搬出の翌朝、灯里は案内室ではなく、母の家の窓を開けた。
納品の確認は午後だった。午前中に、家に残る箱を一つ整理するつもりだった。母の台本を机に並べると、仕事の音声を波形にして見るよりも、その人の手の動きが近く感じられた。鉛筆の跡は濃いところと薄いところがあり、頁の角には何度もめくった擦れがある。
真琴の母から、短い手紙が届いていた。頼んだとおり、舞台について覚えている範囲だけが書かれていた。母が劇団を辞めたのは、夜の案内当番と練習が重なったため。役を降りるときに、声が出ないわけではないけれど、人の前で待たせることが苦手になった、と話したという。
灯里はその一文を何度か読んだ。二〇〇〇年の録音と結びつければ、もっともらしい説明になる。だが手紙には、その理由は聞いていない、と続いていた。灯里は自分の中でできた矢印を、いったん消した。
台本の余白にある「ここで待つ」は、相手の台詞を待つ印だった。母は相手が言い終わる前に自分の言葉を出してしまう癖があり、演出の人に何度も言われたのだそうだ。灯里には少しおかしかった。家では母の質問を最後まで聞く前に、「わかってる」と答えていた。二人とも、相手が何を言うかを先に知ったつもりになる点で似ていた。
携帯が鳴った。千鶴からだった。灯里は窓を閉め、座り直した。
「メール、読みました。会議の記録は、できたら確認させてください」
「はい。個人名と、個人の経緯に関わる記載がないか、役場から確認できる形をお願いしています」
「録音のことも、決めたいです」
灯里はノートを開いた。
「七四番の原音は、町の資料として保管されます。今の整理では公開不可、内容確認が必要、としています。私が決めてよいのはそこまでです。保存の期限や利用の手続きは、役場の資料担当に引き継ぎます」
「消してほしいと言ったら?」
「町の記録としてどう扱うかの判断が必要になると思います。私の判断だけで消せるとは言えません。ただ、その希望があることは、そのまま伝えます」
灯里は、安心する答えを出したくなるのを抑えた。自分に権限のない約束をすると、千鶴は次に別の窓口で、また初めから話さなければならなくなる。
「私、全部を消してほしいわけではないです」
千鶴は言った。
「自分があそこで何を言ったか、残っているのは少し怖い。でも、なかったことにされるのも嫌です。両方ある」
「はい」
「誰でも聞けるものにはしないでほしい。利用の相談が来たら、私が判断できる間は、私に知らせてほしい。それを役場と話せますか」
「担当者へ希望を伝えて、連絡の手順を文書で確認してもらいます。私から、決まったとは言いません」
千鶴は少し息をついた。
「娘さん、という呼び方をやめます。灯里さんでいいですか」
「はい」
「私は、澄江さんから預かったものがあります。あなたに返すか、迷っていました。今日、見に来られますか」
約束は正午、駅前の売店になった。千鶴は図書室ではなく一階の場所を選んだ。最初に二階で会うと言ったのは、静かな部屋を確保するためで、あの日は階段を上ること自体には困っていなかったのだという。灯里は、彼女をいつも同じ身体状況に置いて考えていた自分に気づいた。二十六年前と今を、一つの数字で結んではいけなかった。
千鶴は先に来て、蕎麦ではなくトーストを食べていた。道子が皿を下げると、布袋から薄い冊子を出した。
「案内の作り方」と、表紙に母の字である。
「退職の前に、私に見てほしいと言って持ってきました。個人情報の部分は抜いてあります。案内室の後任へ渡す手順だそうです」
灯里は頁を開いた。原稿の書き方、日付と時刻の確認、数字の読み、問い合わせが重なった場合の対応。末尾に、道順の説明は距離だけでなく経路条件を示す、とあった。手書きの追記には、階段、休める場所、照明、季節、と列挙されている。
「お母さんは、遅すぎると言いました。私は、遅いと思う、と答えました」
千鶴は湯飲みを持った。
「でも、遅いからもう何もしない、という理由にはしないでほしいとも言った。その冊子は、返しそびれたんです。最後まで読んだと言うのが、何かを認めたみたいになりそうで」
「今、返そうと思ったのは」
「私が持ち続けていると、いつか私の荷物を片づける人が、何の冊子かわからず捨てるでしょう。町の記録なら、町へ戻した方がいいと思いました」
灯里はうなずいた。自分へ返すという言葉を、形見をくれるという意味に受け取っていた。冊子は母のものでも、娘のものになるとは限らなかった。
「資料室の担当へ、追加の来歴をつけて渡します。その前に、お預かりした記録を書いていいですか」
「そうしてください」
灯里は受領の紙を二枚作った。冊子の名前、頁数、千鶴が預かった経緯。母の家の遺品としては扱わないこと。千鶴は目を通し、片方へ署名した。
道子が席へ来た。二人の紙をちらりと見て、コーヒーを一杯ずつ置いた。
「これは私の奢り。話の中身は聞かない」
「聞きたい顔です」
千鶴が言うと、道子は笑った。
「聞きたいよ。でも、聞きたいのと聞いていいのは違うでしょう」
灯里も笑った。町の人を、何でも知っていて何も言わない集団だと思っていた自分の狭さが、ようやく少し遠くなった。
コーヒーは濃く、酸味があった。母がここで飲んでいた味に近いのだろうかと灯里が思っていると、道子が、昔より豆は変わったから、と先回りした。灯里の顔に何が書いてあったのかわからない。
「同じにするのも大変なのよ。店も、人も」
道子は言い、厨房へ戻った。
千鶴は冊子を閉じた灯里の手を見た。
「お母さんに、聞きたいことがあるでしょうね」
「たくさんあります。でも、聞けたら、期待した答えじゃなかったかもしれません」
「そうかもしれません」
「私、何か見つければ、母がどういう人だったか、一つに決まると思っていました」
「決まらなかった?」
「前より、決まらなくなりました」
千鶴はうなずいた。それ以上、母をどう思えばよいかの助言はしなかった。灯里はそれが嬉しかった。千鶴を母の解説者にしないで、同じテーブルに座っていられた。
別れ際、灯里は七四番のケースにあった「戻す」という文字のことを聞いた。千鶴は首を振った。
「私にはわかりません。澄江さんが何へ戻そうとしていたか、私が答えると、また一つ話ができてしまう」
「そうですね」
「ただ、そのテープは、私が持ち帰ったものではありません。そこだけは、確かです」
灯里は、わからないことと、違うとわかったことを分けてノートに書いた。紙片に同じ時刻が二つあることも、謎の印のように感じていたが、理由を確かめられる人はいなかった。母の字を、すべて自分に宛てた暗号にする必要はなかった。
午後、納品確認の席で、灯里は冊子を追加資料として渡した。大庭は受領の手順を確かめ、資料担当につないだ。保存と利用について千鶴の希望を記した紙は、誰でも見られる目録とは別に管理することになった。約束を短い言葉で済ませず、担当と連絡方法を決めるのに四十分かかった。
その四十分は、灯里が初めて、短くしなくてよいと思った会議の時間だった。
納品書に署名をもらい、委託は一区切りになった。未確認分を残したことも、追加資料があることも書かれている。完璧に空になった棚はできなかった。代わりに、次に誰が何を確認するかが残った。
役場を出ると、空は晴れていた。灯里は東京へ戻る列車の予約を一日延ばし、三十一日の朝にした。最後の見学会を手伝うためではない。母の家を、もう一度、慌てずに見ておきたかった。