採用の返事は、木曜の朝五時四十七分に届いた。
修一は布団の中で読み、音を立てずに起きた。台所で湯を沸かし、まだ暗い窓の前に座る。書くのは、卓上の小さな調理家電についての記事だった。読者は、買うかどうか迷っている人。便利な点だけでなく、置き場所と手入れについても説明するよう指定されていた。
文字なら毎日書いている。そう思っていたのは、資料を開く前までだった。
メーカーの説明を読んで書けば、メーカーの説明と同じ文章になる。別の言い方に直せば、意味が変わる。使っていない物について、自分が使ったように書くわけにはいかなかった。
修一は仕様を表にし、重さと寸法を確かめ、交換する部品の値段を探した。会社へ行く時間になるころ、出来ていたのは見出し三つだけだった。
通勤電車の中で文章を直した。昼休みに不足した条件を調べ、帰宅後に続きを書いた。完成した原稿は、千五百字より少し長かった。
納めた翌朝、修正の依頼が来た。
〈読者が最初に知りたいことを、冒頭に置いてください〉
修一は原稿を読み返した。冒頭の三百字を使って、商品の歴史を説明していた。調べるのに時間がかかったから、捨てたくなかったのだ。
消して、置く場所がない人には向かない、と書いた。
千二百円が確定したとき、修一は作業時間を数えた。八時間を超えていた。
「百五十円以下だな」
食卓で言うと、真紀は箸を止めた。
「やめる?」
「やめない。最初だから」
「だったら今夜は、最初の仕事が終わったお祝いにしようか」
「千二百円じゃ、何も買えないよ」
「金額の話をしてるんじゃない」
修一はうなずいたが、うまく喜べなかった。会社では働く意味を金額以外で説明しているのに、自分で始めた仕事では、まず金額が目に入った。
振り込まれる日は少し先だった。画面にある報酬と銀行にある金の間に、時間があることも初めて意識した。
次の仕事は二千円だった。調べる範囲を決め、構成を先に確認してもらうと、修正は減った。三本目は断られた。実績のある人に頼むことにした、と相手は丁寧に書いていた。
その丁寧さが、かえって痛かった。
夏が終わるころ、修一には二社の依頼先が出来た。平日の夜と土曜を使えば、月に数万円になった。自分の文章が知らないサイトに載るのを見るのは嬉しかったが、読者の反応は分からない。原稿を納めれば、次の原稿が来る。
会社でも誰かの指示を受け、夜も誰かの指示を受けている。
依頼をくれる人たちは木崎のようではなかった。それでも、一つの仕事を終えるたびに、次を頼んでもらえるか心配する自分は同じだった。
修一は自分のブログを作った。
最初は、比較記事を書くときの調べ方を記した。次に、家で使っている物を紹介した。使ったことのない物は、仕様の比較だと書いた。便利な点と、買わなくてもよかった点を分けた。
作る前には、もっと面白い文章を書けるつもりだった。自分の場所になると、誰に向けて書けばよいのか分からない。
アクセスは一日に五件だった。そのうち何件かは、自分かもしれなかった。
紹介した商品を読者が購入すると、紹介料が発生する仕組みに申し込んだ。承認されるまで、修一は何度もメールを見た。会社に命令されない仕事を始めたつもりでも、他人の承認を待つ場面はなくならなかった。
十月の火曜、帰りの電車で管理画面を開くと、前日までゼロだった欄に数字があった。
三十七円。
表示を拡大した。三十七円だった。
日用品の比較記事から、買い物が一件発生していた。大きな申込みではなく、少額の商品だった。発生した紹介料は、まだ確定していない。返品などがあれば消えるかもしれない。
修一はスクリーンショットを撮った。
ライターとしての報酬は、それ以前にも受け取っていた。けれど、その金を払った人は修一へ仕事を頼んだ人だった。三十七円は違う。修一が自分で選び、調べ、書いた記事を、知らない誰かが読んだ。その先で、買うという判断があった。
顔も名前も分からない人が、自分の文章を通り過ぎずに立ち止まった。
駅を出た修一は、いつもより早く歩いた。
「出た」
家に着いて、真紀に画面を見せた。
「何が?」
「紹介料。ブログから」
「三十七円?」
「うん」
真紀は笑った。金額を笑ったのかと思って、修一は説明を急いだ。
「まだ小さいけど、百件なら――」
「顔が違うと思って」
「顔?」
「千二百円のときより、嬉しそう」
修一は画面を見た。三十七円で買える物を考えてはいなかった。
その晩、記事を一つ書き足した。
売上のある記事の真似をすれば増える。初めはそう考えた。
同じ型で十本書いた。ほとんど読まれなかった。紹介料の高いサービスを扱えば増える。そう思って比較記事も書いた。自分でも説明しきれない条件があり、記事は下書きのまま止まった。
ある夜、読者から質問が来た。
〈途中で解約した場合の費用が分かりません。紹介されているプランでも、追加でかかるのでしょうか〉
修一は紹介先の説明を読み直した。料金表の脚注に条件があった。自分の記事は、脚注を落としていた。
答えを書きかけて、消した。
記事を直せば、申込みが減るかもしれない。だが、この人は費用を知りたいから聞いている。修一が紹介料を欲しがっているかどうかは関係ない。
条件を明記し、質問への返信を送った。
翌日、返事が来た。
〈分かりました。今回は見送ります。ありがとうございました〉
修一は椅子の背にもたれた。金にはならなかった。ほっとした自分と、惜しいと思った自分がいた。
返事の画面を閉じ、前月の紹介料を見た。二千八百十四円だった。
冬には、仕事をする机を変えた。食卓では真紀が食事をしたいときに片づけなければならない。部屋の隅に小さな机を置くと、今度は修一が片づけなくなった。
「土曜、出かけるって言ったよね」
「この記事だけ」
「先週も、この記事だけだった」
修一は保存して立った。出かけたあとも、記事の見出しが頭から離れない。楽しいことに時間を取られているのだから、会社とは違う。自分にそう言い聞かせた。
それでも真紀から見れば、隣に座っているのに別のことを考えている夫は、以前と同じだった。
日曜の夕方、修一は森田と食事をした。
「副業、どうなの」
「少しずつ。ライターの仕事と、ブログ」
「文章、得意だったっけ」
「得意じゃないから調べるんだよ」
森田はうなずいた。
「読まれなきゃ、ただの日記だろ」
修一が言うと、森田は焼き魚の骨を取りながら答えた。
「日記も、書く人には意味があるけどな」
「俺は稼ぎたいんだ」
「それは知ってる」
森田の笑いには悪意がなかった。そのことが、修一には少し面白くなかった。もっと驚いてほしかった。
春には検索から来る読者が増えた。最初の記事より、質問に答えて直した記事が読まれた。紹介する順番を変え、良い点だけを大きく書いた記事より、向かない人を説明した記事から申込みが出ることもあった。
すべてがそうではない。丁寧に調べても読まれない記事はある。短い記事が急に読まれることもある。修一は、その違いを探るために数字を残した。
紹介料の発生、確定、入金を別々の欄にした。書いた本数ではなく、更新して改善した記事も記録した。
会社で品番と承認を整理していた癖が、別の場所で役に立った。
一度、紹介料の高い商品を比較の上に置いた。悪い商品ではなかったが、一番に選ぶ理由を自分でも説明できなかった。成果は増えた。
修一は、その画面を見てから記事を直した。誰かに叱られたわけではない。翌日また管理画面を開き、減った数字に腹を立てた。
正しい選択をすれば気分も良くなる、とは限らなかった。
一年が過ぎると、毎月の紹介料は会社の給与を超える月が出てきた。ライターの継続案件も残していた。片方が減れば、もう片方がある。
売上が七十万円に達した月、修一は表のセルを青く塗った。外部の費用を引いたあとに残るのは、四十万円ほどだった。会社の給与と比べるには、まだ考えるべき支出がある。真紀にもそう説明した。
「何か月、続いてるの」
「三か月」
「この先も同じ?」
「分からないけど、記事は増えてる」
「増えたら、同じだけ入るの?」
修一は表の下を見た。更新する時間が取れず、検索からの訪問が減っている記事があった。
「記事による」
「辞めたいから、良い数字だけ見てない?」
真紀は静かに言った。修一は、会社を辞めたいと口にする前に、そのことを知られていた。
「少なくとも、会社の給料だけじゃなくなった」
「うん。それは、すごいと思う」
その一言を待っていたのだと、修一は気づいた。
金の話をしていたつもりで、褒めてほしかった。
会社では、木崎の声が少し遠くなった。
理不尽な要求がなくなったわけではない。けれど、毎月の給与を失うことが、以前ほど怖くなかった。辞めても何か出来る。そう思えば、一度くらい言い返せる気がした。
同時に、会社の仕事で分からないことを聞かれると、苛立つようになった。自分の時間なら記事を書ける。その時間を、他人の不注意の穴埋めに使いたくなかった。
西尾に数字の確認を頼まれた日、修一は「表を見れば分かる」と答えた。
西尾は礼を言い、別の人の机へ行った。背中を見ながら、修一は自分が嫌っていた言葉を使ったことに気づいた。
呼び戻そうとして、木崎の声に止められた。
「佐伯、明日の朝、会議室な」
「何の件ですか」
「納期。お前の確認が足りなかった件」
修一には心当たりがあった。自分が確認しなかった件ではない。木崎の承認が止まっていた件だった。
鞄にスマートフォンを入れる前に、管理画面を見た。その日の紹介料は、会社の一日分の手取りより大きかった。
数字の入った小さな画面を閉じた。
今度は黙らない。
そう思ったが、何を言うかまでは決めていなかった。