CHAPTER 11 / 13

第11章 今日の遅れ

 三十一日の朝、北階段はもう閉じられていた。

 灯里は母の家を出て、最後に案内室へ鍵を返しに行くつもりだった。階段を下りかけると、踊り場の下に黄色い帯が渡されている。紙には、手すりの固定部に損傷が見つかったため、予定を早めて通行を止めると書かれていた。大庭の名前ではなく、町の施設管理の連絡先が載っている。

 灯里は一段だけ下り、すぐに戻った。通れるほどの隙間はある。下へ着けば駅前まで近い。けれど、自分一人が渡れば済む話ではなかった。踵を返し、学校の門の方へ歩いた。

 門の前に結衣がいた。例の大きな箱を足元へ置いて、携帯を見ている。紺の作業着の肘に、白い土がついていた。

「今日は学校?」

「学校祭の準備。午前中に、駅前の展示へこれを運ぶつもりでした」

 結衣は箱を指した。案内室の模型だった。灯里は初めて、模型が駅前で飾られる予定だったと知った。工房と学校が、直売所開業前の展示を待合室で始めるという。

「階段、閉まってた」

「見てきた。南を回るしかないね」

「十時二十分に、母と駅前で待ち合わせてるんです。交代で仕事に入る前に見たいって。今、電話したけど、作業中で出ない」

 時刻は九時五十八分だった。灯里の乗るつもりのバスも十時二十分だ。学校から南を回れば、荷物を持って二十八分以上かかる。走れば縮まるかもしれない。しかし模型の箱を抱えて走ることはできない。

「先生は?」

「職員室にいる。車、出せるか聞いたけど、今は別の実習に行ってる。展示は午後でもいいから、急ぐなって」

 結衣は、先生の返事には不満がないようだった。急げないのはわかっている。問題は、母親が何も知らずに駅前で待ち、それから仕事へ行かなければならないことだった。

 灯里は真琴なら車を出せるかと思った。だが土曜の午前は店の一番忙しい時間だ。相良も工房の点検中だろう。誰かがいれば、という考えは、電話帳の中を延々と歩かせる。

「一緒に行こう。私の荷物は軽いから、箱の紐を持つ」

「バス、間に合わないですよ」

「次に乗る。先に駅前の売店へ電話して、お母さんが来たら伝えてもらおう」

 道子はすぐに電話へ出た。灯里が事情を話すと、結衣の母が来たら、南の道を歩いていると伝えると言った。待てるのは何時までかも聞いておくという。

 灯里は結衣と箱の持ち方を確かめた。結衣が背負い、灯里は横で下の支え紐を軽く持つ。重さを無理に引き受けると箱が傾くので、足場の悪い所だけ補助する。それは英雄的な手伝いではなく、二人で荷物を運ぶための、少しぎこちない役割分担だった。

 南の道路には、土曜の朝の車が多かった。工事車両の出入りはなかったが、横断歩道の信号に二度つかまった。結衣はいつもより無口で、模型の揺れに気を配っている。灯里も、励まそうとして言葉を足すのをやめた。

 坂の途中で結衣が止まった。肩の紐が食い込むという。二人は歩道の広い場所へ寄り、箱を地面に置いた。灯里は時計を見た。十時十二分。駅前まで、まだ半分ほどある。

「やっぱり、間に合わないね」

「わかってます」

 結衣の返事は短かった。灯里は、間に合わない事実を何度も確認することは、助けにならないと気づいた。

 結衣は水筒を出した。蓋の縁に粘土の粉が白くついていた。飲んでから、灯里へ水筒を少し掲げた。分けるという意味ではなく、自分はもう行けるという合図だった。

「この模型、階段があるままなんです」

「なくなる前の町だから、いいんじゃない」

「でも、今の道だと思う人がいたら困る。題名をつけようと思って」

「何にするの」

「十月二十日の駅前。測った日じゃなくて、最初に形を作った日。もう、直さない。今の町の模型は、また別に作る」

 灯里はうなずいた。古い形を消して新しい形へ直すより、いつの形かを示す方がよい場合もある。結衣はそれを、造形の問題として考えていた。

 歩き出すと、灯里の携帯が震えた。道子から、母親が来たという連絡だった。十時三十五分までは待てるとのこと。灯里は結衣に伝えた。結衣は少しだけ歩幅を広げたが、すぐに元へ戻した。

「急がなくていいって言ったら、怒る?」

 灯里が聞くと、結衣は首を振った。

「急ぎたいのは、わかっててほしいです」

「わかった」

 二人はまた黙って歩いた。急ぐ気持ちと、ゆっくり歩く身体は、同じ人の中で一緒にいる。灯里はそれを、録音の中より先に、自分の隣で見ているべきだった。

 駅前に着いたのは十時三十一分だった。十時二十分のバスは去り、待合室の時計の針が大きく見えた。結衣の母は、仕事用の帽子を鞄へ押し込んで立っていた。二人を見ると、怒るより先に箱の下へ手を出した。

「どこへ置くの」

 結衣が展示台を指し、三人で箱を下ろした。蓋を開くと、焼かれた模型が現れた。灰色の屋根、煉瓦色の壁、三十六段の階段。母親はしゃがみ、階段の下の一段へ顔を寄せた。

「ここ、ちゃんと埋まってる」

 結衣が笑った。灯里はその笑いを聞き、肩に入っていた力を抜いた。母親は三分ほど模型を見て、結衣の髪についた埃を払った。写真を一枚撮り、仕事へ向かった。娘を褒める長い言葉はなかった。けれど結衣は、来てもらえてよかったと、母親の背中へ言った。

 灯里は売店で、次のバスの時間を確かめた。十二時二十分。市からの列車も変更が必要だった。東京で約束していた打ち合わせは翌日なので間に合うが、夕方の受け取り荷物の時間をずらさなければならない。彼女は携帯で手続きをし、余計にかかる運賃を確認した。

 間に合わなかった時間は、物語の中で温かく帳消しになるわけではない。結衣の母も、遅れた分をどこかで取り戻すだろう。灯里は、今朝の出来事を素敵な思い出にまとめるのは、まだ早いと思った。

 道子がコーヒーを出した。今度は灯里が代金を払った。模型の展示台へ、結衣が題名と日付を書いた紙を置いた。横には、現在は北階段が通行できないことを、役場の案内から写して添えた。

「記念なのに、注意書きが多いですね」

 結衣が言うと、道子が答えた。

「見て歩きたくなるくらい、うまくできてるってことでしょう」

 灯里は窓の外の案内室を見た。扉には閉室の紙が貼られ、取り外す予定の看板が壁に立てかけられていた。あの部屋に母の声がいるわけではない。声は箱とデータに分かれ、資料室へ移っている。机の傷は机と一緒に、まだそこにあった。

 大庭が鍵の返却を受け取りに来た。階段の損傷は前夜の点検で見つかり、今朝早く通行を止めたと説明した。学校への連絡が朝の担当者止まりになり、全体の掲示が遅れたという。結衣が困ったことを伝えると、大庭はその場で学校へ連絡し、閉鎖時間の変更が伝わっているかを確認した。

「何もかも、最後に一度ずつ漏れますね」

 灯里が言うと、大庭は疲れた顔で笑った。

「漏れない仕組みにしたいんです。漏れたから仕方ない、で終わらせずに」

 灯里は鍵を渡した。樹脂の札にある「声」の字を、もう一度だけ見た。

「これは、建物の資料として残しますか」

「看板と一緒に、収蔵します。目録にも載せます」

 母の鍵は、娘の掌を離れた。軽かった理由が、そのとき少しわかった気がした。軽いから一人で持てる。けれど、その鍵が開ける場所に必要な仕事まで、一人で持てるわけではなかった。

 十二時二十分、灯里はバスに乗った。結衣は学校へ戻り、道子は昼の蕎麦の支度を始めていた。相良から短いメッセージが来た。機器の受領は無事に済んだ。工房では次の窯を焚き始める。

 バスが発車すると、案内室の煉瓦が窓の端へ流れた。灯里は写真を撮らずに見ていた。見えなくなるまで見た。それだけで、残らない部分があることも引き受けたかった。

 市の駅へ着く少し前、千鶴から返事が届いた。記録の確認の手順について、役場から連絡があったという。最後に一行、気をつけて帰ってください、とあった。

 灯里は、ありがとうございます、と返した。二人の間にあるものは、許したという言葉ではなかった。それでも、次に連絡するときの入口が、閉じられてはいなかった。