橋の手前には、荷車の轍を避けて立つための平たい石が二つ並んでいた。袖森トキは、その片方に腰を下ろしていた。膝には畳んだ空袋がある。雨粒が袋に落ちるたび、指を動かして濡れたところを内側へ折り込んだ。
「連れてきた」
千路が言った。トキは立ち上がり、先に甥の肩を確かめた。紺の上着に大きな濡れはなかった。
「来てもらったんでしょう」
叱るというより、言葉の置き場所を直す声だった。葉菜が名乗ると、トキは胸札を見てから彼女の顔へ目を戻した。
「もう、お金にはしました」
その言葉が挨拶の次に来たことに、葉菜は少し驚いた。
「代金を返してほしいとお願いに来たのではありません」
「こちらも、返せとは言ってません」
トキは空袋を脇へ挟んだ。袋の縫い目から一本、白い糸が出ている。
「秤のことを聞きたいんです。今朝の、布を売ったときの」
「千路が何度も言うから、もう一度、係の人に話しておいでと。私は見ていないところがあるので」
葉菜は庇のある馬具屋を指した。店主に断り、空の木箱を三つ借りた。雨の道に立ったまま話せば、帰りたい人は早く終わる答えを選ぶ。そう思ってのことだったが、座るよう促したとき、トキは川の上流へ目をやった。
「十一時に北道の車が出ます」
「長く引き留めるなら、帰りの手段も考えます」
「車代を出すってことですか」
「今ここでは約束できません」
トキは唇の端を少し引いた。葉菜は手帳を開き、十一時、と先に書いた。聞き取りの制限時刻を書いたのは、初めてだった。
売ったのは晒しの木綿だった。細いものが四反、幅のあるものが二反。仕立てる前に裁ち落とす耳を残したまま、ひとつの袋にまとめて持ってきた。反数だけで売る店もあるが、遠野屋は布の厚みの違いがあるからと、まとめて重量で値をつける。
「十四斤、と言われて、控えを受け取りました」
トキは着物の内側から二つ折りの紙を出した。濡れないよう、油を引いた小さな包みに入れてあった。売り手、品物、重量、一斤あたりの値、総額。遠野屋の四角い判が紙の端にかかっている。数字の十四は、ほかの字より濃かった。
「これを写してもいいですか」
「持っていくんじゃなくて?」
「ここで写して、お返しします」
葉菜は紙を木箱に置かず、自分の検査箱の蓋に載せた。雨の撥ねが来ない場所を選び、数字と字の並びをそのまま写した。
千路がのぞき込んだ。
「十五じゃないって、書くの」
「紙には十四とある、と書く。それから、あなたが見た針の位置は、別に書く」
「どっちかが違うんだよ」
「その違いを、今は消さずに残したい」
千路は木箱の縁へ腰を移した。納得した様子ではなかった。葉菜は、納得させることも聞き取りの目的に混ぜないようにした。
トキが紙の角を押さえた。
「数字を確かめて受け取ったのは私です。千路には、その場で騒がないでと言いました」
「何を見ましたか」
「針が揺れていたところ。それから布の角が滑って、押さえました。次に針を見たときには十四でした」
「叩くところは」
「音は聞きました。いつもの音です」
いつもの、と葉菜は書いた。何度聞いたのか、同じ秤だったのかを続けて訊く。トキは指を折って思い出し、今年に入って三度、ここへ売りに来たと答えた。晴れた日が一度、霧の日が一度。三度とも遠野屋だったかは、今、控えが手元にないのでわからない。
「音を聞いたのは今日だけですか」
「前にも聞いた気がします。けれど、今そう訊かれたから思うのかもしれない」
葉菜の鉛筆が止まった。
思い出すことと、そうだった気がしてくること。その境目をトキは自分で指した。葉菜はその一言を省かずに書いた。
空袋を広げると、木箱の幅では足りなかった。トキは底の角を両手で持ち、庇の下へ垂らした。白木綿の薄い袋で、真ん中に横長の継ぎがある。葉菜が思い描いていた穀物袋とは違い、入れた布が横へ広がる形だった。
「今朝の結び方にできますか。中身がないので、同じにはならないと思いますが」
トキは袋を畳み直した。千路が立ち上がり、右の端を持つ。
「僕はこっち。ここの下に手を入れた」
黄色い紐を取り出し、袋の継ぎ目に重ねた。目印にするつもりらしい。葉菜はその場所を図にした。
「結んでいい?」
千路はトキに訊いた。
「今は駄目。次の布にも使うから、布が引けるでしょう」
千路は紐を引っ込めた。葉菜も、自分の図から寸法の線を消した。空袋の形を、今朝の荷の寸法として残すわけにはいかない。
トキは袋をきちんと畳み直した。
「耳のところに青い糸を二本入れてあります。私の布だと、遠野さんならわかると思う」
「まだ店にあるでしょうか」
「今日は北の荷を昼の便に合わせるから、もうほどいているかも」
葉菜は手帳を閉じかけた。現物に会える時間は、話を聞いている間にも減っていた。
だからといって途中で打ち切れば、いちばん大切なものを残さずに先を急ぐことになる。
「最後に、代金のことで急いでいた事情を、記録に入れる必要はありますか。答えたくなければ、そのことも書きません」
トキは控えを包みへ戻していた手を止めた。
「布を売る人が、代金を急いでいるのは珍しいことじゃないでしょう」
「そうですね」
「織り機の踏み木が割れたんです。替えの木は注文しました。今日はその支払いをしたかった。それで十分です」
葉菜はうなずいた。借りた金があるらしいと茶屋で聞いたことは、手帳に入れなかった。トキの言葉にない家の事情を、彼女の取引に貼りつける必要はなかった。
千路が袋の糸を指で撚った。
「お父さんに頼めばいいのにって、店の人が」
「それは別の話」
トキの声が少し硬くなった。
千路は口を閉じた。葉菜が何も書かずにいると、トキは一度だけ息を吐いた。
「弟は南の堰の工事に長く出ています。千路の父です。家の金の相談と、この秤のことは分けてください」
「はい」
葉菜は答えた。相手を困っている人として理解したつもりになることが、どれほど簡単かと思った。
十一時の車に間に合うよう、二人を橋まで送った。雨は細いままだったが、山の肩が白く消えていた。トキは車の持ち主にひとこと言ってから、葉菜のところへ戻った。
「間違いだとわかったら、千路にはあなたから言ってもらえますか」
「何がわかったか、私から話します」
「この子が見間違えたのかもしれません」
千路は荷車の向こう側にいたが、聞こえているはずだった。
「そうでないかもしれません」
葉菜は言った。その返事だけで、トキの目つきは険しくなった。
「慰めてほしくて来てもらったんじゃないんです」
「慰めるつもりで言ったのではありません。ただ、今の私には決められません」
トキは葉菜の顔を見た。次いで自分の指先を見た。袋を握っていた爪が白くなっていた。
「わかりました。北口の湯のところに、手紙を預けてもらえば受け取れます。村まで調べに来る前に、そうしてください」
葉菜は宛先を確認した。知らせる約束をした日時も書いた。明日の夕方までに、わかった範囲を知らせる。結論がなくても知らせる。
荷車が動き出すと、千路が振り向いた。
「十四っていう紙を、なくさないで」
「紙はトキさんが持ってる」
「そっちの紙」
彼は葉菜の手帳を指した。葉菜は検査箱ではなく手帳を持ち上げた。千路はそれを見届けると、前を向いた。
遠野屋の裏口には、細長い板戸があった。荷を出すときは三枚とも外す仕組みで、今はそのうち一枚だけが残されていた。中では人が二人、晒し布を束からほどき、幅ごとに積み分けている。
葉菜は敷居の外から声をかけた。帳場にいた男が立ち上がる。三十を少し過ぎたくらいに見えた。袖を肘まで上げ、右の親指に細い紙を巻いている。
「朝の袖森さんの布ですか」
名乗りと用件を聞き終える前に、男はそう言った。
「遠野周作です。私が買いました。何か、織り傷が出たと?」
「共同秤の針が、台を叩いたあとで低いところへ動いたという申告を受けています。叩いたときのことを聞きに来ました」
奥の二人の手が止まった。周作は二人を見て、作業を続けてくれと言った。それから葉菜を帳場の脇へ招いた。
「叩きましたよ」
ためらいのない返事だった。
「うちだけじゃない。針を落ち着かせるためです。係の方も、朝、やるでしょう」
葉菜は手帳を開いた。朝は荷を取り去ってから叩いた。しかし今、その違いを説明してしまえば、相手の答えにこちらの考えが混じる。
「叩いたとき、皿には何が載っていましたか」
「布です。袋ごと」
「針はどこでしたか」
「揺れていたんです。値を読む前に落ち着かせました」
「動く前の位置を覚えていますか」
周作は親指の紙を押さえた。
「十四と十五の間だったでしょう。ぴたりとは見ていません。揺れているところは、まだ重さじゃないので」
葉菜はそのまま書いた。周作は書かれる字を見ていた。
「それだと、私が十五を十四にしたみたいだ」
「読んで、違うところを教えてください」
「間違ってはいません。でも、そういう意味で言ったんじゃない」
葉菜は一行空け、周作がそう述べたことも記した。紙にしたら意味がひとつになるとは限らない。説明のない数字と同じだった。
布はすでに分けられていた。青い糸を耳に入れた布を、奥の女が二反見つけた。しかし残りは別の売り手の品と同じ台に載り、どれが同じ袋に入っていたか、すぐには戻せなかった。
「伝票なら分けてある」
周作は買付控えを持ってきた。トキの持つ控えと同じ数字がある。その下に、幅別の仕分けの書き込みがあった。
「袋は売り手が持ち帰ります。布だけで運びますから」
「元の姿に戻して量ることは、できますか」
「探せば揃うと思います。ただ、たたみ方はもう変えてますよ。あの袋もない」
葉菜は布の山を見た。青い糸の二本は、白い耳の中に細く残っていた。確かな目印があるのに、今朝その皿にあったひとまとまりは消えている。
「今の布を量れば、今日の売買を再現したことになりますか」
周作が訊いた。
「なりません」
答えた自分の声が、思ったよりはっきりした。葉菜は検査箱に手をかけなかった。
「それでも、わかることはあると思います。今日はまず、元の荷姿が残っていないことを記録します。布を全部、運ぶなとお願いできる段階ではありません」
周作の肩が少し下がった。安心させるために言ったのではないのに、その返事には効き目があった。
「何か問題があれば、呼んでください。逃げませんから」
彼は言い、すぐ奥へ向かって、昼の便に載せる細幅の束はまだ紐を締めるなと声をかけた。止める必要はない、と葉菜は言いかけたが、やめた。周作が自分の判断で取っている時間まで、こちらからなくすことはなかった。
台を叩くやり方は、先輩から教わったという。どこを、どのくらい。葉菜が訊くと、周作は机の縁を指の付け根で軽く打った。
「これより少し強く。布のときは針がふらつくので」
「豆のときは」
「ふらつけばやります。毎回じゃありません」
「いつからですか」
「買付に出た年から。六年になるかな。いや、七年です」
「叩いて上へ動くこともありますか」
周作は初めて長く考えた。
「あります、と言いたいところですが、覚えていない。戻るほうばかりだった気がします」
「戻るというのは、数字の小さいほう」
「ええ」
葉菜は一度、鉛筆を削った。芯が丸くなって、字の端が潰れかけていた。削り屑を手の中へ受けると、周作が小さな屑入れを寄せてきた。
「あなた、検査に来てますね。いつも七時前に」
「はい」
「私も横で見てることがある。朝に通った秤を、使っているんです」
言葉は荒くなかった。そのぶん、葉菜には逃げる隙がなかった。
今朝の印が押された紙を、彼は見ていた。彼だけでなく、トキも川路も見ている。その紙に葉菜が託した範囲と、人がその紙に預けた範囲は、同じだっただろうか。
「朝の検査のことも、調べます」
「それ、ここにも書いてください」
周作は手帳を指した。葉菜は言われたとおり、聞き取りの頁とは別の頁に、朝の検査条件を確認する、と書いた。
戸口へ向かう前に、葉菜は記録を周作へ読み返した。彼は、叩いたのは右手だと言い添えた。毎回ではない、というところでもう一度止めた。
「叩かなかった取引を、今から全部思い出せと言われても、出せません」
「思い出せないことを、思い出した形にはしません」
周作は親指の紙を巻き直した。裂け目から赤いところが見えたが、葉菜はそこへ話を移さなかった。字の間違いがないことを確かめ、今日の聞き取りの写しが必要か尋ねた。
「ください。こちらで何を話したかも残しておきたい」
帰所後に清書して届けると約束した。相手に見せる紙と、相手に見せないつもりで書く紙とで、事実の形が変わらないようにしたかった。
店を出たときには、雨が庇の境目を見えにくくしていた。葉菜は裏口から南棟まで、壁沿いに歩いた。川路は湯を入れた弁当箱を抱え、受付の椅子で遅い食事を取ろうとしていた。
「会えた?」
「二人とも」
「どっちが合ってたの」
「まだ、それを決められる材料にはなっていません」
川路は箸の袋を破った。
「なら、どっちにも会った甲斐があったね」
そういう見方は、葉菜にはすぐ出てこなかった。彼女は受付台の濡れていない端を借り、手帳から二枚の聞き取り票を作った。千路が見たこと、トキが見たことと見なかったこと。周作が認めたこと、覚えていないこと。相手の言葉と、自分の考えを別の欄に入れる。
六年前、入所したばかりの葉菜は、ひとつの申告票に結論を先に書いた。二十一歳で、窓口の机を借りていたころだった。豆屋の運搬人が、朝と夕方で台秤の戻り方が違うと話した。葉菜は朝の検査済み一覧を見て、異常なしの欄へ印をつけた。運搬人は、夕方だけだと言っていた。彼女はその言葉を書かなかった。
何日か後、台を囲む板の釘が緩んでいるのが見つかった。申告した人は、その間も不具合を承知で荷を運んでいた。損をした額も、危ない思いをした回数も、葉菜にはわからない。後から票に説明を足したが、相手の名は読み取れなくなっていた。慌てて書いた自分の字だった。
それ以来、丁寧に書けばよいと思っていた。
今、整った二枚の字を前にして、それだけではないとわかった。今日も早く遠野屋へ行きたいあまり、トキの答えを短くしたかった。あの日の自分は、消えたわけではなかった。
川路が弁当の蓋を閉じる音で、葉菜は顔を上げた。
「これから主任に相談します。もう一度、条件を変えて調べる必要があると思う」
「使う人には、何て言えばいい?」
共同秤の向こうで、男が豆袋の口を締めていた。朝からの暮らしは、調査の外でも続いている。
「私から主任に、その答えも決めてもらいます。受付だけに任せません」
川路は空になった弁当箱を脇へ置き、使用簿を開いた。葉菜は二枚の票にそれぞれ時刻を書いた。昼の鐘が鳴り始めた。十四斤という数字は、書く前より軽くも重くもなってはいなかった。けれど、もう同じ紙一枚には収まらなかった。