十月一日の朝、真瀬時計店の硝子戸には、夜のあいだに降った雨が細い筋を残していた。澪は戸の内側から乾いた布を当て、筋の一本を下まで拭いた。向かいの空き地にはもう草刈りの人が来ていて、刃の回る音が、店にある二十七個の時計の振り子をまとめて揺らすように聞こえた。
母が死んで一年になる。店を継いでから十一か月、澪は毎朝、硝子を拭いてから一番大きな柱時計にねじを巻く。母と同じ順番だった。順番を守っていれば仕事の始まりだけは間違えずに済む。店に入ってくる人に、まだ直せないのかと尋ねられる前の、短い静けさだった。
汐見原は海から三つの峠を隔てた盆地である。それでも町には浜町、入江通り、沖見坂といった名が残り、北の丘には灯台が立っていた。白い塔の高さは十三メートル。周囲の果樹畑から少しだけ頭を出し、夕方になると南向きの窓が光る。観光案内には、太古の海を記憶する町の象徴、とある。澪は子どものころ、その文句を信じていた。海がなくなったので、戻ってくる船のために灯台だけが待っているのだと思っていた。
いまは灯台より、修理台の上に積まれた預かり品の方が気になった。
八時半、裏口のベルが鳴った。弟の航が紙袋を持って立っていた。
「朝ごはん、食べた?」
「食べるところ」
「それ、昨日も言ってた」
航は袋から胡桃のパンを二つ出した。父の修は、澪が十四、航が七つの年の水害で亡くなった。二十五歳になった弟の手つきは、その父に似ていた。
「記録館の整理で、うちの箱が出たんだ」
航が紙袋の底から小さな包みを取り出した。
「うちの?」
「昔、寄託の相談があったらしい。受け入れなかったものが、未返却の棚に混じってた。台帳の送り主が真瀬紗季だった。去年も見た棚なのに、今年になって気づくんだから嫌になる」
包みには、灰色の麻布が使われていた。澪が紐を解くと、掌より少し大きい置き時計が現れた。丸い文字盤に黒い数字、下半分には蓋付きの窓がある。振り子式の旅行時計ではない。鍵を差す穴が三つ並ぶ、音の機構を持つ時計だった。
「母さんが直してたやつかな」
「依頼票は?」
「包みにこれだけ」
小さな札に、紗季の字で『返す前に澪へ』とあった。
澪はパンを一口かじったまま、札を読んだ。噛む音が急に大きく感じられた。
「いつ持ち込まれたの」
「四年前。詳しいことは午後調べる。館長が、勝手に処分しなくてよかったって」
四年前なら、澪は南の市の精密機器工場で働いていた。戻ると決めたのは、母が病気を知らせてきてからだ。それ以前、母と交わす電話は、熱が出た、雪が積もった、近所の犬が子を産んだ、というような話ばかりだった。時計を娘に渡そうとしていたなら、なぜ言わなかったのだろう。
航が出勤したあと、澪は包みの下に作業用の白い紙を敷いた。文字盤の十二時には僅かな傷がある。真鍮の裏蓋はねじ二本で留まり、うち一本の頭が潰れかけていた。母が使った道具を取り出し、最も薄い刃を合わせる。息を吐きながら回すと、ねじは抵抗もなく緩んだ。
裏蓋の内側に、細く折った紙が挟まっていた。
古い修理記録だと思った。開くと最初に自分の名が見えた。
『澪へ。これが動かなくなったら、十二の鐘を一つ遅らせて。わからないことを、そのまま直さないように。紗季』
日付はなかった。便箋でもなく、ねじの小袋を開いて伸ばした紙だった。左隅に青い印刷が残っている。
澪は紙を修理台へ置いた。
時計の内側を改めて見た。振り子の受けに乾いた油が固まり、歯車の軸には埃がついている。主ぜんまいは切れていない。動かなくなる原因なら幾つもあった。けれど、鐘を一つ遅らせる、という表現は修理の指示として曖昧すぎる。打刻を一時間遅らせるのか、十二回目の鐘だけを遅くするのか。
わからないことを、そのまま直さないように。
母の店では、壊れていると訴えて持ち込まれた時計が、実際には正しい時刻を刻んでいることがあった。駅前の時計が進んでいたり、家族が別の時間帯の表示を見ていたりした。何を基準に遅いと言っているのか、最初に確かめなさい、と母は教えた。その教えを、いま紙にされた気がした。
午前の客は三人だった。腕時計の電池交換が二件と、振り子が止まるという柱時計の相談。澪はいつもの倍、依頼の内容を聞いた。柱時計の持ち主は、床を張り替えたあとの傾きが原因かもしれないという説明に頷き、まず水平を見てみると帰っていった。
昼休み、澪は航に電話をかけた。
「サエさんって、灯台の久住さんだよね」
「ほかに知ってるサエさんはいない。何か出てきた?」
「手紙。ちょっと聞いてくる」
「今日は木曜だから、町の配食を手伝ってるかも。灯台なら四時過ぎ」
澪は礼を言って切った。
午後四時、店の前に『五時まで外出』の札を掛け、澪は坂道を登った。道沿いの柿はまだ固く、風に揺れる葉の裏が白い。丘の下には水路が三本集まり、その先で一本の暗渠に消えている。雨のあとでも流れは低かった。昔は水遊びをした場所だが、父が亡くなってから近づかなくなった。
灯台の足元には小さな平屋があり、軒下に白菜の苗が並んでいた。久住サエは、配達用の箱を洗っていた。七十六歳だと航が言っていたが、両腕を伸ばして箱を裏返す動きは速い。澪を見ると水を止めた。
「店の時計、遅れた?」
「どうして」
「紗季の娘が仕事の時間に来るなら、時計か、水道だ」
「水道は直せません」
「なら時計だね」
サエは笑い、縁側に座布団を一枚置いた。澪は手紙を渡した。サエは読む前に眼鏡を探し、読んでからしばらく眼鏡を外さなかった。
「これ、どこにあった」
「記録館から返ってきた時計の中です。四年前に母が預けたそうで」
「返ってきたか。よかった」
「母の字ですよね」
「そうだよ」
「何を遅らせるんですか」
サエは手紙を折り目通りに畳み直した。
「きょうのうちに答えられる話じゃない。私も、確かめたいものがある」
その言い方に澪は身構えた。町へ戻ると、母のことを誰もが自分よりよく知っていた。朝に何を食べ、いつ手を痛め、どこへ寄り道したか。ありがたいと思いながら、話されるたび、娘である自分の知らなさに席を譲るような気持ちになった。
「母は、一年前に死んだんです」
澪の声が硬くなった。
「知ってる」
「私に渡すように書いたものなら、私にわかるようにしておいてほしかった」
サエは手紙を返した。
「それはそうだ。あの人に言う機会があったら、私からも言う」
澪は膝の上で指を組んだ。サエは弁解をしなかった。水の落ちる音だけが軒の樋から続いていた。
「鐘の時計を持っておいで。中身を触る前に」
「もう裏蓋は開けました」
「開けるのはいい。調子を変える前に見たい」
「これは灯台のものですか」
「ここのものとは限らない。でも、ここの仕事に使った」
サエは塔を見上げた。南側の窓に薄い硝子がはまり、その奥に丸い反射板が見える。澪は初めて、灯台の光の向きが限られていることに気づいた。ぐるりと回る光ではなかった。
「灯台、毎晩点けてるんですね」
「自分が起きているうちは」
「自動じゃないんですか」
「点くところまでは自動。その先は、人の手が要る」
サエは立ち上がり、洗い終えた箱を重ねた。これ以上は今日は話さない、という合図に見えた。澪は手紙を胸ポケットへ入れ、明日の午後に時計を持ってくると約束した。
帰る途中、丘の上で一度振り向いた。夕日は反対側の山へかかり、塔の窓は黒く沈んでいた。母は何度ここへ来たのだろう。店を閉めて、坂を登り、サエと何を話したのだろう。澪は記憶の中の母を連れ出してみたが、母は修理台の前に座ったままだった。
その晩、澪は店の奥でカレーを温めた。台所の窓からは、家々の屋根越しに灯台が見える。六時を少し過ぎると光が点いた。昔から見慣れた、橙色を帯びた光だった。
澪は皿を手にしたまま立ち止まった。
光が一度消え、短く点き、また消えた。
一、二、と数えるうちに、今度は長く点いた。消える。短く二度。長く一度。
故障かと思った。しかし、その並びは繰り返された。正確には、最初の長い光のあとに少し長い暗がりがあり、それから短い光が二つ続く。子どものころに遊んだ懐中電灯の信号のようだった。
澪はカレーを置いて、スマートフォンの動画を回した。画面では光が小さすぎて見えにくい。焦点を合わせると、台所の湯気が白い影を作った。窓を開け、外の手すりに端末を置き直す。秋の冷気で腕が粟立った。
十分ほど経つと、光はずっと点いた状態になった。
動画の時刻を確認した。六時十三分に記録を始め、変化が終わったのは六時二十一分だった。澪は紙に光の長短を書き込んだ。途中、車が横切って見えなかった箇所には、空欄を作った。母の手紙の裏に書きそうになり、慌てて別の紙に換えた。
航に動画を送ろうとして、指が止まった。明日でもいい。時計と灯台に因果があるように聞こえる。実際には、今日初めて注意して眺めただけかもしれなかった。
澪は紙の上端に『十月一日、台所から。以前の状態は不明』と書いた。
母ならそうすると思ったのではない。観察したことと、想像したことを、同じ欄に入れない。
翌朝、置き時計の機構を拡大鏡で見ていると、正面の小窓の奥に、薄い円盤があるのがわかった。鐘の歯車と組み合わさり、表面には細い傷がついていた。既製品の部品か、あとで加えられたものか、汚れを落とす前には判断できなかった。
澪は触れずに写真を撮った。
「それ、時間じゃなくて順番を数えるやつかもしれません」
声に振り返ると、男が入口に立っていた。薄い紺色の作業着に、泥のついた靴。澪は顔は見たことがあったが、名は知らなかった。
「すみません。声を掛けたんですけど」
「いらっしゃいませ」
男は左腕の時計を外した。
「ベルトの留め具が。外れるようになってしまって」
澪が受け取ると、留め具の爪がわずかに開いていた。曲げて戻せるが、金属疲労が進んでいれば交換が必要だ。説明すると男は頷いた。
「芦田といいます。町の水路の方で仕事をしてます」
そこで澪は、橋の下で測量器を覗いていた姿を思い出した。航と駅前で話していたのも見たことがある。
「航の姉です」
「真瀬さん。記録館で、古い水路図を何度か出してもらいました」
「さっき、順番って言いましたね」
「あ、その時計。余計なことを」
「いえ。わかるんですか」
芦田律は修理台の方へ視線を動かしたが、近寄らなかった。
「父が工場の設備を見る仕事で、似たような円盤を見せてくれたことがあります。決まった順に接点を入れたり切ったりする。これは電線がないから、違うかもしれません」
「機械的なカム、ということですか」
「はい。ただ穴があるだけなら、何か別の用途かな」
澪は円盤の写真を端末に表示し、見せた。律は画面を拡大して、穴の周りを確かめた。
「この擦れ、別の部品が当たっていた跡かもしれないですね」
「写真だけで決めるのは早そうですね」
「ええ。それに私は水路屋なので」
澪は昨夜の紙を伏せたまま、灯台の光を見たことがあるかと尋ねた。
律はすぐに答えなかった。
「丘の灯台ですか」
「不規則に点いていたんです。昨日」
「私も見ました。現場帰りに」
「いつも、そうなんでしょうか」
「いつもではないと思います。夏はずっと点いてました。先週から気づいてはいたんですが、行事か何かかと」
澪は紙を表に返した。律は書き込まれた長短を目で追い、自分の作業着のポケットから折れた手帳を出した。
「昨日、私が見たのは六時十七分でした。橋の上で電話していて。ここ、長い光のあと、二度目の短い光は少し間がありました?」
「そうです」
「同じですね」
手帳には水位の数字、作業車の番号、買うべき部品が混在していた。その隅に、灯台、十八時十七分、とだけ記してある。
「なぜ書いたんですか」
「光ってるとき、南の水位計に異常が出てたので。偶然とは思ったんですけど、時刻だけ」
「異常?」
「危険な水位ではないです。昨日の雨量の割に変動が小さくて、センサーの汚れを疑っています。午後、確認に行くところです」
律はそう言ってから、言葉が足りなかったと気づいた顔をした。
「町の警戒情報は出てません。いま私が話したのは、設備の点検上の違和感です」
澪は頷いた。父が亡くなった日のことを、目の前の男は知っているのだろうか。知っているから慎重になったのか、誰にでも同じように区別して伝えるのか。まだ判断できなかった。
留め具を調整し、交換部品が届くまで強い力を掛けないよう伝えたあと、澪は今日サエを訪ねると話した。
「時間が合えば、ご一緒してもいいですか。光のこと、私も聞きたいです」
「三時に店へ来られますか」
「点検が延びたら電話します」
澪は店の番号を書き、律は名刺を置いていった。町の委託を受ける水利保全事務所の名が印刷されていた。年齢を尋ねたわけではないが、帰り際に、航とは同じ高校の二学年違いだとわかった。澪の知る汐見原には、自分が町を離れているあいだに大人になった人々がいる。
昼に航が来た。寄託相談の書類を複写して持ってきたのだった。
「受け入れなかった理由は、由来が確定できなかったから。母さんの所有物じゃなく、持ち主から一時的に預かっていたらしい。本人の承諾が必要だって話で止まってる」
「持ち主は」
「記録にはない。口頭で説明したのかもしれない」
書類には置き時計の写真が一枚添えられていた。文字盤の傷も、背の低い脚も、いま修理台にあるものと同じだった。
澪が手紙を渡すと、航は何度も読み返した。
航は椅子に腰を下ろし、腕を組んだ。
「母さん、こういう書き方したっけ」
「修理のメモは短かった」
「でもさ、澪へ、って書くなら」
航はその先を言わなかった。澪も言わなかった。
「怒ってもいいと思う」
航が言った。
「何に」
「母さんに。もういないからって、何でもいい話にしなくても」
澪は複写の写真を手紙の横に並べた。
「いまは、何を頼まれたのか知りたい」
「うん」
「怒るかどうかは、そのあと決める」
航は少し笑い、椅子から立った。午後は古文書の搬入があって抜けられないという。澪はサエのところへ行く話をし、帰ってから知らせると約束した。
三時十分前、律から電話が入った。水位計の清掃に時間がかかり、三時半になるという。澪は先に丘へ向かうと伝えたが、時計を運ぶなら車を出すと言われた。修理台に薄い毛布を敷き、時計を包んで待った。
「センサー、汚れてたんですか」
車の助手席で澪が尋ねると、律は前を見たまま首を振った。
「汚れは普通でした。独立した量水標でも読んだので、数値自体は間違ってなさそうです。上流のどこかで水が留まっている可能性もある。まだ範囲を絞れてません」
「雨が降れば、どこも同じように増えるわけじゃないんですね」
「地面に染みる時間もありますし、水路の蓋の下で枝が引っかかることもあります。ここは地下に古い流れ道が多くて、説明しきれないことが残ってるんです」
丘へ向かう道の途中、律は窓の外の低地を指した。住宅のあいだに細長い畑が続いていた。
「あれ、昔の川です。地図で見ると、家の向きがそこで少し変わる」
澪は小学生のころ、細長い畑の端を通学路にしていた。川があったとは知らなかった。自分の町を知っているつもりで、覚えているのは道順だけだったのかもしれない。
サエは二人を灯台の中へ通した。塔の内壁には湿り気があり、鉄の螺旋階段は塗料が何度も重ねられていた。入口の左に電気の制御箱、右に木製の棚がある。棚には工具のほか、雨具、懐中電灯、方眼紙を綴じた帳面が並んでいた。
澪が時計を置くと、サエは文字盤ではなく底を確かめた。薄い紙が貼られ、そこに『三』と鉛筆で書かれていた。
「やっぱり、三番か」
「何の三番ですか」
「順に話すよ。まず、これは時刻を知らせるためだけの時計じゃない。音で、数える間隔を知らせるために使った」
サエは階段下の小箱から、細い鋼の棒を出した。
「水を測るとき、決まった時間だけ流して量を取る。その頃は、いまほど手軽に秒を見られなかったからね」
律が身を乗り出した。
「堰の流量測定ですか」
「私は言葉をちゃんと覚えてない。でも、そういう仕事。これは私より、紗季の方がよく知ってた」
「母は時計屋です」
「だから、時計の仕組みを扱った。水を見る人は別にいた」
サエの声は平らだった。誰かが全部を知っていたわけではない、と言っているように聞こえた。
「灯台の光も、その測定に関係するんですか」
律の問いに、サエは頷いた。
「関係はある。ただ、あんたが思うような計測器そのものじゃない。測ったものを、離れた場所に伝える。私は、その並びを見て点けたり消したりする役だった」
「昨日も?」
「昨日も。先週の木曜から、昔の帳面と見比べてる」
サエは棚から一冊抜いた。表紙の角が丸くなり、紐で補修してある。開かれた頁には日付と数字、丸と横線が並んでいた。澪が昨晩書いた並びに似ているが、同じではない。
「何を伝えていたんです」
「地下の水。低いところに水が入ってくる前に、見えないところで増えるから」
澪は父の死を思い出しかけ、目を帳面に留めた。サエは言葉を止めたが、澪が顔を上げると続けた。
「ただ、いまは当時と違う。舗装された道も、埋まった井戸もある。私が読めるからって、それだけで町が大丈夫だとも危ないとも言えない。そこは、ちゃんとした仕事の人に確かめてもらわないと」
律は自分の名刺を渡した。サエは眼鏡をかけて肩書を読み、机の上へまっすぐ置いた。
「この帳面、複写させてもらえますか。現行の観測値と比較したいです」
「いいよ。ただ私の覚え違いも書いてある。数字の赤いところは、読み直した印だ」
澪は手紙をもう一度広げた。
「十二の鐘を一つ遅らせる、というのは」
サエは時計を見た。
「紗季が、同じことを言っていた気はする。でも、どの時計の話だったか、記憶がはっきりしない。帳面を見てから答えたい」
「どの歯車を動かすかは、ご存じない」
「知らない。そこは、知らないままにしてきた」
サエの答えは明確だった。
澪は拡大鏡を取り出し、円盤と歯車の接するところを見せた。サエは首を傾げた。律も断定しなかった。三人で同じものを見ても、誰もすぐにはわからない。そのことが、かえって澪を落ち着かせた。
「ほかにも、水を測る時計があるんですか」
「旧水門の箱にある。あれは、いまも動いていると思う」
サエは棚の一番上を見た。
「あそこへ紗季が最後に行ったのは、具合が悪くなる前だ。戻ってきて、時刻を勝手に合わせないで、と言った。理由は本人に聞けばわかると思って、それきりにしてしまった」
「旧水門、入れるんですか」
律が尋ねた。
「鍵が要る。私のは、いま探してる」
サエは困ったように笑った。昨日答えられないと言ったのは、言葉を惜しんだからではなかったのだ。
「母が持っていたかもしれません」
澪が言うと、サエは頷いた。
「赤い紐のついた、平たい鍵。紗季に貸したままかもしれない。私の方も探すよ」
その日はそれ以上、時計を動かさないことに決めた。澪は外観と内部を撮り、律は帳面の直近二週間と、対応する昔の頁を撮影した。サエは撮る頁の間に厚紙を挟み、一枚ずつ影が入らないよう押さえてくれた。知識を受け渡すという行為は、思っていたより地味だった。机を拭き、紙を照らし、読めない数字を尋ね、わからなければ疑問符を残す。その間にも、配食の空箱を取りに人が来て、サエは白菜の苗の余りを渡した。
帰り際、塔の階段を半分だけ上った。上から見る町は低く広がり、夕霧が南の畑を淡く覆っていた。灯具の脇には手動の遮光板があり、細いワイヤーで一階の取っ手につながっている。電球を切るのではなく、光を覆っていたのだ。
「昨日、ずっと上にいたんですか」
「下から引く。膝が毎晩は許してくれない」
サエは手すりを軽く叩いた。
澪は点滅の動画を思い出した。遠くからは不規則な光にしか見えないものの裏で、老女が一人、取っ手を決まった順に引いていた。その労力を、町のほとんどの人は知らない。
「どうして、誰にも言わなかったんですか」
「言ったことはある。けど、私の説明では、昔の話になってしまう。役場が代わるたび同じ話をするのも、だんだん苦手になった。紗季は、それじゃいけないって言ってた」
サエは澪を見た。
「私が続けたことと、ちゃんと伝えたことは、別なんだろうね」
澪には返す言葉がなかった。母が短い手紙だけ残したことも、そこにつながっているように思えた。続いているから大丈夫だと信じた仕事が、一人いなくなるだけで読めなくなる。
十月三日は晴れた。澪は朝の二時間を、母の引き出しを調べることに使った。店の奥には六段の木の箪笥があり、上三段は部品、四段目は領収書、五段目は古い道具、最下段には用途の違うものが集まっていた。戸棚の鍵、裁縫鋏、懐中電灯、父の釣り糸。母の死後、澪はそこを一度開け、すぐ閉めていた。
最下段を机へ抜き出すと、底に細かな砂が落ちていた。乾いた葉の欠片もあった。ひとつずつ白い紙の上へ並べる。赤い紐の鍵はなかった。
昼前、航が手伝いに来た。休日のはずだったが、朝から記録館で資料を見ていたという。
「灯台、四十年前の町広報にあった。観光の紹介じゃなくて、水防の特集」
航は複写を広げた。小さな白黒写真に、塔とその前に立つ五人が写っている。若いサエらしい女性は端にいた。記事は、長雨の年に住民の観測が排水の判断を助けた、と短く伝えていた。詳しい方法はない。
「四十年前って、母さんは?」
「十七歳だね」
「手伝ってたのかな」
「写真にはいない。でも記録館の目録に、水位観測会の資料がある。箱は別棟だから、担当に連絡して出してもらう」
航は複写を箪笥の上に置き、引き出しの中身を見た。
「鍵って、こういうやつ?」
「赤い紐がついた平たいの」
「母さん、紐だけ取り替えてるかもよ」
その可能性を澪は考えていなかった。二人は形を基準に探し直した。平たい鍵は四つ。箪笥、裏口、昔の物置、それから持ち手に丸い穴のある小さな鉄の鍵。最後の鍵には何もついていなかったが、穴の縁に赤い繊維が一本、残っていた。
澪は息を止めた。
「これかな」
航は鍵を掌に載せ、角度を変えた。
「決めるのは、まだ早い」
その言い方がおかしくて、澪は笑った。弟も同じことを考えて笑った。
サエに写真を送ると、ほどなく電話が来た。
「たぶんそれだ。持ち手の片側、やすりで削ってないかい」
澪は拡大鏡を当てた。丸い穴の右側に、小さく平らな部分があった。
「あります」
「紗季が、暗いところで向きがわかるようにした。私が間違えて回して、折りかけたから」
澪は鍵の平らな部分を指の腹で撫でた。母の手がそこに触れたことを、初めて具体的に感じた。遺された服や湯飲みより、この小さな工夫の方が、いまの自分に話しかけてくる。
「きょう、行ってみます」
「ひとりで入るんじゃないよ。段に泥が残ってる」
「芦田さんに連絡します。航もいます」
「私は午後、診療所だから行けない。箱は入口から右。床板を開けたり、水の方へ下りたりしないで。見てわからなかったら、いったん戻っておいで」
澪は言葉を繰り返し、手帳に書いた。サエはそれを聞いてから、電話を切った。
律に連絡すると、午後二時なら旧水門の上で合流できるという返事が来た。現場周囲の安全を確認してから、管理者にも立ち入りの連絡をする、と添えてあった。澪は時計を持参すべきか尋ねた。箱の大きさや状態を先に見たいから、今日は写真と鍵だけでいいという。
航は昼食の皿を洗い、澪は留守札に帰店時刻を書いた。二人で店を出るのは久しぶりだった。商店街の惣菜店には魚の煮付けが並んでいた。
「帰りに買ってく?」
「帰りに、まだあれば」
何かを調べに行くというだけで、今日の夕食がなくなるわけではない。澪はそれが少し嬉しかった。
旧水門へ向かう道は、町の南端で舗装が細くなった。側溝に蓋がなくなり、落ち葉の下を水が速く流れている。水音が近くなると澪の歩幅は小さくなった。航は気づいたようだったが、先へ行かず、隣を歩いた。
「父さん、ここへ来たことあったのかな」
澪が言うと、航は少し考えた。
「あるかもしれない。でも僕は覚えてない」
「私も」
「知らないことを、覚えてたことにしなくていいんじゃない」
澪は鍵を入れた鞄を持ち直した。
道の向こうで、律の車が止まっていた。その脇から低い石の壁が延び、草の間に古い鉄扉が見えた。扉は想像していた大きな水門ではなく、人が一人通れる幅しかなかった。流れを止める扉は、その奥にあるのだろう。鉄扉の上には、読めなくなった塗装の跡が残っていた。
律が二人に気づき、手を上げた。足元を示し、道の端に寄らないよう声を掛ける。澪は頷いて立ち止まり、鞄から鍵を出した。
陽に当たると、鉄の表面の錆が小さく光った。赤い紐はもうない。それでも、指で向きを確かめるための平らな面は、はっきり残っている。
澪はその面を親指に当てた。母が最後にここを訪れたときも、同じようにしたのだろう。そう考えてから、それはまだ想像なのだと自分に言った。
目の前にあるのは、鍵と、扉と、その向こうを確かめるために集まった三人だった。