CHAPTER 12 / 13

第12章 別の番号

 東京の部屋では、窓を開けても銀杏の匂いがしなかった。

 十一月の最初の月曜日、灯里は机に機材を戻した。家を空けている間に届いた郵便が、玄関の箱に溜まっていた。筒木から持ち帰ったのは、母の台本が二冊と、発表会のプログラム。仕事の記録は必要な控えだけで、音源の原本は町へ渡し、自分の機材に残った委託用のデータは契約の手順に従って削除した。

 母の声を、いつでも聞けるところへ置きたい気持ちはあった。だが、仕事で預かった音と、娘が個人的に持っていたい音は、同じではない。退職前の案内放送について、家族向けの複製が可能かどうかを別に相談することにした。できると決まる前に、自分だけの保存箱へ入れなかった。

 新しい番組の打ち合わせは、午後二時からだった。取材先は東京近郊の小さな商店街で、閉店する店と新しく開く店をつなぐ企画だ。依頼主は以前から仕事をくれている制作会社だった。担当の堀内は、灯里の事前の質問を見て、編集後の確認を全員に頼むのは難しいと言った。

「放送まで三週間です。話者が七人いる。全員が直したいと言えば、終わらない」

「事実関係と、本人の意図が大きく変わっていないかだけでも。全部を好きなように変えられるという約束にはしません」

「どこまでが意図か、線を引けますか」

「先に説明する文面を作ります。確認する範囲と期限を」

 灯里は用意した案を画面に出した。取材の承諾と、編集した音の利用の承諾が、どのように説明されているか。話した内容のうち使われない部分があること、発言の順序が変わる場合があること。確認を頼む範囲を具体的にした短い紙だった。

 堀内は長い息をついた。

「必要なのはわかります。でも、この予算でやれるかどうかは別です」

「はい。追加の作業時間を見積りに入れています」

「灯里さん、何かあった?」

 灯里は一瞬、母の話をしたくなった。二十六年前の案内室、二十三秒の沈黙。話せば、なぜ今こういう条件を言うのか、相手に伝わりやすい。自分の変化を説明する、よい物語だった。

「仕事の手順を、見直しました」

 灯里はそれだけ言った。

 堀内は見積りを持ち帰った。結果は、全員への編集後確認はできない、ただし収録前の利用説明を改め、特に意味の変わりやすい編集は担当者が本人に確認する、というものだった。灯里の作業時間も二日増えたが、見積りどおりにはならなかった。

 完璧な条件ではない。引き受ければまた迷うだろう。灯里は、編集の方針を記録し、確認が必要な箇所は仮のまま渡すことを条件に受けた。一度に正しい場所へ行ける道ではなかった。どこをまだ越えられないかを、相手と共有して進むしかない。

 実際の編集で最初に止まったのは、閉店する魚屋の主人の発言だった。新しい店へ場所を譲るのは寂しくない、と彼は笑っていた。後半には、もう十年だけ働きたかった、とも言っていた。二つを順番どおりに並べても、番組の構成によっては、笑いを強がりと決めつけることになる。

 灯里は二つの発言を使う意図を堀内へ説明し、本人への確認を頼んだ。翌日返ってきた答えは、どちらも本当だ、というものだった。寂しくないのは、新しい店の人が挨拶に来てくれたから。十年働きたかったのは、隣の惣菜屋と毎朝会う生活が好きだったから。それぞれ、違う相手について話していたのだ。

 質問の前後を残して編集すると、意味は明瞭になった。その分、新店舗の紹介を十二秒削る必要が出た。堀内は難色を示したが、灯里が編集前と後を比べて渡すと、紹介文を画面の文字へ移す案を出してくれた。

 魚屋の主人は確認した音を聞き、自分の声が年寄りに聞こえると言って笑った。そこは直せないと伝えると、直さなくていい、と答えたという。灯里はその報告を読み、本人が気にする場所は編集者の想像と同じではないことを、もう一度確かめた。

 番組の完成日に、堀内から作業の振り返りが届いた。確認の工程は一日遅れた。次回は収録の時点で、確認に必要な連絡方法と日程を押さえること。灯里は、自分の段取りにも不足があったと返信した。よい考えを持つだけでは、手順は動かない。直す場所が、また一つ具体的になった。

 収録の音が届いた週、筒木から会議の確認稿が送られてきた。個人名は載っていなかった。過去の測定値の扱いと、案内文の課題が資料番号つきで示され、今後の調査には荷物、休憩、季節の条件を含めるとある。灯里は内容を確かめ、訂正は一か所だけ送った。北階段を使う人が全員困っていたように読める文を、利用条件によってはバスに接続できない場合がある、へ直す提案だった。

 千鶴も確認したという連絡が、別に届いた。灯里は彼女が何を直したかを尋ねなかった。確認する権利を、娘の自分が見届ける必要はない。

 東側の通路の計画は、予想より遅かった。町の費用負担には予算の組み替えが必要で、工房の倉庫の戸を動かす設計にも時間がかかっていた。冬前の一部供用は見送られた。学校の小型車は十二月まで延長され、一般利用者向けの予約枠も調整されたが、どちらにも条件は残った。

 結衣からは、模型の写真が一枚届いた。待合室の展示台の上に、母親が撮った写真も添えられている。題名の下に「この通路は現在利用できません」と大きく書き足したという。案内室の実物は、写真の翌週に解体された。

 その知らせを見た日、灯里は昼の仕事を止めた。しばらく窓の外を見ていた。東京の向かいの建物では、ベランダで誰かが布団を裏返していた。煉瓦が崩れる音を聞かなかったことに、今になって寂しさが来た。壊れる現場にいなくてよかった気持ちもあった。

 灯里は母の台本を開いた。ここで待つ。その印のある頁を声に出して読んでみた。相手の台詞は誰も言わないので、自分の台詞が来るまで、ただ待つしかない。思ったより長かった。母はこの時間に、舞台の相手の顔を見ていたのだろう。

 その夜、灯里は真琴へ電話した。用件を先に言わず、今、少し話せるかと聞いた。真琴は仕込みが終わるまで十分待ってと言った。灯里は電話を切り、十分後の連絡を待った。待っている間にお茶を入れ、台所の床を拭いた。何も進まない時間ではなかった。

 真琴は、店の冷蔵庫が壊れかけている話をした。灯里は、案内室の解体の話をした。二つの話の重さを比べずに、四十分ほど話した。最後に真琴が、母の家の屋根の点検は忘れていないかと聞いた。灯里は忘れていた。翌朝、町の業者へ連絡した。

 十二月、大庭から正式な文書が届いた。東側の通路を町と組合、食品会社が共同で整備する。町の土地の部分は町が管理し、敷地をまたぐ部分は利用の協定を結ぶ。車両との分離、照明、滑りにくい舗装を行う。勾配があるため、すべての人が単独で利用できる道とは案内しない。北階段は復旧せず、代わりにこの経路と南の道路の情報を併記する。

 灯里は文書を読み、結衣へ連絡する前に止まった。学校には学校の窓口から知らせることになっている。自分が朗報を一番に運ぶ人である必要はない。

 その日の夕方、結衣から先にメールが来た。先生から聞きました、とある。続けて、道ができるのは嬉しいけれど、私が卒業する前に使えるかはまだわからない、と書いてあった。

 灯里は返事を考えた。あなたのために動いたことは無駄ではない。後輩が使える。いくらでも言える言葉があった。どれも、結衣が自分で決める意味を先回りして渡すことになる。

 卒業する前に、使えるといいね。

 それだけ書いた。結衣から、そうですね、と返ってきた。

 年が明けて、灯里は町から、保存された七四番の扱いについて説明を受けた。非公開の資料として、目録には内容を限定して記載する。利用を希望する者が現れた場合は、所定の手続きを取り、関係者の意向を確認する。永久に誰にも聞かせないという約束でも、いつか自由に使えるという宣言でもなかった。

 七五番は欠番のまま残る。予定された訂正版は作られなかったことを、台帳の追記に示す。今の案内を七五番として録音するのは、過去の仕事が完了したように見えるため、しない。灯里はその判断に同意した。

 母が完成できなかったものを、娘が完成させる。それは物語としては収まりがよい。だが、今の道は二十六年前の道ではなく、今の利用者もあのときの利用者ではない。灯里が作るなら、別の番号と、別の日付が必要だった。

 その提案を送ると、大庭から、案内は音だけでなく文字と図を基本にしたい、と返事が来た。灯里は思わず笑った。声の仕事をしに帰った自分が、声を使わない案内の相談を受けている。

 彼女は、音は文字を読みにくい人にも役立つので、必要に応じて同じ情報へ到達できる形にしたいと答えた。相手の声を消すのではなく、声を唯一の入口にしない。それが、今の自分には一番確かな言い方だった。

 窓の外では、冬の早い夕方が始まっていた。灯里は仕事の音源へ戻り、ある話者の長い息を聞いた。消すか残すかを決める前に、その前後をもう一度聞く。たったそれだけの手順が、以前より少し長くなっていた。