CHAPTER 08 / 13

第8章 決められること

 水曜日の会議室には、声を録る機械がなかった。

 灯里は資料を配りながら、そのことに少し緊張した。誰が何を言ったかを後で正確に聞き直せない。大庭は会議の初めに、職員が要点を記録し、出席者が確認してから共有すると説明した。録音をしないことと、記録を残さないことは違う。灯里はその手順を手帳に書いた。

 出席したのは八人だった。役場から大庭と交通担当の職員。学校から田宮、工房から坂本。食品会社から三枝と工場長になる予定の森。バス会社から運行担当の中野。そして灯里。相良は会社を退職しているため、技術的な質問が出たときに別室で答えられるよう待機していた。

 結衣は授業があった。本人が欠席していることを最初に伝え、昨日の資料は本人と学校が確認済みであると田宮が述べた。灯里は、結衣の代弁者になったつもりで話さないと決めた。

 大庭が三つの案を示した。北階段の存続には、擁壁の調査と補強、冬の凍結対策が必要だった。東側の通路整備には、用地の利用調整と車両動線の変更が必要。現道を使う案は建設費が少ないが、学校からの徒歩時間が増える。

「便を十五分遅らせることはできませんか」

 田宮が聞いた。

 中野が運行表を開いた。工房口の後に六つの停留所があり、市の駅で鉄道に接続する。十五分遅らせると、帰宅する生徒がその先の列車に乗れず、今度は市で四十分待つという。運転手の休憩と次の便にも影響する。

「この便だけ見れば、動かせます。でも一日にすると、他に動かさないといけない部分が出る。費用を含めて検討する時間が必要です」

「一週間では」

「試算はできます。運行の変更は無理です」

 会議室に沈黙ができた。灯里はその沈黙に、誰かが諦める前の空気を聞いた。けれど、言葉で埋めればよいわけではない。

 食品会社の森が、直売所の開業を予定より遅らせる案には応じられないと言った。設備の搬入日が決まり、採用した人の勤務も始まる。階段を残すために建物全体の解体を延期するなら、契約の変更になる。

「人が困るから工場を止めろと言われると、こちらにも、働き始めるのを待っている人がいます」

 灯里は一瞬、反論しかけた。だが坂本が先に口を開いた。

「工場を止めたいとは、誰も言っていません。通る人がいるのに、通路がないことになっている。その部分を、今、図面に入れてほしいんです」

 三枝がうなずき、新しい案を机の中央へ置いた。東側の通路を敷地の端へずらし、車両の出口を南寄りにする。歩行者と車を柵で分け、出口に見通しのよい待機部分を作る。工房側の倉庫の前を通る区間は、組合が利用を認める必要がある。

「幅は広く取れません。勾配も、車椅子の方が単独で利用できる水準かは、詳細設計で確認が要ります。階段がないから誰でも使える、と案内はしないでください」

 灯里は線の横に、その言葉を記した。便利になる図面を見た途端、そこを万能の道にしたくなる自分がいた。

 費用の話になると、会議は再び止まった。会社は敷地内の柵と車両動線の変更を負担できるが、町の土地の舗装と照明は町側に求めた。工房は倉庫の出入口を変える費用を出せないと言う。町には今年度の予備費があるものの、担当だけでは決定できない。

「寄付を募るのは」

 森が言った。

「案内室の思い出を残す、という形で。町の皆さんが少しずつ」

 灯里は母の名前が載る募金箱を想像した。町の声を守るために。母の机の写真を貼れば、集まるのかもしれない。集まった額に合わせて、使う人の道が長くなったり短くなったりする。

「私の母の記録を、その呼びかけに使うことには同意できません」

 灯里が言うと、森は驚いた顔をした。

「いや、お母さまの名前を出すとは」

「すみません。先走りました。ただ、思い出の有無と、通る必要は別です。懐かしい人だけが支える仕組みにすると、町に来たばかりの人の道も同じように必要だと言えなくなる」

 大庭がペンを置いた。

「整備費については、町の施設間を結ぶ動線として検討します。寄付が条件ということにはしません。今日決めるのは、調査と設計を進める方向、それから閉鎖直後の暫定策です」

 灯里は顔を上げた。大庭の声は硬かったが、今度は扉を閉める硬さではなかった。

 暫定策は、学校が実習用に契約している小型車を、放課後に一回走らせる案だった。学校から駅前まで、生徒と教職員が乗れる。ただし一般の工房利用者は対象外で、費用負担と保険の関係もある。

「有賀さんのときと、同じになります」

 灯里は言ってから、名前を出したことを悔やんだ。資料では伏せた名前だ。出席者の何人かが顔を上げた。

 大庭が静かに言った。

「過去の個人名は、ここでは扱いません。対象から漏れる方がいる、という指摘として記録します」

「はい。すみません」

 灯里は手帳の隅を強く押さえた。声を使わなくても、名前を一つ出すだけで、誰かの過去を会議室へ運んでしまう。

 坂本が工房の車の運用を説明した。作品を運ぶ車に人を便乗させることはできないが、一般利用者のうち、駅前へ行く必要がある人数は把握できる。町の予約型の移動支援を臨時に使えるか、交通担当が別途確認することになった。すぐに誰でも乗れる車が湧いてくるわけではない。費用も、申込みの手間も残る。

「それでも、閉鎖前に選べる方法を知らせます」

 大庭は日付を口にした。三十日午後までに学校の掲示、工房の入口、駅前の待合室、町のサイトへ同じ情報を出す。問い合わせ先は役場の交通担当。電話で説明した内容も、担当内で共有する。

 最後に、東側の通路を整備する方向で、町と会社と組合が協議を続けると確認した。十月中に完成することはない。工事中の動線と工場の営業を両立させる必要があり、早くても冬の前に一部を使えるかどうかだった。

 会議は十一時四十分に終わった。画期的な解決、と呼べるものは何もなかった。けれど、誰がどこへ問い合わせるか、誰がいつまでに答えるかは、紙に残った。

 廊下へ出ると、相良が椅子に座っていた。出番は一度だけ、北階段の構造を確かめるための質問だった。灯里が隣に腰を下ろすと、彼は何も聞かなかった。

「私、途中で有賀さんの名前を出しました」

「記録は、どうなりますか」

「個人名は載せないことになりました。でも言った事実は戻せない」

「そうですね」

 相良は慰めなかった。灯里はその方が助かった。

 案内室へ戻る道で、灯里は千鶴にメールを送った。会議で名前を出してしまったこと、内容の詳細は共有せず、記録には載せないこと、再利用はしないこと。自分の失敗を軽くするために、道が整備される見込みだとは書かなかった。良い結果が出るから許してほしい、という交渉にしたくなかった。

 昼過ぎ、搬出の車が来た。灯里と相良は箱の番号を確かめ、目録と照合した。百八十七本は六箱に分かれた。完成音源のうち、劣化の少ないものから六十九本を取り込み、残りには未確認または機械状態による保留と札をつけた。紙の台帳は別箱、機器は修理記録を添えて二台。

 最後の箱を運び出すと、戸棚は驚くほど浅く見えた。灯里は掃除機をかけ、机の裏に貼られた古い紙を見つけた。母の字で、同じ質問が続いたら案内を直す、と書いてある。下に、線を引いて「三件を待たない」と付け足してあった。

 灯里はその紙をそっと外した。母は最初から正しい人ではなかった。少しずつ直そうとして、直さなかったものも残した人だった。自分と同じ、という言葉で片づけるには、母の時間は長すぎた。

 夕方、結衣が案内室へ走ってきた。授業の後に学校で説明を聞いたと言った。小型車の席は十分か、作品を持てるか、団地行きのバスに接続するか。質問が幾つもあった。

 灯里は一つずつ、学校と役場へ確かめることを勧めた。自分が答えると、また窓口が一人の人に戻ってしまう。

「冷たくなったみたい」

 結衣が笑って言った。

「そう見える?」

「でも、どこに聞けばいいかはわかった」

 灯里も笑った。机の上の粘土板を指で押すと、折った紙が外れ、板が小さく揺れた。結衣はもう一度紙を差し込み、今度は灯里にその場所を教えた。