CHAPTER 07 / 13

第7章 返事の届け先

 火曜日の朝、案内室に黄色い三角錐が届いた。

 相良が車から下ろしたものだった。工房の組合から借りたという。灯里は、それを東側の搬入路へ置くのかと聞いた。相良は首を振った。

「勝手に道を閉じるためじゃありません。集まる場所の目印です」

 午前九時、学校の門の前に五人が集まった。灯里、相良、結衣、実習担当の田宮教諭、それから工房の職員で荷物の運搬を担当する坂本という女性。参加を呼びかけたのは学校だった。授業のない時間に、現在の経路と迂回路を確かめる。今度は町の正式な調査ではなく、水曜の会議へ条件を伝えるための下見と、目的を紙に書いた。

 結衣は手ぶらだった。灯里が箱は持たないのかと聞くと、田宮が答えた。

「作品は持ち出しの条件があります。調査のために壊すわけにはいかないので、今日は同じくらいの重さの道具を」

 坂本が布袋を持ち上げた。中には陶土の包みが入っていた。結衣はそれを見て笑った。

「作る前も作った後も、結局、土を背負ってる」

 灯里も笑い、記録用紙に荷物ありと書いた。笑いがあるだけで、困っている人の話が軽くなるわけではない。昨日までの灯里は、真剣な問題には深刻な顔が必要だと思いすぎていた。

 出発時刻をそろえ、まず北階段の道を歩いた。田宮は生徒の前に出ず、結衣の横を歩いた。坂本は靴の底についた砂を気にし、相良は後ろから手すりの状態を見ていた。灯里は時計を見すぎて、一度、足元の小石につまずいた。

「記録係が転ぶと、記録が増えますよ」

 坂本に言われ、灯里は時計をポケットへ入れた。

 階段は下りなら速い。だが重い袋が背中で揺れると、段の縁を踏むのが怖くなる。結衣は一段ずつ正面を向いて下りた。普段はもっと速いが、作品の箱があれば同じように歩くと言った。途中で上ってくる高齢の男性と出会い、踊り場で待った。その待ち時間も消さずに記録した。

 工房口の停留所へ着くと、九分四十秒だった。灯里が九分と書きかけると、結衣が十秒の余りまで残してほしいと言った。

「私の地図は九分です。でも今日の分は今日の分だから」

 灯里はそのとおりだと思った。数字を細かくすれば正しくなるのではないが、丸める前の値を残すことには意味がある。

 次は南の迂回路だった。学校へ戻り、十分休んでから出た。信号の手前で工事の車が歩道を横切り、誘導員が五人を止めた。坂本はその先の坂で袋を左肩から右肩へ掛け替えた。荷物がない日なら気づかない場所で、灯里も肩の紐を直した。

 駅前へ着くまで二十八分二十秒。信号と工事車両の待ち時間は合わせて三分少しだった。田宮は時計を見て、実習を三十分早く終える案では、作業の最後の片づけを生徒から取り上げることになると言った。

「形を作るところだけが授業じゃないので。窯の周りを掃いて、道具を戻すところまで、自分でやってほしいんです」

 結衣は息を整えながらうなずいた。灯里は、早く帰してもらえばよいという自分の最初の考えが、教育のどの部分を省くのかを初めて知った。

 最後に、東側の搬入路を柵の外から確認した。勝手に立ち入らず、道路の所有を示した図面を田宮が持っていた。坂本が、工房の車が出入りする時間帯を説明した。午後四時から四時半が、焼き上がった品を倉庫へ移す時間と重なっていた。

「歩く人を通して、車は待てばいいと言いたいところですけど、窯から出す時間は簡単に動かせない日もあります」

 坂本は申し訳なさそうではなく、必要な条件を述べる顔をしていた。灯里は、それがありがたかった。困っていることを伝えるたびに謝らなくて済む場にしなければ、次の人はまた黙る。

 昼近く、大庭が食品会社の担当者を連れてきた。担当者は設計を受け持つ三枝という女性だった。彼女は自分の車を駅前の駐車枠に入れ、東側の道を下から見上げた。

「ここを人が通る想定は、図面に入っていません」

 最初の一言は、大庭と同じだった。灯里は胸の中に立った苛立ちを押さえた。三枝は図面を開き、その先を続けた。

「でも歩行者を入れると、搬入車の曲がる半径と、ここがぶつかる。今の柵の位置では、確かに見えない。もしやるなら、入口をこの角から離す必要があります」

 彼女は芯の太い鉛筆で、道の横に新しい線を引いた。

「階段は残せないんですか」

 灯里が尋ねると、三枝は別の図面を出した。案内室の基礎と擁壁の一部が重なり、建物を解体した後で手すりだけ残す工法は、安全確認と補強が必要だという。工場の敷地へ階段の出入口を残すなら、人と車を分けるための柵も要る。

「会社が嫌がってる、という話だけではないんですね」

 灯里の言葉に、三枝は少しだけ笑った。

「会社は費用が増えれば困ります。それはそうです。ただ、安全じゃないものを残して、善意だったと説明するのは、設計では通らない」

 大庭は、明日の会議では三案を比べることになると言った。階段の補強と存続、東側の通路整備、現状の道路を使い学校やバスの時刻で調整する案。それぞれの費用、期間、誰が管理するか。

「明日、全部は決められません」

「では、三十一日に閉じた後は」

 結衣が聞いた。大人たちが一斉に彼女を見た。灯里はその目線の数に気づいた。誰かが質問するとき、相手が多いだけで、声を出す仕事は重くなる。

「暫定の移動方法を、学校とバス会社で協議しています」

 大庭が答えた。

「いつ、教えてもらえますか」

「明日の会議の後に、学校から」

「私だけじゃなくて、学校の掲示に出してください」

「そうします」

 結衣はうなずいた。問いを出した人にだけ返事が届くと、同じ道を通る別の人はまた聞かなければならない。灯里はメモに、返事の届け先、と書いた。

 昼食の後、灯里は作業机へ戻った。未確認のテープがまだ百本近くある。夕方までに状態の確認と箱詰めを進めなければならない。だが机の上には、今朝の記録用紙が何枚も広がっていた。過去の棚と今の道を、一人で両方片づけようとしている。どちらも終わらなくなる寸前だった。

 灯里は相良に頼んだ。録音機の状態確認と外観の撮影を、今日の午後だけ進めてもらえないか。その間に自分は会議資料を一枚にまとめ、その後で箱詰めに戻る。相良は、彼の作業分を委託の記録に入れることを条件に引き受けた。

「誰が何をしたか、残してください。手伝ったことにして、見えなくしないで」

「はい」

 灯里は母が何十年も書いていた台帳を思った。すべてを母の字にしてしまうと、誰が測り、誰が消し、誰が決めたかが見えなくなる。母の記録の長所と弱点を、同じ机で学んでいた。

 会議用の紙には、古い録音の台詞を入れなかった。現在の経路、徒歩時間、荷物、待ち時間、階段の条件、閉鎖後に必要な案内。過去については、二〇〇〇年の集計で休憩を含む測定値が除外され、その後の案内に歩行条件が記載されなかった、と資料番号を添えた。個人名は載せず、過去の声は使わない。

 一枚に収めるのは、九十秒の音を作るより難しかった。感情を動かす一言がない紙は、退屈にも見える。それでも、読む人が検討できる形にするのが、今の自分の仕事だと思った。

 午後五時半、結衣が再び来た。布袋を工房へ返してきたと言う。灯里が見せた資料を、彼女は椅子に座らず立ったまま読んだ。

「困ってる人、って書かないでくれたんですね」

「書いた方がいい?」

「わからない。でも、私が乗れないことより、道がこの時間だってわかる方が、人に説明しやすい」

 結衣は最後の欄を指した。閉鎖後の案内を誰が、いつまでに、どこへ出すか。

「ここ、決まらないまま終わると、また案内室に聞きに来ちゃう」

「もう、そのときはここに人がいない」

「だから、困る」

 灯里は、その短い返事を資料へ引用したくなった。けれどやめた。代わりに、窓口の引き継ぎ先を明示、と書き足した。

 結衣は鞄から小さな粘土の板を出した。模型を作るとき余った土で焼いたものだという。板には階段が三十六本の線で刻まれていた。

「記念品にするつもりじゃないんです。測ったこと、忘れないように。机に置いてもいいですか」

 灯里はカップの隣を空けた。板は少し反っていて、平らな机に置くと、片方の端が浮いた。結衣は気にして、下に折った紙を挟んだ。

「こういうの、焼いてみないとわからないんですよ」

「直せない?」

「削れば安定する。でも今は紙で足りる」

 二人はその板を見ていた。直す方法が一つではないものを、灯里は久しぶりに安心して眺めた。