シルクコード図書館 · 小説社員ゼロの社長 · よし

社員ゼロの社長 · 著者 よし

第12章 自由とは何か

目次

年商百億円の報告書は、修一が思っていたより薄かった。

 必要な数字は別の資料にあり、報告書には要点がまとまっている。画面の中では、十億円のときと同じ桁の幅に収まっていた。

 独立から十八年ほど経ち、修一は六十二歳になっていた。社員は相変わらずいなかった。直接雇用をしないという形は守ったが、協力する会社は国内にも国外にも増えた。

 大口の契約は三千社。拠点が複数ある会社、事業者へ導入する会社、共同で使うグループもある。契約一件の範囲は、初めの小さな工事会社とは違う。

 平均して年間三百万円ほどの契約で九十億円。ライセンスや関連サービスなどで、残りの十億円。

 修一は、その内訳を早瀬と確認した。

「おめでとうございます」

 早瀬の髪は、初めて会ったころより白くなっていた。

「ありがとうございます」

「次の表も、見ましょう」

 支出、将来の支払、残す現金、見直す契約。祝いの言葉を言っても、仕事はなくならない。

 修一は、その順番をもう嫌がらなかった。

 ここまでの八年は、数字だけなら、順調な曲線に出来た。

 実際には、線の中にいくつも穴があった。

 国外の支援会社と組んだ年には、問い合わせの言葉の違いを軽く見た。同じ機能を訳せば使えると思い、契約の進み方と書類の習慣の違いを後から知った。最初の市場では、導入する会社が増えるより支援費が増え、範囲を縮めた。

 大きな流通の会社との商談では、相手のためだけの機能を求められた。契約が決まれば一年の目標に近づく。修一は何度も受ける計算をしたが、その機能を保守するための体制を作れず、断った。

 翌年、その会社が競合を使い始めたと知ると、悔しくて眠れなかった。

 正しい判断を選んだからといって、悔しさまでなくなるわけではなかった。

 基盤を切り替えた年には、予定より時間がかかり、契約先へ説明を繰り返した。外部の担当が止める判断をしたとき、修一はまず進めたいと思った。そのあと記録を読み、停止を認めた。

 自分以外が止められる会社にすることは、自分がいつも一番速いと思うのをやめることでもあった。

 AIは昔より多くの仕事を助けていた。

 それでも、何を約束するか、どの相手と組むか、何を止めるかは、出来る範囲を持つ人たちの判断だった。修一一人で全てを承認すれば、会社は修一の眠る時間に止まる。

 範囲を決め、権限を渡し、記録を確認する。必要なときには別の人が代わる。契約は長く続くものもあれば、更新しないものもある。

 外部に頼めば安くなるとは限らない。能力のある人と組むには、対価が必要だった。

 修一は会社を小さく保った。仕事の輪まで小さく保ったわけではなかった。

 取材では、社員ゼロという言葉に必ず協力体制を添えた。

 記者から、一人で百億円を稼ぐ秘密を聞かれると、修一は、会社の売上と個人の収入を分けて話した。

 若いころの自分なら、その質問を喜んだだろう。

 今も、少し嬉しくなる。その後で、違うことを説明できるようになった。

 森田との食事は、修一の方から誘った。

 近所の店だった。予約が必要な高い店ではなく、森田が以前から好きな焼き魚のある店にした。

 森田は六十三歳になり、今は仕事の日を減らしていた。辞めたわけではなく、若い人へ渡す仕事を増やしているという。

「任せるの、どう?」

 修一が聞くと、森田は笑った。

「出来てるところと、出来てないところがある。言わなくていいことを言って、あとで謝ったり」

「まだ?」

「まだ、って何だよ。年を取れば、全部出来るようになるのか」

 修一も笑った。

 店の人が水を置いた。修一はスマートフォンを鞄に入れた。入れたあと、一度気になったが、出さなかった。

 森田は、会社の数字について聞いた。

「百億って、想像できないな」

「俺も、最初は出来なかった」

「今は?」

「支払も見るから。全部、自分の金には見えない」

「でも、働かなくても暮らせるだろ」

 修一はうなずいた。

 家計も会社も、昔より余裕があった。必要以上に持つことへの疑問が、全部なくなったわけではない。新しい数字を見れば、今も気持ちは動く。

「そんなに金があるのに、どうしてまだ働くんだ?」

 森田は、特別な問いをするつもりではなさそうだった。

 修一は、魚の皮を箸で切った。

「まだ作りたいものがある」

「ずっとあるんじゃない?」

「そうだな」

 答えはそれで済んだが、修一の中では済まなかった。

 自分は作りたいのか。働いていない自分を、まだ見たくないだけなのか。

 次の料理が来るまで、そのことを考えていた。

 木崎の連絡は、数日後に届いた。

 名前を見た瞬間、修一は昔の会議室を思い出した。声まで聞こえた。

〈一度、会えないか〉

 メールには東都機材の名前があった。木崎は、その後役員になり、経営を担うようになっていた。

 連絡の理由は、会社の状況について相談したいというものだった。

 修一は返信せず、しばらく画面を見た。

 いま困っているのか。

 思い出すだけで嫌だった相手が、自分へ頼みに来る。その事実には、はっきりと快感があった。

 断る文を書いた。自分が辞めたとき、どんな言葉を使われたかも添えようとした。

 保存してから、早瀬へ相談した。

「話だけ聞いてもらえますか」

 早瀬は、修一が会社を出た理由を知っていた。

「佐伯さんも、同席しますか」

「します」

 会うなら、自分が金を持っていることを見せたくなった。立派な会議室を借りようとして、いつもの打ち合わせの場所に変えた。

 その変更をした理由は、木崎には知らせなかった。

 木崎は七十歳に近くなっていた。

 背筋を伸ばして座る癖は変わっていない。名刺を出す手には、昔より少し時間がかかった。

「立派になったな」

 最初の言葉に、修一は礼を言わなかった。

「会社の状況を伺います」

 木崎は資料を広げた。

 東都機材は、数年前に大きな取引へ依存するようになっていた。受注が増える見込みで在庫と設備へ金を使い、取引先の計画が変わると、現金が足りなくなった。

 売上はある。利益の薄い注文も多い。支払は来るが、入る金は遅れる。

 社員は二十七人。長く付き合っている仕入先もある。

 木崎は、余白システムズが資金を出すか、会社を買ってくれれば立て直せると言った。

「佐伯のところなら、このくらいは」

 修一は木崎を見た。

「このくらい、では決められません」

 木崎は口を閉じた。修一には、その一瞬が嬉しかった。

 早瀬が資料の不足を示した。注文ごとの採算、支払の一覧、契約の条件、在庫の内訳。調べなければ、何を残せるか分からない。

 木崎は、まず金が必要だと言った。

「必要な金の額を確かめるための資料です」

 早瀬は答えた。

 修一は、会議室で自分だけが相手を責められる位置にいることを感じた。前にはなかった自由だった。その自由を使って、何をしたいのかは、まだ決まっていなかった。

 調べる仕事には、数週間かかった。

 外部の専門家と再建の支援をする会社が、木崎の同意を得て資料を見た。修一は、自分の会社が全てを抱え込む形にはしなかった。

 技術の会社である余白システムズが、二十七人の部品商社を買えば、困っている仕事をそのまま持つことになる。自分が分からない商売を、恨みと金だけで持つことは出来なかった。

 残せる事業はあった。取引を続けたい顧客もいた。一方、利益の出ない受注を、数字を作るために続けている部分もあった。

 社員の中には、再建を待たずに別の仕事を探したい人もいる。残りたい人もいる。全員を救えると言うことは出来なかった。

 修一は、その報告を読むとき、昔の西尾を思い出した。

 資料には西尾の名前はなかった。別の会社へ移っていた。

 昔世話になった人だけが残っていれば助け、いなければ断る。その決め方も違うと思った。

 今、そこで働く人には、修一の昔の怒りを引き受ける理由がない。

 木崎とは、もう一度会った。

 提案は、余白システムズが東都機材を丸ごと買うものではなかった。

 再建を担う受け皿の会社と、残す事業の範囲を決める。取引先との条件を整理し、資金の使い方を見られるようにする。社員にも状況を説明し、必要な協議をする。

 余白システムズは、見積と受注の仕組み、記録の整理、決めた範囲の資金面の支援に協力する。回収の見通しと損失の可能性は、別に確認する。

 木崎には、日々の運営を新しい責任者へ渡してもらう。

 提案を聞き終えると、木崎は資料を置いた。

「俺を追い出す話か」

「運営の責任を変える話です」

「俺がこの会社を、どれだけ守ってきたと思ってる」

 修一は、声が大きくなるのを聞いた。

 昔なら謝った。今なら、帰ってもらうことも出来る。

 どちらでもない返事を探した。

「守った仕事もあると思います。続けていたら困る仕事も、資料にあります」

「お前も、うちで覚えたんだろ」

「覚えました」

 修一は答えた。

「だから全部を預かれる、とは思いません」

 木崎の顔に、苛立ちと困惑が混じった。

 修一が過去の謝罪を要求するなら、抵抗も謝罪も出来たかもしれない。今の提案は、過去の勝敗ではなく、会社の記録を並べていた。

 木崎は、権限を一部残す案を求めた。

 取引先との関係を知っているのは自分だ。新しい責任者が現場を知らなければ、仕事が止まる。

 修一は必要な引継ぎを提案した。だが、資金と受注を以前と同じように決める権限は残さなかった。

「条件が合わなければ、今回は協力できません」

 言うと、修一の胸が少しざわついた。

 助けを求める相手に条件を出す。力のある側が、弱い側に従うよう迫っているだけではないか。

 その疑問は残った。

 だから、条件の根拠を示した。別の支援を探すため必要な資料も、木崎が使えるようにする。受け入れなければ壊す、という取引にはしない。

 木崎は資料を持ち帰った。

 修一は帰宅し、真紀に、昔の上司と会ったと話した。

「助けるの?」

「条件が合えば」

「許した?」

 修一は首を振った。

「今も、あの会議は嫌だ」

「じゃあ、どうして」

「放っておくか、全部引き受けるかだけじゃないから」

 答えてから、会社を辞めた日の自分は、その二つしか見えなかったと思った。

 木崎の返事は、一週間後に来た。

 提案を進めたい。ただし引継ぎの期間と、取引先への説明は相談したい。

 修一は、相談できる部分と、変えられない部分を分けて返した。

 その後も、全てが円満に進んだわけではない。受け皿との調整があり、取引を終える相手も出た。社員は自分の希望を伝え、仕事の条件を確かめた。続けない選択をする人もいた。

 新しい責任者が、会社の資料を整理し始めた。

 木崎は引継ぎを行った。最後に修一へ、以前のことを詫びるような言葉を一つ言った。

「厳しくしすぎたところは、あった」

 修一はその言葉を聞いた。

 自分が欲しかったのは、もっと具体的な謝罪だった。納期の責任を押し付けたこと。人前で否定したこと。出勤できなくなったあとにも責めたこと。

 それを列挙することは出来た。

 修一は、その場では列挙しなかった。

「私は、あのやり方では働けませんでした」

 そう答えた。

 木崎は目を伏せた。修一が許したとも、木崎が全部を理解したとも言えない。

 それでも、今の条件を過去の感情だけで変えずに済んだ。

 再建の報告が来た日、修一は事務所に長く残らなかった。

 現場の判断は、新しい責任者と支援会社がしている。余白システムズが答えるべき項目は、翌日の確認に入っていた。

 森田へ連絡すると、昼の短い時間なら会えるという。

 二人は、前とは違う小さな店で昼食を食べた。木崎の話をすると、森田は驚いてから、しばらく黙った。

「よく会えたな」

「会う前は、言ってやりたいことがあった」

「言った?」

「少し。全部じゃない」

「偉くなったから、言わなくてよくなった?」

「そんな、いい話じゃないよ」

 修一は笑った。

「金があるから出来たこともある。なかったら、相談を頼むだけで無理だったかもしれない」

 森田はうなずいた。

 お金は、無意味ではなかった。生活を守り、時間を使い、他人の知恵を頼み、断るための余裕も作った。

 それでも、持っただけで、自分の使い方までは決めてくれなかった。

 食事が終わるころ、森田が前の問いを思い出した。

「それで、まだ働くんだな」

 修一は窓の外を見た。平日の昼だった。駅へ向かう人も、買い物の袋を持つ人もいる。

 自分が会社へ行けなくなった朝、この時間の町を見て恥ずかしいと思った。仕事をしていない自分は、誰かに見つかる気がした。

 今は、何をしていないかを他人へ説明する必要はなかった。

「昔は働かなければ生きられなかった。今は働かなくても生きられる。でも、俺は働きたいんだ」

 森田は笑った。

「じゃあ、今日は午後から?」

「明日から」

「珍しいな」

「今日は、もう帰る」

 修一は勘定を持ち、二人分を払った。森田は礼を言い、高い酒を勧められなかったことを面白がった。

 駅の手前で別れると、修一は家へ歩いた。

 帰宅して、机の引き出しを開けた。

 古い電卓の隣に、西尾の付箋があった。注文表を引き続き使うという短い文。もっと奥には、最初の紹介料の画像を印刷した紙があった。

 三十七円。

 当時は、自由の値段を増やしているつもりだった。知らない人が読んで、判断した。そのことが嬉しかったのを、金額を眺めるうちに何度も忘れた。

 修一は、明日の仕事の一覧を見た。

 新しい解説の確認。アプリの小さな改修。外部の担当との打ち合わせ。百億円という数字に比べれば、小さく見える仕事もあった。

 それでも、自分はその仕事をしたかった。

 明日の予定だけを残し、今日の画面を閉じた。必要な連絡が来る条件は決めてある。自分が見ない間の仕事は、他の人へ渡してある。

 真紀から、帰りに何か買ってくるかと連絡が来た。

〈今日は俺が買う。何がいい?〉

 返事を送り、修一は上着を取った。

 働かない午後を、自分で選んだ。

 玄関を出ると、まだ明るかった。

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この作品はフィクションです。経験を出発点に人物・企業・出来事を創作・再構成しています。将来の成功を描く部分は創作であり、実際の業績を示すものではありません。