シルクコード図書館 · 小説の棚雨の秤 · 目次

雨の秤 · 全8章

三 晴れの日の試験

翌朝の南棟には、昨日と同じ形の影がなかった。雨は夜のうちに上がり、低い屋根の向こうから日が射していた。濡れた敷石には荷車の輪の跡が白く乾き始めている。葉菜は七時の検査札を持たずに来た。かわりに、調査中、と大きく書いた板を抱えていた。

川路が受付の扉を開けているところだった。

「今日まで止めるの」

「今日もです。北棟の倉庇にある秤を借りられました」

昨日の昼、三津田は葉菜の二枚の聞き取り票を読み、二度目には鉛筆で余白に短い線を引いた。どこにも異常の確定はない、と言ったあと、荷を載せたまま叩く操作と、荷を外したあとの検査手順が混同されている、と続けた。

「そのまま使わせるなら、僕たちが何を確かめていないかも、使う人に伝える必要がある」

それは使用を続けるという意味なのか、止めるという意味なのか。葉菜が尋ねると、彼は帳面を閉じた。

「先に、止めたあとの場所をつくろう」

北棟は麦の集荷まで半月あった。倉の奥の秤を入口へ運び出すには、空の木箱を四十あまり動かす必要があり、倉の番人と三津田は夕方までそこにいた。葉菜は移動した秤の検査に立ち会い、南棟から北棟へ向かう道を歩いて、台車が通れない段差を見つけた。板を渡し、濡れた板に滑り止めの細木を打つころには、日が落ちていた。

今朝はその道に、まだ誰の轍もない。

「受付はこっちに残します。順番の札を渡して、一緒に向こうへ」

葉菜が言うと、川路は閉めかけた引出しをまた開けた。

「一緒に行ってる間は、次の人が札をもらえない。手は何人いるの」

「私と、北棟の方が一人」

「あなたは調べるんでしょう」

葉菜は板を抱き直した。道と機械を確保したことで、手順までできたつもりになっていた。

川路は受付に置いていた二脚の丸椅子を外へ出し、南棟の角から北棟の戸口が見えるか確かめた。

「札は向こうで渡す。ここには案内だけ。簿冊も移す。それなら私が行ける。小さい荷だけ先に回さないこと。今朝早く来た人が怒るから」

葉菜は板の下に、受付を北棟へ移したことを書き足した。書き終える前に、最初の台車が来た。

臨時の列は、日の当たる壁に沿って延びた。南棟の庇なら雨を避けられるが、北棟の入口には二人しか入れない。晴れたことが助けになっていた。

「豆を下ろしてから言うなよ」

一番に来た男は、案内を見て葉菜にそう言った。

「昨日のうちに知っていれば、こっちへ車をつけた」

「すみません。今日は、北棟で同じ料金で量れます」

「料金の話じゃないんだ」

葉菜は台車の前へ回った。男は手伝いを断ったが、段差の板を踏んで動かないことを確かめると、そこだけ押してくれと言った。

二番目の女は、布袋を自分の背に戻した。共同秤が不具合なら、昨日受け取った代金はどうなるのかと訊いた。まだ確定していない、と葉菜が答えると、女はもう一度同じことを訊いた。

川路が女の使用日と名前を別の紙に書いた。結果がわかれば知らせるための紙だった。葉菜はその紙の必要を、昨夜のうちには考えていなかった。

列が動き始めてから、三津田が来た。いつもの検査箱と、空の麻袋を二つ持っていた。

「苦情は」

「二件です。移動の手間と、前に使った分の扱いです」

「件数より、誰に何を返す約束をしたか残してくれ」

葉菜はうなずいた。

秤を止めるという言葉は短かった。その言葉を暮らしの中で形にすると、今朝だけで、紙も人も道も足りなくなる。

門井沙和は八時を少し過ぎて到着した。工具の箱ではなく、木の長い定規を肩に載せていた。五十二歳の修理職人だと三津田から聞いていたが、葉菜が覚えたのは、手首を覆う革の帯と、歩くたびに定規の端を人から遠ざける動きだった。

「この台を作ったのは私じゃないよ」

挨拶のあと、沙和は最初にそう言った。

「似たものなら直したことがある。けれど、蓋を開けたら違うかもしれない」

三津田は、それで頼みたい、と答えた。

沙和は南棟の秤を一周し、皿の下へ顔を入れた。葉菜が封蝋を説明しようとすると、片手を上げた。

「説明はあとで聞く。先に、見えるものを描かせて」

定規を皿の端に添え、木台との隙間を紙へ描いていく。封蝋には触れなかった。川路の使っていた丸椅子を借り、壁と秤の間に座ったが、すぐ立って位置を替えた。

「ここへ入ると、見ている間に自分で台を押しそうだ」

葉菜は一歩下がった。沙和のやり方はゆっくりだったが、無駄がないというより、間違う場所を先に見つけているようだった。

「中央に置いたときは合うんですね」

葉菜が言うと、沙和は図から目を上げた。

「それ、昨日の話?」

「今朝も検査しました」

「なら、今朝の中央で合った。その続きからにしよう」

三津田が鼻の脇を掻いた。葉菜は、自分の言い方に昨日より広い結論を載せたことに気づいた。

試験には、北棟から借りた平たい空箱を使うことにした。皿より小さく、床へ垂れるところがない。箱自体と中へ入れる小分けの荷を、先に北棟の秤で確かめる。広く置いたときと、中央へ寄せたときで全体の重さは変えない。

葉菜は準備した麻袋を差し出したが、沙和は袋の底を持ち上げた。

「中で動くね。まずは動かないものから」

煉瓦なら、と川路が倉から声をかけた。入口の戸を押さえるために使う古い煉瓦がある。ただし欠けているから重さは揃っていない。揃っている必要はなく、一つずつ確かめて動かさなければよい、と三津田が答えた。

煉瓦を布で包む仕事を、葉菜が引き受けた。皿を傷つけないためだった。途中で、布が昨日の売り物を思わせた。だが今日の布は包みであり、量られる品物ではない。同じように見えるものの役目を、同じにしてしまってはいけない。

箱の中へ煉瓦を四つ並べ、その位置を鉛筆で印した。番号をつけた紙を貼り、どこからどこへ動かしたか書く欄を用意する。

「売り物じゃなくてよかったですね」

葉菜がつぶやくと、沙和は箱の一角を押さえた。

「売り物じゃないから、思いきって同じと言えるかも確かめないと。昨日の布は、これほど固くなかったんでしょう」

その問いには、はい、と答えられた。

「今日の箱で何か出ても、昨日の金額がそのまま出るわけじゃない。そのつもりでやろう」

葉菜は記録の上端に、比較用の荷、と書いた。

一回目は中央だった。針が揺れ、細かく震え、十六斤を少し越えたところで止まった。北棟で確かめた値の幅に入っている。皿から下ろすと、零へ戻る直前にわずかに留まった。昨日ほど長くはない。

沙和は何も言わず、そのまま待った。

「叩きますか」

「まだ」

針は動かなかった。葉菜が時間を書きつける。三津田は少し離れた場所から読んだ値を、別の紙に書いていた。互いの数字を口に出さないように決めてある。

次は荷を右寄りにした。箱の端を皿の線へ合わせ、四つの煉瓦を並べたまま置く。針は十六斤より少し低かった。

葉菜の胸が速くなった。

「出ました」

沙和は顔を上げなかった。

「値を先に」

葉菜は読みを書き、下ろして、零点の位置を待った。反対の左側でも調べる。今度は中央の値に近い。奥へ寄せると高く、手前へ寄せると低くなった。

「荷の位置で変わっています」

「どれだけ変わるか、同じことをもう一回」

二回目の右側は中央とほとんど変わらなかった。手前に置いたときも、さっきより高い。葉菜は箱の線を確認した。煉瓦は動いていない。

三回目は、中央の値そのものが少し下がった。

秤の横で、日向と日陰の境が動いていた。葉菜は額の汗を拭き、書き込んだ数字を見直した。さっきは糸口に見えたばらつきが、今は紙の上で、どこへもつながらずに並んでいた。

十時前、トキと千路が来た。葉菜が約束した夕方を待てず、村から出る空の車に乗せてもらったという。トキは売り物の袋を持っていなかった。かわりに、袖の中から前の取引の控えを二枚出した。

「昨日訊かれたので。日付が書いてある」

葉菜が受け取ろうとすると、沙和が箱を床へ下ろした。

「ここで手を離す前に、何番までやったか」

葉菜は慌てて最後の行に横線を引いた。そこまでが午前の最初の試験であることを記し、道具の位置を確かめてからトキへ向き直った。

前の控えには、違う月の日付があった。一枚は遠野屋、もう一枚は別の買い手。どちらも布だったが、同じ反数ではない。

「これで前から狂ってたってわかる?」

千路が訊いた。

「この紙だけでは、わからない。調べられる取引が増える」

千路は皿の箱を見た。

「僕がやれば同じに置ける。昨日、ずっと持ってたから」

葉菜は一瞬、その手を借りたいと思った。布の端がどこにあったか、本人に示してもらえば、位置の見当がつく。

「お願いしても」

言いかけたとき、トキが甥の前へ手を出した。

「この子は試しの道具じゃありません」

葉菜は声を止めた。千路はトキの腕をどけた。

「僕がやるって言った」

「そう。でも、今日できなかったら、昨日の話まで間違いにされそうな顔をしてる」

千路は黙った。葉菜は彼の指を見た。箱に手を伸ばす前から、指が硬く曲がっていた。

「私たちが作った荷で、私たちが試します。あなたには、昨日の場所を図で確かめたい。そのあと、見ていたければ見ていていいし、帰ってもいい」

「帰ったら、できたってことにする?」

その問いに、葉菜は昨日の手帳を開いた。

「今日の結果はここへ書く。昨日の話を消さずに、別に書く。終わってから読んでもらう」

千路は差し出された頁へ、すぐには目を落とさなかった。

トキと千路には、庇の外れの乾いた椅子へ座ってもらった。川路が北棟から戻る途中、二人のために水を持ってきた。千路が受け取るとき、掌に爪の跡がついていた。

葉菜は箱の位置をわずかに変えながら、何度も記録した。沙和は木台の周りを回り、針が止まったときの音を聞いている。三津田は皿に荷のあるときとないときで、台を軽く打つ試験の組を分けた。

荷のないとき、針が零へ近づいた回は二度あった。荷のあるとき、低いほうへ動いた回は一度。だが同じ場所へ置き直すと、今度は動かなかった。

「叩けば下がる、とまでは言えないですね」

葉菜が言うと、三津田は自分の紙を差し出した。

「下がった回がある、とは言える」

二人の読みには小さな違いもあった。見える位置が違えば、針と目盛りの重なり方が変わる。どちらを採るか決める前に、違いの幅をそのまま紙へ残した。

沙和は、皿の下に薄い紙片を差し入れた。どこかの隙間を確かめているようだったが、葉菜が近づくと紙片を抜いた。

「ここの意味は、まだ話せない。今、私も探してる」

葉菜は質問を飲み込んだ。専門の人が一度しゃがめば、原因が指の先に現れる。どこかでそう期待していたことを、認めなければならなかった。

昼の休みは交替にした。北棟の列を止めないため、川路が先に食べ、三津田が受付を受け持つ。葉菜が南棟の隅で握り飯を食べていると、千路が椅子から下りてきた。

「今朝は、あの音がしない」

「叩いた音?」

「その前。荷を置いたら、きいって言った」

葉菜は握り飯を包みへ戻した。

「昨日、袋を置いたときに聞いた?」

「たぶん。いつ聞いたか、うまく分けられない。朝からいろんな音がしたから」

「思い出そうとしすぎなくていい」

「また、そう言う」

千路は口を尖らせた。葉菜は、何を言えばよいか考えた。昨日聞いていない音の話が、今日になって増える。疑いを持つのは当然だった。けれど、疑うことを隠してやさしい声を出せば、千路はそれも感じ取るだろう。

「新しく聞いた話だから、昨日の紙には書き込まない。今日聞いたこととして残す。確かでないと言ったところも、一緒に」

「それでも、書くの」

「うん」

千路は膝の上で紐を巻いた。巻き終えると、少しだけ肩を落とした。

「トキさんが、もう帰ろうって。踏み木が来るから」

「来てくれてありがとう。夕方に手紙を預ける約束は、そのままにする」

千路は箱の煉瓦を見て、それから秤の下の暗いところを見た。

「僕が見てなくても、やってね」

「やるよ」

その返事には、結論の約束を入れなかった。トキが呼ぶと、千路は自分で椅子を元の壁際へ戻した。

午後には、箱のかわりに麻袋を使った。煉瓦を抜き、北棟の荷から借りた小袋を横へ広げる。重さのわかっている荷を何組か作り、置く幅を変えた。中身の偏りを見分けるため、袋の上に縫い糸で目印をつける。トキの袋とは違うが、どこが違うかは書ける。

葉菜は広い荷を手前へ寄せた。針が揺れ、さっきの箱より低いところで止まった。

「今度は」

声が出る前に、沙和が台から一歩下がった。

「待って。私が、ここへ手を置いていた」

台の端に革の帯の跡が薄くついていた。沙和は自分の手を見て、首を振った。

「さっき、気をつけると言ったばかりだね」

葉菜はその回の数字を消さず、沙和が台に手を置いたと付記した。続けて同じ条件を作る。今度の値は、北棟の秤で確かめた幅に戻った。

沙和がやったことだから正しい、という逃げ道もなくなった。だが、そのほうが試験を続けやすかった。葉菜は次に荷を持ち上げる前、自分の足が木台の脚に触れていないか見た。

三津田も上着を脱いだ。誰かが一度で見つけるのを待つ顔から、同じ退屈を引き受ける顔になっていた。

それでも、午後の針は期待したようには動かなかった。

三時を過ぎると、北棟の列は短くなった。川路が使用簿を持って南棟に来た。売り手の中には、秤を直すより先に昨日の金を確かめてほしいという者がいた。遠野屋だけ止めればよいという声もあった。

三津田は使用簿を受け取らなかった。

「今止めているのは機械です。遠野屋の取引を止める根拠までは、まだ持っていない」

「そう言うと、市が店をかばってると言われる」

川路は怒っていなかった。疲れた声だった。

「僕がそちらへ行く」

三津田は手を拭き、北棟へ向かった。葉菜はその背に、今朝の札を出さなかったことへの不安を見た。止める判断も、使わせた判断も、自分の名へ戻ってくる。葉菜の胸の札は、作業の間にまた曲がっていた。

彼女がそれを伸ばしていると、沙和が図の余白に細い線を引いた。

「今日だけで決めたかった?」

「はい。少なくとも、位置のせいだとは言えると思いました」

「位置で変わる回はあった。でも、その回ばかり選んだら、変わらなかった回の置き場所がなくなる」

葉菜は自分の最初の頁を見た。右寄りの値の横に、小さな丸をつけていた。手前の値にも丸がある。そのあと、合った値には何もつけていない。

丸を塗り潰したくなった。かわりに、何のために丸をつけたかを余白へ書いた。異常が出たと判断しかけた、と。

沙和は木台の縁へ定規を当て直した。朝描いた線と今の線を見比べ、皿の下へ目を向けた。

「昨日、雨が降り出したのは何時?」

「申告を聞いたときです。ただ、取引はそれより前でした」

「その前の日は」

川路を呼び止めて訊くと、一昨日は夜に雨が降り、朝には止んでいたという。南棟の庇は浅く、風が吹けば足元まで濡れる。葉菜は使用簿の日付と、昨日の聞き取りの時刻を並べた。

「雨なら、布が重くなります」

「それもある。だから同じ荷を用意する必要があるね。ただ、布だけじゃなくて、この台も外気の中にいる」

沙和は木を指したが、何かを断定する言い方ではなかった。

「水をかければ、早いですか」

「今日のこの秤を濡らして、昨日の雨と同じことが起きたと言えるかい」

葉菜は首を振った。濡れた場所も時間も、置かれていた荷も違う。すぐ再現させたい気持ちが、また順番を飛ばしていた。

三津田が戻り、今日の夕方からまた雨になると、倉番が言っていたと告げた。沙和は予定帳を開いた。翌朝には別の修理があるが、今夜は時間を取れるという。

「待つなら、今日の乾いた状態を、もう少し残したい。荷をどこへ置いたかも、叩かなかった回も」

葉菜は新しい紙を出した。夕方の雨を待つ試験を、翌朝まで続けられるよう、三津田が倉番へ頼みに行く。川路は臨時の受付を翌朝も続けるため、札と掲示の数を数えた。

葉菜は北口へ預ける手紙を、短く書いた。晴れの日の試験では、申告された動きを確実には繰り返せなかったこと。何回か値に違いが出たこと。原因はまだわからず、今日の夕方の雨でも比較すること。千路の証言を取り下げた扱いにはしていないこと。

最後の一文を書いてから、子どもへの言葉として硬すぎると思った。けれど、やさしく言い換えるうちに意味がぼやけるのも嫌だった。トキと千路へ、と宛名を二つ並べ、そのまま封じた。

日差しはまだ南棟の入り口にあった。皿の箱を持ち上げると、影が少し遅れて離れたように見えた。もちろん、そう見えただけだった。葉菜は箱を決めた場所へ置き、最後の読みを数字で残した。夕方にはわかるはずだ、とは書かなかった。

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