CHAPTER 06 / 13

第6章 九十秒の編集

 月曜日の資料室は、窓を少しだけ開けていた。

 灯里の前に置かれた箱は、予想より小さかった。二〇〇〇年度交通関係、と背に書かれた書類袋が四つ入っている。番号を記した札を机の上に置き、必要な紙だけを一枚ずつ出す。灯里は録音の棚を扱うときと同じ手順で、まず袋の表裏を撮った。

 調査票は五枚。相良が言ったとおりだった。出発地点、到着地点、所要時間、経路。人名の欄は伏せられていたが、工房から工房口までの二十七分の紙はすぐにわかった。備考には「途中休憩二回、北側連絡路利用」とある。その下に、青いインクで「参考値」と書かれていた。

 別の集計表では、四人分だけが平均の計算に入っていた。除外の説明は「一時的な身体状況による」。灯里はしばらくその文から目を離せなかった。相良から口で聞いた言葉が、紙に載ると、誰か一人の判断ではなく、何人でも使える道具になる。

 集計表の原案には、修正の跡があった。母の字で「北側階段経由。途中休憩を要する場合は二十分以上」と書かれ、その文が二本線で消されていた。横に「個別案内にて対応」とある。やはり母の字だった。

 灯里は胸の中で用意していた、小さな逃げ道を失った。母は反対していた。母は声を残した。だから母には何もできなかった。そういう場所へ母を置こうとしていた。けれど最後に紙へ書いたのは、母自身の手だった。

 書類袋の底に、案内室からの改善提案があった。町全体の道順について、階段、坂道、冬季凍結、夜間照明を一覧にする提案だった。作成者は桂木澄江。提出日は翌年の二月で、検討結果の欄に「予算化せず」と印が押されていた。

 灯里は、それを母の救いに使いたくなる気持ちも確かめた。一つ悪いことが見つかると、一つ良いことを探して釣り合わせようとする。人の一生を帳簿のように扱うのは、母を好きだったからだけではない。母に似ていると言われる自分を、どこへ置くかにも関わっていた。

 正午までに必要な写しを取り、担当者へ返した。追加で見たいものはありますか、と聞かれたが、灯里は今ある分を整理してからと答えた。何でも集めればわかるとは限らない。集めることが、判断しないで済む方法になることもある。

 案内室へ戻ると、大庭が待っていた。スーツではなく紺色の上着で、脇にファイルを抱えている。

「午後、学校と工房と会社に連絡します。打ち合わせを一本、追加できるかもしれません。明後日、水曜の十時」

「搬出の日ですね」

「ええ。前倒しで、学校は昨日から検討を始めています。ただ、委託の納品は予定どおりお願いしたい」

 灯里は修正した作業計画を見せた。全本の所在と状態は確認する。完成音源は優先して取り込む。相談や試作のテープは未確認分を明記し、処分しない。残りを資料室で確認するための手順と、費用の目安もつけた。

「全部が聞けないなら、契約と違うのでは」

「最初の仕様では、全点の目録と保存対象の選別です。七日で百八十七本を全部精聴するとは書いていません。でも私も、できるつもりで受けた。その見込みは甘かったです」

 大庭は予定表を見た。灯里は机の下で膝を押さえた。自分の見積りの誤りを言うのは、母の判断を調べるよりずっと難しかった。

「選別できない分を、未確認として全部残す。それでは棚が足りない」

「紙の箱は二段に収まります。データ保存は別です。長期保管を今約束してほしいのではなく、確認前に処分しない期限を決めてほしいです」

「一年」

「その間に担当を決められますか」

「決めるための資料を、納品に入れてください」

 大庭はペンで計画の余白に線を引いた。二人で、できることとできないことを具体的な日付に分けた。灯里は胸が少し軽くなった。初めの約束を完璧に守るより、途中で直すことの方が、仕事を壊さない場合もある。

「一つ、相談です」

 大庭が別の紙を出した。

「引き渡しの説明資料に、案内室の歩みをつけます。建物を壊すだけではない、と伝えるために。お母さんの案内を短く聞けるようにできませんか。学校への案内とか、町の記憶になるものを」

 灯里は紙を受け取らなかった。

「昔の、徒歩十分という案内ですか」

「他のものでも。懐かしい声だと言う人が多いので」

「間違った条件のままの案内を、懐かしさで流すのは困ります」

 大庭は眉を寄せた。

「間違いだったと、断定できるんですか。今、見つけた資料だけで」

「階段があることを削っています。休憩を含む二十七分も、参考値にして除外した」

「当時の基準では十分を標準にした。それを今の視点で」

「今の人が、同じ階段で困っています」

 声が高くなった。灯里は息を吸い直した。大庭の言葉を切ると、相手が何を守ろうとしているかを聞けなくなる。

「すみません。昔の人を責める展示にしたいわけではないです。でも、訂正されなかったことを知らずに、温かい町の思い出として流すのは違う」

 大庭は資料を閉じた。

「音声の使用は保留します。水曜の会議は、昔の責任を決める会議ではありません。今の移動の問題を、引き渡しに間に合う範囲で調整する場です。その区別は守ってください」

「わかりました」

 大庭が帰った後、灯里は椅子から動けなかった。わかりましたと言ったのは、自分が言ってほしかったことを言われたからか、それとも一度引かなければ何も進まないと知ったからか。どちらもあった。

 夕方、灯里は七四番を複製し、編集用のファイルを作った。古い案内の「徒歩十分」、千鶴の「間に合ったことになる」、二十三秒の沈黙。それを九十秒に並べると、見事に筋が通った。

 完成した音を聞いて、灯里は手を止めた。

 母は数字を読み上げる冷たい役になり、千鶴は二十六年前から今の結衣のために異議を唱えた人になっていた。どちらも、本人が引き受けていない役だった。自分は、その役を声に着せるのがうまかった。

 相良が機械の点検から戻ってきた。灯里は画面を閉じなかった。彼が気づき、ヘッドホンを指した。

「何を作ってるんですか」

「会議で流せば伝わると思って。でも使いません」

「有賀さんに聞きましたか」

「いいえ」

 相良は机の横に立った。顔に怒りはなかったが、灯里は目を逸らしたくなった。

「使わないなら、今、削除しては」

「記録として作業履歴は残した方が」

「それは、ぼくが昔使った言い方に似ています」

 灯里は椅子を回し、編集用の複製を削除した。原音には触れず、作業記録に、許諾前の二次編集を作成しかけ、中止して複製を削除したと書いた。何もなかったことにするための削除にはしたくなかった。

「聞かせる前に止まったんだから、もういい、とは言えないんですね」

 灯里が言うと、相良はゆっくりうなずいた。

「ぼくには、言えません。でも止まったのは、よかった」

 相良は椅子を持ってきた。二人で、資料の文字を一行ずつ読んだ。母が消した文、母が翌年に出した提案。相良は自分の記憶と一致する箇所だけに印をつけ、覚えていない所は空欄にした。灯里はそこを埋めなかった。

 夜、千鶴に電話した。録音を編集しようとしたことを話し、公開していないと伝えた。千鶴は長い間黙っていた。灯里はその時間を数えなかった。

「使わないでください」

「はい」

「私の声がなくても、階段の段数は数えられます。今のバスの時間も調べられる。それを先にしてください」

「そうします」

「私が昔、何を言ったかは、私に関わる話です。今の問題がわかりやすくなるからといって、使える材料にしないで」

 灯里は、言い訳を探すのをやめた。電話の向こうで食器を置く音がした。千鶴には今夜の食事があり、灯里からの電話はその時間へ入っていっている。

「お話しくださって、ありがとうございました。メモの確認以外で、こちらから連絡が必要なときは、先に用件を伝えます」

 千鶴は、わかりましたと言った。優しい声にはならなかった。それでも電話は、途中で切られずに終わった。

 家へ帰る前、灯里は案内室の前に立った。窓の灯りを消すと、煉瓦の壁は街灯の薄い色になった。母がここで毎日、切った電話の後に何を思ったのかはわからない。わからないものを、娘だからという理由で知ったことにしない。それが今夜の灯里に残った、一番小さくて難しい仕事だった。