十月十日の朝、汐見原の空には、乾いた布を裏返したような薄い雲がかかっていた。
真瀬澪が時計店の雨戸を開けると、通りの向こうでパン屋の藤枝が看板を引っ込めていた。まだ開店前なのに、と声をかける前に、藤枝のほうが空を指さした。
「明後日は外に出しておけないっていうから、いまのうちに金具を直すんだ」
看板の端を留める金具は錆び、木の裏には長年の雨が黒く染みていた。藤枝は金槌を持つ手を止めて、澪の店の屋根を見た。
「そっちの樋も、落ち葉が詰まってないか」
「昨日、航と見ました。大丈夫です」
答えてから、澪は昨日の自分なら、見ておきます、と一人で梯子を出していたかもしれないと思った。航は屋根に上がらず、下で梯子を支えた。澪も軒先より上へは行かなかった。そんな小さな分担を、いちいち意識しなければまだできない。
仕事机の上に、修理途中の置時計が三つ並んでいた。分解したままの時計には薄紙をかぶせ、一つずつ、預かり番号と持ち主の名を書いた札を添えた。客の時計を置いて出る朝は、いつも急いで札を書き、いつも一枚くらい文字が読みにくくなった。今日は書き直した。戻る自分だけが分かればいいというやり方を、店の中から少しずつ減らしたかった。
母の手紙は引き出しにしまわず、小さな透明の袋に入れて鞄に収めた。何度も折り目を伸ばされた紙は、もう自分の形を保てなくなりかけている。十二の鐘を一つ遅らせて。その一行を見つけたときには、母が自分だけをどこかへ呼んでいるように思った。いまは、誰に渡すかを決められなかった情報が、ようやく手渡されようとしている気がした。
役場の会議室には、既に芦田律が来ていた。長机の上に広げた図面を肘で押さえ、紙コップの茶に息を吹きかけている。窓際には防災担当の森下と、建設係の職員が二人いた。真瀬航は記録館から借りた複製図を、筒から慎重に抜いていた。
「原本じゃありません」
航が先に言った。
「雨の日に持ち歩くなって、館長から三回言われたので」
「大切なのはそこに書いてあることだろう」
建設係の若い職員が言うと、航は笑った。
「はい。でも紙がなくなったら、書いてあることもなくなる時があります」
澪は空いていた椅子を引いた。律が彼女の前へ、一枚の表を滑らせた。灯台の測定記録を、昨夜から日付と観測地点ごとに並べ直したものだった。手帳の中でだけ通じていたサエの記号には、すべて説明がついていた。ただし、いくつかの欄は空白で、そこには未確認、と印字されていた。
「空いているところは、埋めないんですか」
澪が聞くと、律は首を振った。
「分からないところを分かった形にすると、後で困ります。サエさんにも、覚えていないことはそう書いてもらいました」
記録の端に、丸みのある鉛筆の字で、たぶん、と書かれた箇所があった。そこは表の中では推定になっていた。正しい文字へ置き換えるのではなく、言葉が持っている頼りなさごと移す。修理とは違う仕事の仕方だと澪は思った。時計なら、針が抜けているところへ正しい針をつけなければならない。記録には、針がないまま残しておくべき場所がある。
森下は窓の外を一度見てから、資料の束を揃えた。
「今度の雨で、必ずここが溢れるという話ではありません。けれど、迂回水路がないものとして準備する理由はなくなりました。使えるかどうかは担当で確認します。避難の案内は、それと別に進めます」
その切り分けを聞いて、澪の胸にあった固いものが少し緩んだ。迂回水路さえ見つかれば、誰も逃げなくて済む。いつのまにか、そんな都合のいい結論を願っていたのかもしれない。律も何も言わず、避難所の位置が記された地図を自分の手前へ寄せた。
「灯台の光は、役場でも見られますか」
職員の一人が尋ねた。
「晴れていれば、西側の窓から」
澪が答えかけると、律が続けた。
「ただ、今回は見えることを前提にしません。風雨で遮られるし、電気も止まるかもしれない。サエさんの記録は、いまある連絡先に集めてもらいます。光は、今まで情報を運んできた方法の一つです」
澪は鉛筆で、その言葉を自分のノートにも書いた。方法の一つ。灯台の明かりを追ってここまで来たので、それが消えれば道そのものがなくなるように思っていた。
会議の途中でサエが来た。濃い鼠色の上着に、小さな風呂敷包みを抱えていた。職員が椅子を差し出すと、サエは座る前に、長机へ包みを置いた。
中から出てきたのは、角の擦り切れた帳面が四冊だった。
「持ち出してよかったんですか」
澪が聞いた。
「持ち出さないと、あそこにしかないままだろう」
サエは、少し腹を立てたように答えた。しかし怒っている相手は、澪ではないようだった。
「全部、ここで写しておくれ。私の字が読めないところは、いま聞いて。夜中に電話されると、私は寝ぼける」
森下が頭を下げた。サエは手を振り、澪の隣へ腰を下ろした。風呂敷を畳む指に力が入り、爪の際が白くなっていた。
「灯台は、誰が見るんですか」
「見に行く必要があれば、役場の人と相談する。私が勝手に決めることじゃない」
言い終えるまでに、サエは一度、口を閉じた。それだけの言葉を言うのに、彼女は高い階段を下りるような息の使い方をしていた。
「でも、灯りをつけるのは」
「澪さん」
サエは彼女の名を呼んだ。
「私は、あの塔の中に座っていれば安心したんだよ。自分がまだ役に立つ場所だと思ってた。だけどね、私が濡れた階段で転んだら、誰かが迎えに来なきゃならない。雨の中を」
帳面の表紙へ、サエの掌が置かれた。
「それを、守っているとは言えないだろう」
澪は返事をしなかった。返事の代わりに、サエの前にあった紙コップを、手の届きやすいところへ寄せた。
その日、帳面の複写が終わるころには、会議室の窓に夕暮れが映っていた。航はサエから聞き取った記号の説明を読み上げ、サエは二か所だけ言い直した。確認を終えた資料は、役場と記録館と、臨時の連絡所に同じものが渡ることになった。一人が持って帰らない。そのための手間に、午後が丸ごと使われた。
帰り道、澪と律は商店街を並んで歩いた。風が強くなってきて、雑貨屋の吊り看板が、金具の中で短く鳴った。
「旧水門の時計は、明日見ます」
澪が言うと、律は立ち止まった。
「一緒に、ですね」
「……一緒に」
「修理は真瀬さんに頼みます。時計の周囲の安全や、水路の確認は私たちがやる。途中で必要なものが出たら、取りに戻る係も決めます」
澪は頷いた。しかし律は、まだ歩き出さなかった。
「一緒に行って、途中から一人になるのもなしです」
「そんなこと、しましたか」
律は黙って彼女を見た。澪のほうが先に目を逸らした。
「しましたね」
「私もあります。分かっている人が、分からない人に説明する時間を惜しんで、自分でやる。それで後がもっと遅くなる」
律は肩にかけ直した鞄の紐を、両手で握った。
「今回は、説明する時間も仕事に入れましょう」
店へ戻ると、航が弁当を二つ持って待っていた。母のいたころは、こういう夜に鍋が火にかかっていた。蓋を取ると湯気が上がり、あまり食べないつもりでも、結局、茶碗をもう一度差し出した。いま、カウンターに置かれた弁当の蓋には、買ってきた時についたのだろう、水滴が一つ残っていた。
「明日、俺は避難所になる集会所にいる」
航は割り箸を袋から出しながら言った。
「館のほうは?」
「地下の資料を上へ運んだ。明日の貸し出しは休み。館長も集会所に行く」
澪は、弟がそのことを決めるまでにしただろう相談を想像した。自分の知らないところで、航も誰かに頼り、誰かから仕事を渡されている。
「姉さんは、律さんに連絡した?」
「一緒に水門へ行く約束をした」
「一人で行くな、って言われた?」
「どうして分かるの」
航は弁当の隅の煮豆を箸でつまんだ。
「家族だから」
それ以上言わずに食べる弟の顔に、母の面影を探しかけて、澪はやめた。航は航の顔で、疲れていた。彼のために湯を沸かし、茶を淹れた。
十月十一日は、朝から細かい雨になった。
旧水門へ向かう車には、澪と律のほかに建設係の職員が乗っていた。車窓の向こうで、畑の土が濃くなっている。澪は工具箱を膝の上に置き、留め金を二度確かめた。何度も来た道だったはずだが、田の区切りも、道端の木も、記憶と同じ形ではなかった。過去に近づこうとしていた場所が、普通の雨の朝の景色として目の前へ現れた。
水門脇の時計室には、先に担当者が来ていた。周辺の確認を済ませたと告げられ、澪は初めて、工具箱を持って車を降りた。傘の端から水が落ち、長靴のつま先にかかった。
時計室の時計は、低い音を立てて動いていた。十一分遅れている針を見ても、もう直さなければ、とは思わなかった。遅れは故障ではなかった。ただし、その遅れを保つ機械にも、故障は起きる。
澪は作業前に、どこを確かめるかを律へ話した。蓋を外す順番を説明していると、まどろっこしく、自分の手が止まっていることが気になった。だが律はうなずくたびに、手元の紙へ何かを書いていた。
「途中で私が席を外しても、次の人が分かるように」
彼はそう言って、その紙を澪へ見せた。澪の言葉は、短い行になって並んでいた。作業を説明することは、相手の頭へ自分の手を一本増やすことなのかもしれない。黙って修理をしていた母の横顔を思い出した。母も説明できたはずだ。ただ、誰も、母の手が止まるだけの時間を待たなかったのかもしれなかった。
時計の中に、大きな損傷はなかった。湿気で動きの悪くなった箇所を整え、浮子から指針へ動きを伝える糸と歯車を確認した。律が外の見尺を読み、澪は箱の中の針の位置を答えた。基準となる高さに変わりがないことも、担当者と確かめた。
「灯台の鐘、昔は昼飯の合図だったんですよ」
外にいた職員が言った。
「うちの祖母が、正午にあれが鳴るまで畑にいたって」
「こちらの時計では、十一時四十九分ですね」
澪が言うと、職員は箱の文字盤を見た。
「同じ時に、違う数字を見ていたんですね」
灯台で手引きされる鐘と、この箱の時計は、機械でつながっているのではなかった。聞いて、見て、違いを確かめる人が二つを結んでいた。その手間を省けば、意味のある遅れも、ただの故障として消されてしまう。
律は時計を正午へ合わせ直さなかった。役場で共有された時刻と、ここに保たれてきた遅れとを照合し、明日の観測ではどの記録を基準にするか、担当者と確認していた。澪は脇で聞き、分からない言葉が出ると尋ねた。分からないまま頷くのをやめることにも、練習が要った。
帰り際、時計室の戸に父の名を探した。刻み傷も、書き付けもなかった。ただ、戸の下の木が、何度も靴に触れて丸く削れていた。父一人の場所ではない。それを寂しいと思い、同時に、少し安心した。
昼過ぎ、役場の一階に臨時の連絡所が設けられた。会議室から運ばれた机の上に、時計、地図、電話、筆記用具が並んだ。澪は自分の店から、針の見やすい丸時計を一つ持ってきた。壁へ掛けると、森下が見上げて、ありがとうと言った。
「遅れてません」
澪が言うと、森下は一瞬困った顔をし、それから笑った。
灯台の帳面の写しは、地図のすぐ隣に置かれた。誰かが、古い記録、と付箋を貼ろうとしたが、律が止めた。
「今の観測と並べるものなので、地点名にしてください」
付箋が貼り替えられるだけで、紙束の扱いが変わった。由緒ある昔話から、これから使う資料になった。サエはその様子を、入口の椅子から見ていた。
「雨がやんだら、返しておくれよ」
「返します」
航が言った。
「写しは、置いていってください」
サエはしばらく返事をしなかった。時計が六つ、七つと時を刻んだ。
「ああ」
その一言の後で、彼女は椅子の背にもたれた。
夕方までに、低い土地の住民へ早めの移動を促す案内が出た。澪は集会所へ毛布を運ぶ仕事を手伝った。雨に濡れないよう袋に入れた毛布は、大きいのに軽かった。抱えた腕の内側だけが、次第に暑くなった。
集会所では、航が受付の紙を押さえていた。戸を開けるたびに風が入り、紙の角が浮く。小さな子が履いてきた長靴を、左右逆に揃えた。年配の男が家の戸締まりを心配して、何度も窓の方へ歩いた。誰かが湯を沸かし、紙コップを並べた。
澪は、避難とは走って逃げることだと思っていた。だが目の前で始まっていたのは、薬の袋を探し、充電器を借り、濡れた上着をどこへ掛けるか相談する時間だった。安全な場所へ来ても、暮らしは止まらない。止めないために、こんなにたくさんの物と手が要る。
藤枝が大きな袋を二つ持ってきた。焼いてあったパンを、売るには早く、持ち帰るには多すぎるから、と言った。袋を渡すと、彼はすぐ帰ろうとした。
「藤枝さんの家も、移動する区域ですよね」
航が声をかけた。
「店を、もう一度見てから」
「見てきたって、さっき」
藤枝は入口で止まった。雨が背中のシャツへ霧のように吹き込んだ。澪は、店の時計を置いてきたときの、胸のざわつきを思い出した。
「うちも、閉めてきました」
彼女は言った。
「気になります。いまも。でも、閉めてあります」
藤枝は彼女の顔を見た。やがて袋から食パンを一つ取り出し、受付の机へ置いた。
「じゃあ、明日の分も置いとく」
彼はそのまま、家族のいる奥の畳へ上がった。
十二日の朝、雨音は、音というより建物の外側を覆う厚みに変わっていた。役場の玄関のガラスには、水が横向きに走った。遠くの灯台は、白い空気の中へ溶けている。
澪は連絡所の机で、各地から届く報告の時刻を書き留めた。声を聞き、復唱し、紙へ書き、隣の職員へ渡す。単純な作業なのに、一つ前の数字を頭に残したままだと、次の数字を書き違えそうになった。途中で消した箇所は、読み返せるよう線一本で残した。律が最初に言っていたやり方だった。
午前のうちに、水位の上昇を示す連絡が続いた。森下は担当部署と話し、避難の対象を広げた。町内放送は雨音に押され、窓を閉めた室内では言葉の端が欠けた。放送で伝わらない家には、定められた連絡網で確かめていった。澪の携帯にも、店の近所の人から短い返事が入った。着いた、の二文字を見て、初めてその人の無事を待っていたことに気づいた。
サエは午前中、別の職員に付き添われて集会所へ移った。連絡所を出る前に、帳面の写しへ目を落とし、律の席を探した。
「昔の呼び名で電話してくる人がいるよ。三番井戸は、いまの南の観測所。そこだけ、気をつけて」
律は復唱して、地図へ書き込んだ。
「ほかには」
「思い出したら、電話する」
サエは肩の鞄を直した。灯台へ向かう時に持っていた小さな革袋も、その中に入っているらしく、底が四角く張り出していた。
澪は玄関まで見送った。サエが車へ乗り込む前に、灯台のある方へ顔を向けた。雨に隠れて、塔は見えなかった。サエは傘をすぼめ、後部座席へ座った。見えないものを確かめるために戻ることはしなかった。
十一時を過ぎたころ、連絡所の蛍光灯が一度、白く瞬いた。誰も声を上げなかったが、全員が同じように天井を見た。数分後、窓際の職員が、灯台の光が確認できないと言った。雨脚が急に強まったせいなのか、電源の問題なのか、その場では分からなかった。
やがて町の一部が停電したという報告が届いた。連絡所の照明も落ち、用意されていた灯りに替わった。壁の丸時計だけは、何も起きていないように動いていた。澪の手が、鞄の工具箱へ触れた。
灯台へ行けば、見ることはできる。どこが止まったか、分かるかもしれない。母が立った階段、サエが毎晩上った階段、その先の暗い機械室が、強い形を持って頭に浮かんだ。
「真瀬さん」
律が呼んだ。顔を上げると、彼は紙を一枚差し出していた。
「ここの時刻を、前の報告と並べてもらえますか」
澪は工具箱から手を離した。
「灯台は」
「確認の連絡をしています。外へ出る判断は、担当がします」
彼の声は穏やかだったが、その先を曖昧にはしなかった。
「いま、ここでしかできない仕事があります」
澪は紙を受け取った。指に、少し汗をかいていた。
報告の時刻を並べると、上流側の変化と、盆地側の変化が、同じ瞬間を指していないことが見えた。昨日までは意味を知っているだけだった十一分が、いまは連続観測で変化を確かめるための比較の間隔として紙の上にあった。安全に待てる猶予を保証する数字ではなかった。
正午前、律は水路の担当者と短く話した。実際の正午に上流で水位を記録し、十一分後、旧水門の記録器が十二時を示すころの水位と照合する。その手順は、役場側にも既に共有されていた。灯台で正午に鳴らしていた検査鐘は、時計の遅れを確かめる合図だった。今日は鐘の音に頼らず、共通の時刻で記録する。現地の確認を担う担当から、連絡が入ることになっていた。
「音が届かなくても、記録は届くんですね」
澪が言うと、律は電話の受話器を耳へ当てたまま、小さく頷いた。
十二時になった。壁の時計の分針が上を向いた。
澪は母の手紙を取り出さなかった。紙の中の言葉は、いま、何人もの人の声に変わっていた。森下が一つの部署へ状況を尋ね、隣の職員が避難所の受け入れを確かめる。律は電話口の言葉を繰り返し、澪は時刻を書く。時計の針は、誰かのために止まって待つことをしなかった。
十一分後、観測の連絡が届いた。
律は返事をしてから、前の記録へ指を置いた。澪はその指の先を見た。上流で先に現れた変化が、盆地側の数字と重なり始めていた。ただし十一分は、平常時の測定で得た目安だった。水量の増えた今日は変化の伝わる時間も変わり得る。律は一組の数字だけで決めず、その前から続く報告をずらしながら並べ、変化の形を確かめた。一方で、別の地点の動きは、通常の経路だけでは説明がつかなかった。
「ここ、昨日の図面の分岐ですか」
澪は尋ねた。
「そうです。けれど、私たちだけで決めません」
律は手元の比較表を、担当者へ渡した。担当者は資料を持って隣室へ行き、すぐに別の職員と戻ってきた。話は古図面の線から、現在の確認結果へ移った。古い水路が図にあることと、いまそれを使えることは同じではない。彼らはその間を一つずつ埋め、まだ埋まらないところは、埋まっていないまま指揮する人へ伝えた。
澪は机の端を握っていた。何かを決める時間が長く感じられた。父が水門へ向かった日のことを、誰かが今すぐ結論にしてくれないだろうか。そういう、自分のための焦りが混じっていると分かった。
判断に使うのは、現在の雨量と複数地点の水位、下流の状況だった。古い計器の記録は、流れの変化を読み解くための比較資料として添えられた。
森下が戻ってきて、迂回水路を使う判断が出たと告げた。操作は確認済みの設備から、担当の職員が遠隔で行う。現地へ誰かを向かわせて手で動かすことはしない。避難の案内は続ける。
「ここでは、結果の連絡を受けます」
森下はそう言い、各自の役割をもう一度確かめた。
澪は頷き、白紙を一枚、机の中央に置いた。
雨はさらに強くなった。窓の外にある街路樹が、一方向へ深く曲がったまま戻らない。電話の声が途中で途切れ、掛け直しになった。澪は、途中まで聞こえた数字を記録欄へ入れず、未確認の紙へ書いた。手が先へ進もうとするのを止めるたび、身体の中に細い痛みが走った。
しばらくして、操作完了の連絡が届いた。それから変化が現れるまでの時間は、これまでのどの十一分より長かった。開けたから助かる、と誰も言わなかった。机の上の地図には、既に避難を済ませた区画が、ひとつずつ印されていた。
集会所から航の連絡があった。受け入れた人は全員、室内へ入っている。体調が悪くなった人には、担当者が付き添っている。サエもいる。最後の言葉だけが弟の声になって、少し低く聞こえた。
「姉さんは?」
「役場にいる」
「知ってる。そこにいて」
澪は、はい、と答えた。弟に敬語を使ったのがおかしくて、一瞬、二人とも黙った。
「いるよ」
言い直すと、航は、それならいい、と言った。
午後は、何度も同じ時刻を書き間違えそうになった。澪は一度、鉛筆を置き、隣の職員と交代して水を飲んだ。休む時間にまで、誰かの手を借りる。席から離れて窓際へ行くと、雨の向こうに商店街の屋根が見えた。自分の店は、角の建物の陰だった。
店の柱には、父が幼い澪の身長を記した線が残っている。母はその上から壁紙を貼らなかった。二人がいない店へ水が入ったら、と考えると、いまも足が玄関へ向きかけた。
それでも、戻るためにここにいるのだと思った。柱一本を守るために誰かを呼び戻すのでなく、帰れる人が帰る場所として、店を残しておく。その順番を、父の時にも、誰も間違えたくなかったはずだ。間違えたくない気持ちだけでは、順番は守れない。
休憩から席へ戻る前に、澪は廊下の洗面所で手を洗った。蛇口の水がいつも通り流れることに、妙に驚いた。鏡の中の顔は、昼から急に老けたように見えた。前髪を指で直し、濡れた手を拭いていると、隣の洗面台へ森下が来た。
「家の方は、連絡つきましたか」
澪が尋ねると、森下は水を止めて頷いた。
「妻と子は、隣町の実家へ。朝のうちに」
「よかった」
「よかったです。でも、ここに来ている人の家族を、全員同じようには確かめられない。それが、時々こたえます」
森下は鏡に向けて言った。澪は、自分の家のことを考えるたびに抱いていた後ろめたさを、どう言えばいいか考えた。
「心配する順番まで、揃えなくてもいいんじゃないでしょうか。仕事の順番を、間違えなければ」
言ってから、誰かへ聞かせるための言葉ではなかったと気づいた。森下は紙で手を拭き、それを小さく畳んだ。
「そうですね。戻りましょう」
二人が戻ると、連絡所では次の電話を受けていた。澪の椅子の前には、交代していた職員が、確認済みの紙を向きを揃えて置いていた。
夕方、迂回水路側の変化が確認された。盆地側の上昇はなお続いていたが、その勢いに変化が現れたという。律は椅子の背へ一度だけ身体を預け、それから、次の報告を待つ欄を作った。
「間に合ったんですか」
澪は小声で聞いた。
「今のところ、判断したことが、予想した方へ働いています」
律は目を閉じて開いた。
「そう書いておきましょう。まだ途中です」
澪は、まだ途中、と余白へ書いた。小説や時計なら、終わった場所に印をつけられる。雨の夜には、終わりの線を先に引くことができない。
暗くなってから、食事の包みが連絡所に届けられた。藤枝のパンが一つ入っていた。澪は半分を食べ、残りを袋へ戻した。律は机の上に落とした小さなパン屑を、紙の端で集めた。その細かい動作を見ていると、急に、彼も自分と同じように眠く、肩が痛く、帰りたい一人なのだと分かった。
「交代、あと三十分です」
澪が時計を見ると、律は笑った。
「先に寝たら起こしてください」
「説明する時間も仕事に入れるんでしょう」
「寝言は、記録しないでください」
笑いは短く、すぐ電話の音に消えた。それでも、その短さの中に、普段の町の時間が残っていた。
夜半を過ぎ、水位の報告は少しずつ落ち着いた。強い雨域が町を離れつつあるという情報が入ったが、森下は帰宅の話をしなかった。暗いうちに安全を確かめることは難しい。避難所には、そのまま留まるよう案内が続いた。
交代の職員へ資料を渡すとき、澪は十一分の説明を最初からした。相手は途中で二度質問し、澪は二度、言い直した。説明が終わると、机の上に置いた紙から、自分の手が離れた。置き去りにした感じはしなかった。渡したのだと分かった。
控え室の長椅子で、澪は目を閉じた。眠りの入口で、水門へ向かう父の背中が見えた。記憶なのか、何度も想像したせいで形になっただけなのか分からない。呼び止めようとして、声は出なかった。
代わりに、現実の部屋の外で、誰かが誰かの名前を呼んだ。はい、と返事があった。椅子を引く音。紙を束ねる音。途切れず続く小さなやり取りが、澪を浅い眠りへ運んだ。
目を開けると、窓の黒さが薄れていた。
雨音はまだしていたが、一枚の厚い壁ではなく、一つずつの滴に戻りつつあった。廊下へ出ると、律が紙コップを二つ持っていた。
「起こそうか迷ってました」
「いまは?」
「大きな変化はありません。確認を続けています」
彼は片方の紙コップを渡した。中の茶は、飲める温度になっていた。
集会所からの朝の連絡で、避難している人たちは全員無事だと確かめられた。サエは少し眠ったという。航も交代で休んだ。現地の担当者たちも、決められた場所へ戻っていた。名簿の上の印を眺めて、澪はようやく、息を深く吸った。
東の空が、濡れた灰色の中から少しずつ明るくなった。灯台はまだ見えない。光が戻ったという知らせもなかった。
澪は窓から離れ、連絡所の机へ戻った。新しい一枚の紙に日付を書き、その下へ、朝の最初の報告時刻を記した。壁の時計が、小さな音で進んでいた。