会議室へ入ると、出荷の記録が壁に映っていた。
納期を過ぎた注文。客からの催促。仕入先への発注日。その三つだけが、赤い線で結ばれている。
修一が送った承認の依頼はなかった。
「取引先から、信用に関わるって言われてる」
木崎はリモコンを机に置いた。
「佐伯、説明して」
修一は手元の印刷を広げた。昨日の夜、会社の中で準備したものだった。会社のデータを家へ持ち帰ってはいない。承認を依頼した日時と、返事が来た日時を一枚に並べていた。
「発注には仕様の確認が必要でした。こちらは火曜に確認をお願いしています」
「返事がなかったら、もう一度聞くだろ」
「水曜も、木曜も聞きました」
「聞き方が悪いんじゃないの」
修一は紙を押し出した。
「この時間に、口頭でもお願いしています」
木崎は紙を見ずに、修一の顔を見た。
「俺が悪いって言いたいの?」
室内で椅子の音がした。西尾が少し体を動かしたが、言葉は出なかった。
修一は息を吸った。ここで謝れば終わる。この注文の話は終わり、来週別の注文で同じことが起きる。
「どこで止まったかを確認したいんです。自分が遅らせたところがあるなら、直します」
「お前のそういう態度の話をしてるんだよ」
「態度では納期は変わりません」
自分が思っていたより大きな声が出た。
木崎の口元が固くなった。
「会社に食わせてもらって、その言い方か」
修一は木崎を見た。あれだけ頭の中で用意した反論が、どれも出てこなかった。
副業で稼いでいる。もう困らない。言い返すために持っていた数字は、ここで口にすれば別の弱みになる。何より、会社の仕事をきちんとしたという話から外れてしまう。
「仕事をした分の給料をいただいています」
「だったら、給料分は働け」
修一は紙をそろえた。角がうまく合わなかった。
その日の仕事は、普通に終えた。
注文を確認し、仕入先へ電話をし、西尾から聞かれた条件を説明した。西尾は何度も礼を言った。気を遣われていることが分かり、修一は目を合わせなかった。
机の引き出しには、使いかけの付箋と予備の電卓があった。辞めるなら持ち帰る物だと思ったが、触らなかった。
帰り際、木崎が言った。
「明日は朝一で、先方への謝罪文を出して。佐伯の確認不足って書くから」
「承認の経緯も書いてください」
「お前が決めることじゃない」
修一は返事をせず、鞄を持った。
エレベーターの扉が閉まると、膝から力が抜けた。壁に背中をつけ、階数の表示を見上げた。
勝ったわけでも負けたわけでもない。ただ疲れた。
会社の外に出てからも、木崎の声が止まらなかった。
翌朝、修一はいつもの時間に家を出た。
真紀は先に出勤していた。朝食の皿を洗い、鍵をかけた。駅までの道を歩き、売店の前を通った。
改札の手前で、足が止まった。
電車はあと二分で来る。間に合う。行けば今日も仕事をして、帰ってから記事を書く。そうすれば、会社の給与も副業の収入も入る。
合理的には、それが一番いい。
修一は定期券を握ったまま動けなかった。自分の後ろを人が通る。会社へ向かう人たちは、ぶつからないよう少しだけ体をずらした。
電話をかけようとした。会社の番号が出たところで、指を止める。木崎が出たら何と言うのか。
具合が悪い。理由を説明しろと言われるかもしれない。休みたい。仕事はどうするんだと言われる。
どの返事も頭の中で先に聞こえた。
修一は駅から出た。
帰り道は、通勤とは逆向きなので歩きやすかった。それがひどく恥ずかしかった。
家へ戻り、靴を脱いだ。スーツのまま食卓に座る。会社から電話が来た。画面を伏せた。
二度目が鳴る前に、連絡先へ短い文を送った。
〈本日は出勤できません。改めて連絡します〉
送ったあと、何を改めるつもりなのか分からなくなった。
真紀が昼休みに電話をかけてきた。
「会社から連絡があった。家にいる?」
「いる」
「何があったの」
「行けなくなった」
電話の向こうで何か紙を置く音がした。
「具合が悪い?」
「会社に行けない」
修一は同じ言葉を繰り返した。まだ辞めたわけではない。辞めると言えば、決めた人のように聞こえる。自分は、改札を通らなかっただけだった。
「今、誰かと話せる?」
「君とは」
「夕方、帰る。会社の連絡は、そのままにしないで」
修一はうなずいてから、電話なので見えないと思い、返事をした。
午後、ブログの管理画面を開いた。書けば稼げる。自分のために働けばよい。
見出しを一行書いて、止まった。
会社の着信を気にしながら書く文章は、家にいても会社の中にいるようだった。
真紀は帰ると、鞄を置く前に修一の顔を見た。
「朝ごはん、食べた?」
「食べた」
「昼は?」
「まだ」
真紀は冷蔵庫を開け、残り物を皿に出した。修一が食べている間、向かいに座って待った。
会議の話をすると、真紀は途中で口を挟まなかった。最後に、修一が言った。
「もう戻りたくない」
「それは分かった」
「副業を本業にすれば、何とかなると思う」
「何とかなる、の中身を知りたい」
修一はノートパソコンを持ってきた。売上の表を開き、七十万円の月を示す。
「最近は、このくらい」
「一番多い月?」
「三か月は、似たような額だよ」
「会社を辞めたら、必要なお金も変わるんでしょう」
修一は費用の欄を示した。真紀はその下の空白を指した。
「今まで会社がしてたことは、どこに入ってる?」
「調べる」
「辞めたいと思ってたなら、先に調べてほしかった」
修一は画面を閉じかけた。責められるなら、もう見せたくなかった。
真紀が続けた。
「戻れと言ってるんじゃない。私は、今日あなたがどこにいるか、会社から聞いた。明日の生活も、ある日そうやって知るのは嫌なの」
修一は手を止めた。
「悪かった」
会社では言えなかった謝罪が、ここでは必要だった。
数日間、仕事より連絡をする方が難しかった。
会社へ出勤を続けられないことを伝え、必要な手続きについて相談した。担当者からは退職する場合の書類と、返却する物の一覧が届いた。すぐに全てが終わるわけではなかった。
木崎からも連絡が来た。
〈引継ぎなしで逃げるのか〉
修一は何度も返事を書き直した。言い返す文は長くなる。結局、現在の案件と記録の場所を整理し、担当者へ送った。自分が承認したもの、まだ承認を待っているものを分けた。
分けている間に、西尾の困る顔を思い出した。
木崎に困ってほしかった。会社に困ってほしかった。その中に西尾や、自分へ丁寧に対応してくれた仕入先の人も含まれることは、考えないようにしていた。
西尾へ電話をかけた。
「今の仕事、一覧を送った。分からないところは聞いて」
「佐伯さん、戻らないんですか」
「たぶん」
「そうですか」
西尾は短く答えた。少しして、会社で説明してもらった品番の違いを確認したいと言った。
修一は説明した。仕事が終わると、西尾が言った。
「あの日、何も言えなくて、すみませんでした」
「俺も、君にきつく言った」
電話の向こうで、誰かが西尾を呼んだ。
「行って。あとは、表の下に書いてある」
切ってから、修一は空の机を見た。もう、誰かに呼ばれて席を立つことはない。
持ち物の返却と書類のやり取りが進み、退職の日が決まった。
自分の電卓と少しの私物は、箱に入って届いた。送り状の字は西尾のものだった。礼のメッセージを送ると、返事は〈お疲れさまでした〉だけだった。
箱の底に付箋が一つ入っていた。
〈注文表、引き続き使います〉
修一はそれを机の引き出しへ入れた。会社のためにした仕事のすべてが、木崎のものになったわけではなかった。
その夜、森田から電話が来た。
「辞めたって?」
「真紀から聞いた?」
「連絡が来た。飯くらい付き合ってって」
「そんなに心配することじゃないよ」
「俺も、まだ何も言ってない」
修一は笑った。何を聞かれても先に防ごうとしている。
「会社に行かなくなったんだ」
そう言うと、森田はしばらく黙った。
「じゃあ明日、昼に会える?」
平日の昼に友人と会う。修一には、その予定が初めて自分の時間らしく思えた。
翌朝、目覚ましが鳴っても急いで起きる必要はなかった。
それなのに、修一は会社員のときより早く机についた。誰にも邪魔されない一日がある。ライターの案件を終え、ブログを更新し、収入の良い記事を増やせる。
カレンダーに、今日やることを書いた。空白はすぐ埋まった。
九時を過ぎても、木崎から電話は来なかった。
修一は何度も時計を見た。胸が軽かった。その軽さを忘れたくなくて、作業を続けた。
昼に森田と会うはずだったが、原稿が終わらなかった。待ち合わせを三十分遅らせてもらう。森田は了解とだけ返した。
出かける前、継続案件の編集者からメールが来た。
〈今月分、公開日を調整します。納品も来月に変更できますか〉
入金の見込みが後ろへずれる。
修一は返事を書く前に、アフィリエイトの成果を見た。検索からの訪問は、先月の同じ週より減っていた。一時的な変化かもしれない。毎日見ていれば、そういう日はある。
収入の表を開いて、七十万円のセルから下へ目を移す。
今月の空欄は、まだ白かった。
修一はパソコンを閉じた。駅へ向かう道は、朝とは違って空いていた。
昼の電車に乗れる自分を嬉しく思いながら、さっきの白いセルを頭の中で埋めようとしていた。