。まだ決まっていない項目には、検討中と書かれていた。

「間に合わないから、いいことだけ書く、ってならなかったんだ」

「記録館の館長が、それは来月でも直せると言ってくれた」

「いい館長だね」

「締切は直してくれないけどね」

 二人は机の端で弁当を食べた。航の買ってきた卵焼きは甘く、澪の作った白菜は少し塩が強かった。互いに一つずつ取り替えて、窓から差す午後の日を避けるように、資料の山をずらした。

 二十三日、灯台の管理についての集まりが開かれた。

 会場は、まだ消毒の匂いがする集会所だった。浸水した家の人が、灯台の話より排水溝を先にしてほしいと言った。観光用に明るくするなら寝室に光が入らないようにしてほしい、という声もあった。澪は椅子の上で膝を揃え、それらの言葉を聞いた。

 灯台が好きだと言うだけでは、町の話にならない。彼女が見上げていた塔の下にも、夜を眠る家がある。

 役場の担当者は、応急対策と今後の設備を分けて説明した。地下水位の測定は続ける。新しい測定器を置くまで、複数人で数値を読み、定めた様式に記録する。通信方法も一つに限らず、停電の時の連絡先を別に用意する。塔の光は、安全上の判断をそれだけに頼る仕組みから外す。

 律は壁の図面の前で、古い迂回水路を指した。

「今回、流せたから、次も同じだけ流せるとは限りません。土砂を確認し、改修の要否を判断します。観測値を読む人と、水門を操作する人の連絡も、手順を揃える必要があります」

 誰かが、費用は、と尋ねた。すぐに答えられる金額ではなかった。担当者は予算の手続きと、先に実施できる点検の範囲を答えた。拍手の起きる説明ではない。だが、澪には、そこから話が進むのだと思えた。

 サエは杖を椅子に立てかけ、名簿に自分の名前を書いた。灯台守の欄ではなく、聞取り協力者の欄だった。

「昔は、少ない人数で回すしかなかった」

 発言を求められると、彼女は言った。

「だからといって、それがよかったとは言えない。私の覚えていることは、全部出します。ただ、私が覚えていることと、実際に起きたことが同じかどうかは、皆さんで確かめてください」

 澪はサエの背中を見た。小さな背中を、大きく見せようとは思わなかった。長く座っていれば腰も痛むだろうし、帰りの坂では休む必要がある。帰りに荷物を持とう。それだけを決めた。

 集まりが終わると、サエは塔の鍵を役場の担当者に渡した。受領の紙に印を押す前に、彼女は鍵の数を一緒に数え直した。

「一つ、足りないと思った」

 澪が見ていると、サエは笑った。

「違った。私の家の鍵だった」

 鍵束に家の鍵を戻す手が少し震えた。澪は見なかったふりをせず、紙が動かないよう端を押さえた。

 旧水門の時計が店へ運ばれてきたのは、その三日後だった。

 外した文字盤を、二人が板に固定して持ってきた。想像したより重く、縁の塗装は指に粉となってついた。水門の保守に使う新しい時計は、電源と時刻の確認方法を含めて別に用意される。古い時計は、機構を点検したうえで記録館に展示されることになった。

 澪は作業台を片付け、文字盤の表と裏を撮影した。傷も、後から書き足された印も、消さずに記録した。

 十一分。

 あのずれを知るまで、澪は正しい時刻に戻すことだけを考えていた。ずれには水の道を測るための意味があった。しかし、その意味を知らない人が時計を見れば、ただ誤った時刻になる。特別な知識を持つ人だけが正しく使える仕組みは、人が替わった日に危うくなる。

 展示では、針を十一分遅らせた状態に固定し、その用途と限界を説明する。動く時計として使わない。その方針を、澪は航と担当者に確かめた。

「止めるんですね」

 律が店に寄った時、文字盤を見て言った。

「動かすために、直すこともある。止めて伝えるために、直すこともあるんですね」

「錆は止めます。針も支えます。でも、傷は残します」

 澪は布の上の小さな螺子を指した。

「この穴、何度も締め直してあるでしょう。誰かが手を入れた跡まで磨くと、新しいものになってしまう」

 律は腰を折り、文字盤の裏を覗いた。袖口にまだ現場の土がついていた。

「お疲れですか」

「少し。今、書類が水路みたいに増えています」

「流せないんですか」

「下流が詰まってます」

 澪は笑い、椅子を勧めた。湯を沸かす間、律は店の入口の掛時計を見上げていた。

「あれ、合ってますね」

「実際に使うものは、正しくします」

「私の腕時計も、三分進んでいて」

「直しましょうか」

 律は腕から外して渡した。澪は標準の時刻を確かめ、針を合わせた。それだけなら、客から代金を取る作業ではない。返すとき、留め具の脇に挟まった細い砂も拭き取った。

「ありがとうございます」

「また進むようなら、見せてください」

「進まなくても、来てもいいですか」

 湯が沸いて、やかんの蓋が小さく鳴った。澪は火を弱めてから返事をした。

「お茶は、だいたいあります」

 律はうなずき、椅子に座り直した。二人は灯台の話をしなかった。駅前で売っているパンのこと、冬になると店の床が冷えること、律の部屋にはまだカーテンが一枚足りないことを話した。町の中で、互いが日々を暮らす人になっていくのを、澪は急がず受け取った。

 十一月の最初の土曜日、灯台の下に小さな案内板が立った。

 設備の本格的な更新はまだ先で、立ち入れる範囲も限られていた。案内板には、この場所がかつて地下水位の観測と連絡に使われたこと、過去の水害の記録を記録館で閲覧できることが書かれていた。見学の時間と、問い合わせ先もあった。伝説めいた言葉は一つもなかった。

 澪はサエに付き添って、そこまで歩いた。途中のベンチで一度休んだ。サエは小さな飴を二つ出し、好きな方を選べと言った。どちらも同じ包みだった。

「同じじゃないですか」

「選んだ方が、おいしいよ」

 坂の上から、町が見えた。屋根には修理のための布がかかり、川沿いにはまだ土嚢が残っていた。乾いた洗濯物を取り込む人がいて、その隣の家では、外へ出した家具を軽トラックに積んでいた。元に戻った、と言える景色ではなかった。それでも、昨日とは違う手が動いていた。

 灯台の扉には、新しい管理札が下がっていた。点検をした日付と、次の予定。二人分の名前が記されていた。

 サエは札を読み、もう一度初めから読んだ。

「字が大きいね」

「読みやすいです」

「私の帳面は、小さすぎた」

「鉛筆も薄かったです」

「そこまで言うかい」

 二人は笑った。

 光の試験があると聞いていたので、澪は時刻を確かめた。今度の光は、緊急の判断を伝えるものではない。観測設備の確認と、場所の存在を知らせるため、明るさや方向を確かめる試験だった。担当者が地上で連絡を取り、塔の中の人が応答した。

 短く、白い光が灯った。

 昼間の光は、夜ほど遠くへ届かない。澪には、塔の窓に白い紙を差し入れたように見えた。地上の担当者が記録し、向きを少し変えるよう伝えた。一度消え、もう一度灯った。

 サエは、何も言わなかった。眩しそうに目を細め、杖の柄を両手で握っていた。

 澪も言葉を探さなかった。母がこの光を見ていたことと、自分が今見ていることの間には、埋められない時間がある。知らない日々を、わかったことにはできない。それでも、同じ場所に立ち、新しい日付を一つ加えることはできる。

 帰り道、サエは来週の買い物の話をした。重い米は配達を頼むことにしたという。灯台の鍵を持たなくなった掌で、彼女は配達日を書いた紙を何度も探り、ようやく上着の胸ポケットから出した。

「水曜日だった。火曜日だと思ってた」

「書いておいて、よかったですね」

「ほんとにね」

 記録館の展示が始まる朝、澪は十一分遅れの文字盤を見に行った。

 針の下には、動作しない展示資料であると明記されていた。隣には同じ日の水路図があり、時間差が何のために使われ、なぜそれだけでは十分でなかったかが説明されていた。父の名前は複数の名前の中にあった。誰か一人を塔の頂上に立たせる展示ではなかった。

 航が、ガラスケースに残った指紋を拭いていた。

「どう」

「読める」

「感想が職人だな」

「ちゃんと、読めるよ。知らない人にも」

 航は布を畳んだ。少しだけ肩が下がった。

 澪は父の写真の前に立った。父はカメラを見ていなかった。誰かの持つ板の端を支え、口を開いていた。何を言っているのかはわからない。こんな写真が残っていたことも、澪は知らなかった。

 長く、父は失った人だった。これからは、知り直す人にもなるのだろう。写真の下に記された年代を読み、澪は次の資料へ進んだ。

 店に戻る時間が来ていた。

 店へ戻ると、澪は三番の置き時計の布を外した。

 持ち主の分からない品として、すぐに展示へ回すことはできない。航は以前の寄託相談を調べ直し、来歴と所有関係の確認を続けるという。いまは、澪が状態を保つために必要な手入れをして、その内容を記録することになった。

 鐘を打つ部分の軸には、古い油が固まっていた。澪は作業台の灯りを点け、部品を外して洗い、摩耗を確かめ、必要な箇所だけを整えた。内側の部品は、取り外す前後を撮影し、擦れや古い補修の状態を記した。動きを変える加工は加えず、残せる部分を残す。分からないまま調子を変えないように、母の言葉を今度は自分の仕事の手順にした。母が昔つけた小さな修理の印を見つけたが、その横に自分の印を重ねることはせず、別の場所に日付を残した。

 組み上げ、試験をした。

 小さな鐘が鳴った。店の広さには少し大きすぎる音だった。

 澪は反射的に肩をすくめ、それから笑った。固まっていた部分が、また動くようになった音だった。この時計がかつて数えた時間を、澪はまだ全部は知らない。知らない箇所は、調査を続ける人へ、知らないと書いて渡す。

 もう一度動かして確かめてから、実用の時計と取り違えないように巻きを解き、保管する。その予定を帳面に書いた。直したことと、解き明かしたことは同じではない。隣の紙には、母の余白を読みながら自分で始めた生活の覚書があった。

〈サエさんにもらった白菜を食べ終わる。航、卵焼きの店を教えず〉

 少し考え、その下へもう一行加えた。

〈サエさんと灯台へ。途中で休む。飴は同じ味〉

 店の戸を開けると、風が伝票の端を持ち上げた。澪は小さな石を重しに置いた。窓辺の時計の針は、正しい時刻を指していた。

 昼前、律が通りの向こうから手を上げた。片手には紙袋を提げていた。澪は戸口から、今開けたばかりの店の中へ彼を招いた。

 坂の上の灯台は、ここからは屋根の隙間に先端しか見えない。午後には二人一組の点検が入り、その結果は誰でも読める記録になる。次の担当は、その記録を読んでから鍵を受け取る。光が消えれば、消えたことを伝える相手がいる。

 澪は看板を表へ返した。

 扉の鈴が鳴った。これから預かる時計のために、作業台には空けておいた場所があった。

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