シルクコード図書館 · 小説社員ゼロの社長 · よし

社員ゼロの社長 · 著者 よし

第2章 最初の37円

目次

採用の返事は、木曜の朝五時四十七分に届いた。

 修一は布団の中で読み、音を立てずに起きた。台所で湯を沸かし、まだ暗い窓の前に座る。書くのは、卓上の小さな調理家電についての記事だった。読者は、買うかどうか迷っている人。便利な点だけでなく、置き場所と手入れについても説明するよう指定されていた。

 文字なら毎日書いている。そう思っていたのは、資料を開く前までだった。

 メーカーの説明を読んで書けば、メーカーの説明と同じ文章になる。別の言い方に直せば、意味が変わる。使っていない物について、自分が使ったように書くわけにはいかなかった。

 修一は仕様を表にし、重さと寸法を確かめ、交換する部品の値段を探した。会社へ行く時間になるころ、出来ていたのは見出し三つだけだった。

 通勤電車の中で文章を直した。昼休みに不足した条件を調べ、帰宅後に続きを書いた。完成した原稿は、千五百字より少し長かった。

 納めた翌朝、修正の依頼が来た。

〈読者が最初に知りたいことを、冒頭に置いてください〉

 修一は原稿を読み返した。冒頭の三百字を使って、商品の歴史を説明していた。調べるのに時間がかかったから、捨てたくなかったのだ。

 消して、置く場所がない人には向かない、と書いた。

 千二百円が確定したとき、修一は作業時間を数えた。八時間を超えていた。

「百五十円以下だな」

 食卓で言うと、真紀は箸を止めた。

「やめる?」

「やめない。最初だから」

「だったら今夜は、最初の仕事が終わったお祝いにしようか」

「千二百円じゃ、何も買えないよ」

「金額の話をしてるんじゃない」

 修一はうなずいたが、うまく喜べなかった。会社では働く意味を金額以外で説明しているのに、自分で始めた仕事では、まず金額が目に入った。

 振り込まれる日は少し先だった。画面にある報酬と銀行にある金の間に、時間があることも初めて意識した。

 次の仕事は二千円だった。調べる範囲を決め、構成を先に確認してもらうと、修正は減った。三本目は断られた。実績のある人に頼むことにした、と相手は丁寧に書いていた。

 その丁寧さが、かえって痛かった。

 夏が終わるころ、修一には二社の依頼先が出来た。平日の夜と土曜を使えば、月に数万円になった。自分の文章が知らないサイトに載るのを見るのは嬉しかったが、読者の反応は分からない。原稿を納めれば、次の原稿が来る。

 会社でも誰かの指示を受け、夜も誰かの指示を受けている。

 依頼をくれる人たちは木崎のようではなかった。それでも、一つの仕事を終えるたびに、次を頼んでもらえるか心配する自分は同じだった。

 修一は自分のブログを作った。

 最初は、比較記事を書くときの調べ方を記した。次に、家で使っている物を紹介した。使ったことのない物は、仕様の比較だと書いた。便利な点と、買わなくてもよかった点を分けた。

 作る前には、もっと面白い文章を書けるつもりだった。自分の場所になると、誰に向けて書けばよいのか分からない。

 アクセスは一日に五件だった。そのうち何件かは、自分かもしれなかった。

 紹介した商品を読者が購入すると、紹介料が発生する仕組みに申し込んだ。承認されるまで、修一は何度もメールを見た。会社に命令されない仕事を始めたつもりでも、他人の承認を待つ場面はなくならなかった。

 十月の火曜、帰りの電車で管理画面を開くと、前日までゼロだった欄に数字があった。

 三十七円。

 表示を拡大した。三十七円だった。

 日用品の比較記事から、買い物が一件発生していた。大きな申込みではなく、少額の商品だった。発生した紹介料は、まだ確定していない。返品などがあれば消えるかもしれない。

 修一はスクリーンショットを撮った。

 ライターとしての報酬は、それ以前にも受け取っていた。けれど、その金を払った人は修一へ仕事を頼んだ人だった。三十七円は違う。修一が自分で選び、調べ、書いた記事を、知らない誰かが読んだ。その先で、買うという判断があった。

 顔も名前も分からない人が、自分の文章を通り過ぎずに立ち止まった。

 駅を出た修一は、いつもより早く歩いた。

「出た」

 家に着いて、真紀に画面を見せた。

「何が?」

「紹介料。ブログから」

「三十七円?」

「うん」

 真紀は笑った。金額を笑ったのかと思って、修一は説明を急いだ。

「まだ小さいけど、百件なら――」

「顔が違うと思って」

「顔?」

「千二百円のときより、嬉しそう」

 修一は画面を見た。三十七円で買える物を考えてはいなかった。

 その晩、記事を一つ書き足した。

 売上のある記事の真似をすれば増える。初めはそう考えた。

 同じ型で十本書いた。ほとんど読まれなかった。紹介料の高いサービスを扱えば増える。そう思って比較記事も書いた。自分でも説明しきれない条件があり、記事は下書きのまま止まった。

 ある夜、読者から質問が来た。

〈途中で解約した場合の費用が分かりません。紹介されているプランでも、追加でかかるのでしょうか〉

 修一は紹介先の説明を読み直した。料金表の脚注に条件があった。自分の記事は、脚注を落としていた。

 答えを書きかけて、消した。

 記事を直せば、申込みが減るかもしれない。だが、この人は費用を知りたいから聞いている。修一が紹介料を欲しがっているかどうかは関係ない。

 条件を明記し、質問への返信を送った。

 翌日、返事が来た。

〈分かりました。今回は見送ります。ありがとうございました〉

 修一は椅子の背にもたれた。金にはならなかった。ほっとした自分と、惜しいと思った自分がいた。

 返事の画面を閉じ、前月の紹介料を見た。二千八百十四円だった。

 冬には、仕事をする机を変えた。食卓では真紀が食事をしたいときに片づけなければならない。部屋の隅に小さな机を置くと、今度は修一が片づけなくなった。

「土曜、出かけるって言ったよね」

「この記事だけ」

「先週も、この記事だけだった」

 修一は保存して立った。出かけたあとも、記事の見出しが頭から離れない。楽しいことに時間を取られているのだから、会社とは違う。自分にそう言い聞かせた。

 それでも真紀から見れば、隣に座っているのに別のことを考えている夫は、以前と同じだった。

 日曜の夕方、修一は森田と食事をした。

「副業、どうなの」

「少しずつ。ライターの仕事と、ブログ」

「文章、得意だったっけ」

「得意じゃないから調べるんだよ」

 森田はうなずいた。

「読まれなきゃ、ただの日記だろ」

 修一が言うと、森田は焼き魚の骨を取りながら答えた。

「日記も、書く人には意味があるけどな」

「俺は稼ぎたいんだ」

「それは知ってる」

 森田の笑いには悪意がなかった。そのことが、修一には少し面白くなかった。もっと驚いてほしかった。

 春には検索から来る読者が増えた。最初の記事より、質問に答えて直した記事が読まれた。紹介する順番を変え、良い点だけを大きく書いた記事より、向かない人を説明した記事から申込みが出ることもあった。

 すべてがそうではない。丁寧に調べても読まれない記事はある。短い記事が急に読まれることもある。修一は、その違いを探るために数字を残した。

 紹介料の発生、確定、入金を別々の欄にした。書いた本数ではなく、更新して改善した記事も記録した。

 会社で品番と承認を整理していた癖が、別の場所で役に立った。

 一度、紹介料の高い商品を比較の上に置いた。悪い商品ではなかったが、一番に選ぶ理由を自分でも説明できなかった。成果は増えた。

 修一は、その画面を見てから記事を直した。誰かに叱られたわけではない。翌日また管理画面を開き、減った数字に腹を立てた。

 正しい選択をすれば気分も良くなる、とは限らなかった。

 一年が過ぎると、毎月の紹介料は会社の給与を超える月が出てきた。ライターの継続案件も残していた。片方が減れば、もう片方がある。

 売上が七十万円に達した月、修一は表のセルを青く塗った。外部の費用を引いたあとに残るのは、四十万円ほどだった。会社の給与と比べるには、まだ考えるべき支出がある。真紀にもそう説明した。

「何か月、続いてるの」

「三か月」

「この先も同じ?」

「分からないけど、記事は増えてる」

「増えたら、同じだけ入るの?」

 修一は表の下を見た。更新する時間が取れず、検索からの訪問が減っている記事があった。

「記事による」

「辞めたいから、良い数字だけ見てない?」

 真紀は静かに言った。修一は、会社を辞めたいと口にする前に、そのことを知られていた。

「少なくとも、会社の給料だけじゃなくなった」

「うん。それは、すごいと思う」

 その一言を待っていたのだと、修一は気づいた。

 金の話をしていたつもりで、褒めてほしかった。

 会社では、木崎の声が少し遠くなった。

 理不尽な要求がなくなったわけではない。けれど、毎月の給与を失うことが、以前ほど怖くなかった。辞めても何か出来る。そう思えば、一度くらい言い返せる気がした。

 同時に、会社の仕事で分からないことを聞かれると、苛立つようになった。自分の時間なら記事を書ける。その時間を、他人の不注意の穴埋めに使いたくなかった。

 西尾に数字の確認を頼まれた日、修一は「表を見れば分かる」と答えた。

 西尾は礼を言い、別の人の机へ行った。背中を見ながら、修一は自分が嫌っていた言葉を使ったことに気づいた。

 呼び戻そうとして、木崎の声に止められた。

「佐伯、明日の朝、会議室な」

「何の件ですか」

「納期。お前の確認が足りなかった件」

 修一には心当たりがあった。自分が確認しなかった件ではない。木崎の承認が止まっていた件だった。

 鞄にスマートフォンを入れる前に、管理画面を見た。その日の紹介料は、会社の一日分の手取りより大きかった。

 数字の入った小さな画面を閉じた。

 今度は黙らない。

 そう思ったが、何を言うかまでは決めていなかった。

右から左へ読み進めます · この章 0%

この作品はフィクションです。経験を出発点に人物・企業・出来事を創作・再構成しています。将来の成功を描く部分は創作であり、実際の業績を示すものではありません。