十月四日の朝、澪は店の掛け時計を全部止めた。
昨日は旧水門の前まで行ったが、管理者への確認が取れず、外観を見ただけで帰ってきた。今朝、律から立入りの了承を得たと連絡があった。航は記録館の開館当番で、一緒には来られない。分かったことを後で持っていく約束をした。
止めたといっても、振り子に細い紙を挟んだだけだ。客から預かっている時計まで触るわけにはいかないので、店の壁にある売り物の七台だけを止めた。いつもなら気にも留めない針の声が消えると、裏口の樋を流れる水の音がした。昨夜の雨が、屋根のどこかにまだ残っている。
作業台には、旧水門の鍵と母の手紙を並べて置いた。鍵の軸には茶色い油が固まり、歯の一つに白い石の粉が付いていた。母の筆跡で書かれた「十二の鐘を一つ遅らせて」という一行を、澪はもう暗記している。それでも紙を見てしまう。覚えている言葉と、実際に残された言葉が、夜の間に別々のものになっていないか確かめたかった。
九時より少し前に律が来た。肩に測量用の袋を掛け、手には紙袋を持っている。
「朝ご飯は」
「食べた」
「それなら昼の分です。途中に店がないので」
紙袋には、駅前のパン屋の丸パンが四つ入っていた。澪は礼を言って、小さな工具箱を閉じた。
「水門の錠前、開くと思う?」
「扉そのものが動くかどうかですね。鍵があるのは大きいですけど」
律はそう言って、澪の手元の油差しを見た。
「それ、水の中に落としても大丈夫ですか」
「駄目。だから落とさない」
「分かりました」
笑われると思ったが、律は真面目にうなずいた。その返事のおかげで、澪も少し落ち着いた。
旧水門へは、灯台の丘の西側を回る道から下りた。畑と町を分ける細い水路に沿って、彼岸花の葉だけが伸びていた。花の季節が終わった場所は、何が咲いていたのか知らなければただの草むらだった。
水門は石の擁壁に埋め込まれていた。緑に塗られた鉄の扉が二枚、上で半円を描いている。取っ手に巻かれた鎖は切れていたが、錠は残っていた。律は扉の前を踏み、足場の硬さを確かめてから、落ち葉を靴で脇へ寄せた。
「ここから先、私が先に入ります。水の音が近かったら引き返します。今日は扉の内側だけです」
「探検じゃないのね」
「探検にすると帰りたくなくなるんで」
鍵はすぐには入らなかった。澪は白い粉を刷毛で取り、鍵穴の縁を細い針で掃除した。油を一滴差し、軸を少しずつ揺らした。古い錠の中で、押されるのを忘れていた部品が順に返事をする。最後に、掌に小さく鈍い感触が戻った。
「開いた」
律は扉を片方だけ引いた。敷居で錆が剝がれた。湿った空気が、外へ一枚の布のように流れ出した。
部屋は四畳ほどだった。奥の壁際に細い階段が下りていたが、その手前に木の柵があり、「単独立入不可」と書いた札が掛かっている。札の裏には、新しい結束線が見えた。誰かが最近、掛け直していた。
正面の壁に、ガラス戸の付いた木箱があった。箱の中には白い円盤が三つ並び、中央だけに時計の針がある。左右の円盤には、時計の数字の代わりに赤と黒の目盛が刻まれていた。下部の真鍮の銘板を澪が拭くと、「水位時差記録器」という文字が現れた。
律は懐中電灯を消し、扉から入る光で銘板を読んだ。
「まだ動いてる」
箱の奥から、澪にはなじみの深い音がした。脱進機の、押しては逃がす音。中央の長針は九時五十七分を指していた。澪の腕時計は十時八分だった。
「十一分遅れ」
「合わせ忘れでしょうか」
澪はすぐには答えなかった。円盤の下に、日付の入った細長い点検票が差してある。今月一日。その前は九月二十二日。その前は九月十四日。いずれも同じ筆跡で、時刻欄には小さく「差十一」とあった。
「忘れているなら、わざわざ書かない」
ガラス戸の鍵は掛かっていなかった。開く前に、澪は箱の全体と、針と、点検票を携帯電話で撮った。何かを知りたいときほど、触る前の姿を残さなければならない。修理に出された時計が何を訴えていたかは、一度分解すると二度と同じ形では聞けないのだ。
中央の時計は、振り子の代わりに短い天輪を持っていた。ぜんまいの香箱から、歯車が左右の円盤へ伸びている。左の円盤の針につながる糸は、床板の穴を通って階下へ下りていた。
「浮子ですね」と律が言った。「下に井戸があって、水面に浮く重りが糸を引いてる。川の流れを直接測ると波で針が暴れるから、細い管で水を井戸に入れて、落ち着かせて測るんです」
「灯台から見ていた地下水の井戸とは別ですか」
「別の観測です。こちらは水路とつながる測水井で、水路の水位を読んでいます。地下水井の数字と混ぜずに、地点も種類も分けて記録しましょう」
「右は?」
「これだけだと、まだ」
右の針は黒い目盛の四を指していた。左は三と四の間。時計の遅れ以外には、何が正しいのか判断できなかった。
澪は箱の底にある巻鍵を見つけたが、手を出さなかった。
「動いている時計を合わせたいと思わないの、初めてかも」
「直すと壊すが同じことになる場合、ありますよね」
律は自分の言葉に少し眉を寄せた。
「水路にもあります。漏れてるから塞いだら、別の家の床下に水が回るとか。直す前に、どこへつながっているか見ないと」
澪は手紙を箱の前に置いてみた。「十二の鐘を一つ遅らせて」。十一分遅れの時計を前にすると、母の言葉はますます答えに近づいたようで、かえって読めなくなった。
昼前、扉の外へ出てパンを食べた。水門の上を通る道には、軽トラックが一台来ただけだった。運転していた人が律を見つけ、片手を上げた。
「芦田さん、そこの草、刈るんかね」
「今日は測定です」
「そうか。うちの先の桝、また落ち葉が詰まっとったよ」
律は場所を聞き、手帳に書いた。車が去ってから澪が言った。
「町中の水を頼まれるのね」
「町中の水は見られないです。だから頼まれるんでしょうね」
パンを半分に割ると、澪の膝に粉が落ちた。店を閉めたまま昼を迎えていることを思い出した。今日渡すはずだった時計はない。けれど、店を開けていれば誰かが電池を替えに来るかもしれない。自分がそこにいることでしか守れないものがある。それでも今日はここに来た。その理由を、母の手紙だけに預けておくことはもうできなかった。
「明日、上流を見たいです」と律が言った。
「今日は見ないの」
「先に図面が欲しい。ここは私が入る前に管轄から外れていて、正式な管理図だと線が切れてるんです」
「航に頼んでみる」
「記録館の?」
「弟。頼むと面倒くさがるけど、何も頼まないともっと面倒くさがる」
律が初めて、パンを口に入れたまま笑った。
記録館の閲覧室で、航は大きな机を一つ空けて待っていた。
「面倒な頼まれ方だった」
澪が椅子を引くなり、航は言った。
「まだ頼んだだけじゃない」
「写真が三枚来て、『これ何』だけ。誰が見ても面倒だよ」
しかし机の上には、すでに五つの資料箱が並んでいた。航は箱を一つ開け、折り畳まれた図面を両手で広げた。紙の折り目が、乾いた音を立てた。
四十年前の汐見原は、今よりずっと細かい水色の線で埋まっていた。町の北から入る水路は三本に分かれ、家々の間で枝を増やし、南の低地に集まっている。現在は道路になっている場所にも線があった。灯台は丸い記号で記され、その横に「観測報知所」と書かれていた。
「灯台じゃないの?」と澪が言った。
「建物の呼び名は灯台でいいんじゃない。用途の名前がこれ。もともとの海の記念物を転用したって、ここにある」
航は薄い冊子を開いた。「盆地内排水改良計画」。頁の端に鉛筆で計算が書かれ、別の色の鉛筆で何度も消してあった。
「最初は、川をまっすぐ深くする案だった。けど下流へ急に送ると、今度は下の集落があふれる。だから一部を横へ逃がして、ここで一時的に受ける設計に変えたみたい」
律が図面を覗き込んだ。
「この緑の囲い、遊水地ですか」
「今の運動広場。その下の欄外に説明がある」
澪の知っている運動広場には、春になると菜の花が咲き、休日には子供の自転車が並ぶ。大雨のたび水浸しになるのを、手入れが悪いせいだと思っていた。
「水が入っていい場所だったんだ」
「入らないと、ほかに入るんだろうね」
航は次の冊子を出した。薄い罫紙に、寄合の議事が書き継がれている。
計画どおりに水路は造られたものの、各所の水位を常時伝える設備には予算が付かなかった。電話を引く費用も、測定員を置く費用も別になった。そこで水路沿いの農家と商店が持ち回りで測り、灯台の上から光で知らせる方法が始まった。観測場所と灯台の間には、当時なら木が低く、光の通る見通しがあった。
「公式の工事と、住民の手伝いが混ざってる」と航は言った。「何から何まで昔の人が立派だったって話でもないよ。掃除の当番でもめてるし、夜の見回りの手当を出せって言ってる人もいる」
冊子のある頁には、太い字で「店を空けて誰が飯を食わせる」と書かれていた。その下に別の筆跡で、「危険の時だけでも、印を見てくれればよい」とあった。
澪はその文字に指を近づけ、触れる前に手を止めた。
「どっちも本当だね」
航はうなずいた。
「続いてる仕事って、そういうものかもしれない」
時計を開ければ、手際のいい修理の跡だけが見つかるわけではない。間に合わせの針金も、合わないねじも残っている。それでも動かそうとした人がいた。母もその一人だったのだろうか。澪はまだ、名前の載った頁を見つけられなかった。
航は最後に、小さな紙片を図面の上に置いた。記録器の調整要領を写したものだった。
「原本は綴じ目が弱いから、こっちは複写。時計の数字がある」
『報知時差は現地実測により定む。標準十一分。時計を進めてはならない』
澪は紙を読み直した。
「遅れているんじゃなくて、遅らせてある」
律が腕を組み、図面の北端から旧水門までを目で追った。
「上流で測った値と、下で見た値を重ねるのかもしれない」
「重ねる?」
「上流の水位が変わってから、ここの水位が変わるまでに時間が要る。十一分がその標準なら、時計をずらす意味がある。上にあった同じ水が丸ごと十一分で届く、という意味ではありません」
「水って、いつも同じ速さで来るの?」
「同じではないです。水路の断面や水の量で変わる。だから標準って書いてるんだと思います。大雨なら別の判断も要るでしょうね」
澪はその「別の判断」を聞き逃せなかった。父が亡くなった洪水のとき、誰が何を見て、どう判断したのか。尋ねれば、今ここにある紙が答えを持つような気がした。けれど航は、澪が口を開く前に首を振った。
「その年の記録は、まだ出してない」
「私、何も言ってない」
「顔に書いてある」
航は図面を押さえたまま続けた。
「出さないって意味じゃない。あの洪水の資料は、被害の記録と復旧の書類と、別々の箱に入ってる。父さんのことだけ探すと、前後を落とす。順番に見たい」
澪は反射的に何か言いかけた。弟だけが冷静なふりをしている、と思った。しかし航の爪の下に、黒い紙の粉が付いていた。箱を開け続けた指だった。
「分かった」と澪は言った。「今は時計のことから」
航の肩が、ほんの少し下がった。
夕方、二人は灯台にサエを訪ねた。扉の横に長い竹箒が立ててあり、石段の隅の落ち葉がきれいに集められていた。
サエは二人の靴の泥を見て、何も聞かずに古い新聞紙を出した。
「そこに置きな。乾くと落としにくいよ」
部屋の隅には小さな石油ストーブがあった。火は入っていない。上に載った薬缶の底が、窓の光を丸く返していた。
澪は撮った写真と、航の複写を見せた。
「時計を合わせちゃいけない理由を、知りたいんです」
「進めなかったのかい」
「はい」
「なら、まず一つ、うまくやった」
サエは椅子に腰を掛けた。澪はその言い方に、弟子の試験をされたような気がして、少し腹が立った。
「母も、ここに来ていたんですね」
「来ていたよ」
「何をしていたんですか」
「あなたと同じだよ。壊れていないか見ていた。壊れたら、どこなら自分で直せるか考えていた」
「だったら、どうして私たちには」
そこまで言い、澪は続きを探せなくなった。教えてほしかったのか。関わらないでほしかったのか。父の死の詳しい事情を知らないまま暮らした十八年と、母の仕事を知らなかった一年が、違う重さで胸にあった。
サエは窓の外を見た。
「あの光を、昔は祈りだという人もいた。海が戻らないように灯している、なんてね」
「違うんですね」
「祈りながら見ていた人はいるだろうさ。でも光は、水位を伝えるためのものだよ。願っただけじゃ、水の高さは分からない」
律が、図面を机に広げた。
「十一分が上からここまで水位の変化の伝わる標準時間なのか、確かめたいんです。今の水路で、危険のない測り方を考えています」
サエは図面の三か所に、曲がった指を置いた。
「その石橋の手前。次は米倉の裏。下は扉の中へ入らなくても、外の見尺がある。苔は落としな。読めなきゃ測れない」
「今でも使うんですか」
「使う人がいれば、使えるようにしてある」
澪は思い切って尋ねた。
「父も、この数字を見ていたんですか」
サエの指が図面から離れた。
長い間ではなかった。それでも澪は、灯台の中の音が一つ残らず聞こえた。窓枠の隙間、床下の小動物のようなきしみ、外で律の袋の留め金が壁に触れる音。
「あの日のことは、数字だけじゃ話せない」
「知っていることがあるんですね」
「あるよ」
「なら」
「いま話して、あなたが知りたい形になるとは思えない」
澪は椅子から立ちかけた。律は止めなかった。サエも、座り直せとは言わなかった。
「知りたい形なんて、私にも分かりません」
声が思ったより大きくなった。澪は机の紙を見た。自分の指の影が、青い水路を横切っている。
「分からないから、来たんです」
サエはうつむいた。その頭頂には、窓からの光が薄く載っていた。
「そうだね」
ただそう言った。澪が求めた答えはそれではなかったが、嘘をつかれたとは思わなかった。帰るとき、サエは二人のために持ってきた靴拭きの布を、最後まで手に持っていた。
十月五日は、朝からよく晴れた。
律が借りてきた小型の水位ロガーを、二人は上流の石橋と中ほどの米倉裏に取り付けた。設置は水路の外からできた。律は落下防止のひもを二重に掛け、測定の基準になる石の角を写真に収めた。澪は目盛板の苔を柔らかい刷毛で落とした。強くこすると、古い白線まで剝がれそうだった。
「新しく引き直したほうがいいのかな」
「その前に高さを測らないと。目盛だけきれいでも、位置がずれたら数字が全部違います」
澪は刷毛を止めた。
「時計の文字盤と同じね。針が合ってても、文字盤が回ったら読めない」
「それ、分かりやすいですね」
律は手帳に何か書き込んだ。
「今の、説明するとき使っていいですか」
「時計の話でよければ」
「私の仕事、半分くらい説明なんです」
石橋のたもとで、水路の管理をしている男性が二人を待っていた。律が前日に連絡を取り、短い調整の予定を確認していたのだった。十時に上流の小さな取水量を少し増やし、十五分後に元へ戻す。普段の範囲内の調整で、畑へ送る水量も変わらない。流れの変化がどれくらい遅れて伝わるかを見るだけだと、律は澪に説明した。
「何かを流して追いかけるんじゃないんですね」
「物が流れる速さと、水位の変化が伝わる速さは同じとは限らないので。それに、どこかで引っ掛かったら困ります」
澪は子供のころ、父と紙の舟を流した記憶を思い出した。舟は葦にぶつかり、父は長い棒で助けた。澪がもう一度と言うと、今度は取れるところで流そう、と言われた。記憶の中の父はいつも若い。それが、自分より若かった可能性に気付くまで、ずいぶんかかった。
十時ちょうど、管理の男性がハンドルを決まったところまで回した。澪は腕時計の秒針を見ながら時刻を読み上げ、律が記録した。上流の目盛で変化が始まった時刻も、別に記した。二人は下流へ急がなかった。ロガーが同じ間隔で測り続ける。人間の足の速さを、測定結果に混ぜなくて済む。
米倉の裏では、持ち主の女性が畑の葱を束ねていた。
「紗季さんの娘さん?」
澪はうなずいた。
「目元が似てる。お母さん、そこを通るとき、いつも自転車を押してたよ」
水路と倉の間の道は、二人で並ぶには狭かった。
「落ちると危ないからですか」
「葱を踏むと私が怒るから」
女性は笑い、すぐに少し声を柔らかくした。
「でも、ここを見に来てたのは本当。大きな雨の後は必ずね」
澪は母の自転車を思い出した。前籠にいつも雑巾が一枚入っていた。店のガラスを拭くためだと思っていた。そういうことが一つずつ、別の意味を持ち始めていた。別の意味を持ったからといって、以前の意味が嘘になるわけではない。その雑巾で、母が店の窓を拭いていたのも確かだった。
旧水門の外の見尺は、壁の低い位置に埋め込まれていた。律は脚立を立てず、長い柄の刷毛を使った。立つ場所を一歩間違えると足元が崩れるので、澪は道の上から時刻を記録した。
目盛の水は、最初、変わらないように見えた。小さな虫が水面の石の影に止まり、いつの間にかいなくなった。澪が目を上げると、灯台の先端が木の間に見えた。昼の光の中では、ただ白い塔だった。
十時十一分を過ぎて少ししたころ、律が言った。
「上がり始めました」
澪は時刻を書いた。秒まで書くと、手が少し震えた。
「十一分」
「今の一回で、決めるのは早いです」
「分かってる」
「私も、言いたかっただけです」
二人は笑った。律は水面から目を離さず、続く変化を書き取った。上流で元の取水量に戻した影響も、同じように遅れて現れた。
午後、機器を回収して記録館へ戻ると、航が閲覧室の机に方眼紙を広げた。律の端末から出した数字を、澪が読み、航が線にした。上流の線には緩やかな膨らみがあり、中流と下流にもよく似た膨らみが続いていた。透明な紙に写した上流の線を右へずらすと、下流の線にほぼ重なった。
「十一分と少し」と航が言った。
「今日の流量だと、そのくらいです」と律が言った。「水路で溜まったり、枝へ分かれたりするので、形も少し丸くなる。時計を十一分遅らせておけば、上で記録した時刻と、ここで同じ変化が現れた時刻を対応させられる」
澪は透明な紙を戻し、もう一度ずらした。十一分は空白ではなかった。石橋から葱畑、家の裏、盆地の低い場所へと、水位の変化が伝わる今日の標準的な間隔だった。同じ水の塊を追ったわけではなく、この数字だけで雨の日の流れまで決められるわけでもなかった。
「母は、これを知ってたんだね」
航は図面を片付けずに答えた。
「知ってたんだと思う。だからこそ、俺たちには言葉で残してほしかったとも思う」
澪は弟を見た。いつものように、何でも整理して片付ける声ではなかった。
「うん」
その一言を口にすると、母のために腹を立ててはいけないという、どこかにあった決まりが少しほどけた。
その夜、澪は店の裏の物干し台から灯台を見た。律は旧水門の外、航は記録館の二階にいた。携帯電話の通話をつなぎ、それぞれの場所の時刻を確かめた。サエには、光を記録することを昼のうちに伝えてある。
最初に短い光が二つ。間を置いて長い光が一つ。澪は紙に線を引いた。自分で光を写し取った小さな点と線を、これまで模様のように見ていた。航が見つけた古い符号表と並べると、それは数の送り方だった。
律が低い声で数字を読み上げた。現在の水位。そして十一分前の、上流側の記録。サエは灯台から、その二つを決まった順で送っている。澪が見た光は、どこかで測られた水の高さだった。明るくなり、暗くなるたびに、誰かの靴、誰かの手、井戸の底の浮子が思い浮かんだ。
「一致してる」と航が言った。
少し遅れて、律も答えた。
「こっちも」
澪は光から目を離さなかった。正しい数字だと確かめられても、安心だけが来るわけではなかった。この見通しの先に木が伸びたら。サエが階段を上がれなくなったら。一人が知っていることは、その一人がいなくなれば、すぐに読めない点と線へ戻ってしまう。
「明日、もう一度、サエさんに会おう」と澪は言った。
通話の向こうで、二人が返事をした。
十月六日、澪が店を開けると、航が白い封筒を持って来た。
「十二の鐘、見つかった」
封筒の中には、工事完了後に配られた説明書の複写があった。表紙に子供が描いたような灯台の絵があり、中には毎日の確認手順が書かれていた。
正午に検査鐘を一打。鐘を聞いた観測当番が時計と記録器を照合する。水位報知用の時計は、検査鐘の時点で十一時四十九分を示すこと。
澪は母の手紙を机に置いた。
「十二時の鐘を、一つの時計だけ遅らせる」
「たぶん。『十二の鐘を一つ遅らせて』って、全部の時計を遅らせろという意味じゃなかった」
「でも、お母さんはどうして、そんな書き方を」
航は首を振った。
「そこは紙だけじゃ分からない」
澪はその返事を受け入れた。分からない部分を、母ならこう思ったはずだという言葉で埋めれば、また一人分の勝手な物語ができる。
正午前、三人は灯台の裏へ回った。外からは見えない軒の下に、小さな鐘が吊られていた。船の鐘に似た形で、縁には薄い緑青が浮いている。紐は壁の途中で巻き留められ、雨に触れないよう布の袋がかぶせてあった。
「最近は毎日は鳴らさない」とサエは言った。「聞く人が減った。用のある日に鳴らすようになった」
「母も鳴らしたんですか」
「鳴らしたよ。強く引きすぎる人だった。よく響かせれば遠くに届くと思ってたんだろうね」
澪は、その話に初めて笑えた。母は店の戸締まりをするときも、取っ手を二度強く引いた。
サエは紐を澪に渡した。
「今日は、あなたが」
澪は腕時計を見た。律は旧水門へ向かっていた。通話の向こうで、扉を開ける音がした。航は説明書を持ち、柱の横に立った。
秒針が十二へ来たとき、澪は紐を引いた。
鐘は思ったほど大きく鳴らなかった。高く、薄く、けれど長く残る音だった。丘の下の家の屋根を渡り、畑の上へ出ていく。澪にはそんなふうに聞こえた。
「十一時四十九分です」と律の声がした。
澪は目を閉じなかった。誰かが見て、誰かが聞き、誰かが数字を答える。その一つずつを、自分の目の開いている間に覚えておきたかった。
鐘の余韻が消えてから、サエは灯台の物入れから細長い図面を出した。航が持って来たものより、ずっと書き込みが多かった。水路の枝の一つに赤い鉛筆で丸が付いている。
「ここのことを、紗季さんは最後まで気にしてた」
「西の迂回水路」と航が読んだ。
「もう水を通してないはずです」と通話越しに律が言った。「今度の整理計画で埋める区間に入っていたと思います」
サエは返事をする前に、図面の折り目を伸ばした。
「普段は通してない。普段はね」
澪は赤い丸の下に、小さく母の字があるのを見つけた。
『閉じる前に、出口を確認』
母の手紙とは違い、それは誰に読ませるためでもない、仕事のための字だった。最後の払いが急いでいた。
「出口って、どこですか」
サエは図面の端を指した。線は町の外れの桑畑で途切れていた。
「私も、今の形は見ていない」
澪はその言葉に顔を上げた。サエはまた、知らないことを知らないと認めた。灯台に何もかも答えがあるわけではない。時計の箱も、古い図面も、母の文字も、行く先を示すだけだった。
律が通話の向こうで言った。
「合流しましょう。入口から外を歩いて見られるところまで。暗くなる前に戻ります」
航は複写を封筒に入れ、原本をサエへ返した。
「俺も行く。記録だけだと、どっちが上なのか分からなくなる」
三人が坂の下でそろうころ、雲が西の山を隠し始めた。澪は工具箱の留め金を確かめた。鍵は胸のポケットにあり、手紙は店の机の引き出しに置いてきた。
町の外れで舗装が終わり、細い砂利道が桑畑へ続いていた。枯れかけた蔓の向こうに、コンクリートの低い縁が見える。赤く錆びた看板には「迂回水路」とあり、その下に白い新しい札が重ねられていた。
廃止予定区間。
律が足を止めて、道と水路の間を見た。航は地図の向きを変えた。澪は、看板の下から続く浅い窪みに目を凝らした。
澪は看板の日付を手帳に写した。廃止という言葉は、それまで役目があったことを表している。役目がなくなったのか、別の場所へ移ったのか、それとも見えなくなっただけなのか。まだどれとも決められなかった。
「ここも、合わせる前に見よう」
そう言うと、律はうなずき、航は手帳から顔を上げた。二人とも時計のことだと分かったらしかった。澪は胸のポケットの鍵を押さえ、蔓を踏まない場所を選んで、一歩近づいた。
水は見えなかった。それでも、土の下のどこかで、確かに流れる音がしていた。