千万円を超えたとき、修一は大きな声を出さなかった。
深夜の事務所で、月の売上を計算していた。余白ノートの契約は千五百件ほどになり、一件当たりの平均は月に五千円前後。利用する範囲によって料金は違う。合わせて七百五十万円ほどだった。
ブログの紹介料、アプリ、解説コンテンツなどの売上が約二百五十万円。
合計は、一千十三万八千円。
修一は椅子から立ち、窓の外を見た。向かいの建物は暗かった。誰かに見せたいが、誰もいない。
写真を撮って森田に送った。
〈来週、飯をおごる〉
数字は送らなかった。会ったときに言いたかった。
独立してから三年近くが経っていた。会社の給料より稼げればよいと思っていたころの自分には、遠い金額だった。
自宅へ戻ると、真紀はまだ起きていた。
「遅かったね」
「月の売上が、千万円を超えた」
真紀は修一の顔を見て、笑った。
「おめでとう」
修一は、その言葉を素直に聞いた。
「これなら、だいぶ安心だね」
真紀が言うと、修一は首を振った。
「次は、この状態を続けないと」
真紀の笑みが少し小さくなった。
達成した日のうちに、修一はそれを失う心配を始めていた。
森田には、店に入って五分で話した。
「一か月で?」
「そう」
「すごいな」
修一は注文した料理を忘れて、内訳を説明した。契約数、紹介料、AIを使って速くなったこと。社員を雇っていたときより伸びていること。
森田は話を聞き、途中で尋ねた。
「何人でやってるんだっけ」
「俺だけ。社員はいない」
「問い合わせは?」
「運用支援の会社にも頼んでる」
「作る方は?」
「基本は俺とAI。基盤の保守とか、専門の部分は外へ頼む」
森田はうなずいた。
「じゃあ、たくさんの人とやってるんだな」
修一は水を飲んだ。
「社員じゃないから」
「そこは分かる」
森田は料理を取った。
「うちの若い人にも、頼む範囲をちゃんと決めないと駄目なんだよ。社員だから何でも出来ると思うと、困る」
「俺は社員で、それを失敗した」
修一は言った。森田は笑わなかった。
「今度は、決めてるんだろ」
「出来るだけ」
森田が頼んだ酒は高くなかった。修一はもっと高いものを勧め、森田はこれが好きだからと断った。
金があれば選べる。それは本当だった。高い方を選ばないことも、選べることの中に入る。修一は分かっていて、せっかくおごるのにと思った。
取材の依頼は、翌月に来た。
小さな会社の経営を扱う媒体だった。社員を雇わずに月商千万円。修一の紹介記事を見て、話を聞きたいという。
修一は事務所を片づけた。空いた机はそのままにした。千葉が使った机だったが、取材では資料を置くための机になる。
記者は仕事の流れを聞いた。AIの使い方も、費用も尋ねた。修一は出来るだけ具体的に話した。
「一人で、全部を出来るわけではないんですね」
「専門の部分は外部と契約しています。ただ、直接雇用の社員はゼロです」
「社員を増やす予定は」
「今はありません」
記者は千葉のことも聞いた。修一は、働き方をうまく整理できなかったとだけ説明した。
記事の案が届くと、見出しが目に入った。
〈社員ゼロの社長、月商一千万円へ〉
修一は、外部の協力について書かれた部分が短いことに気づいた。間違いではない。数社と組んでいることも、本文にはある。
見出しを見て、木崎が驚くところを想像した。
修正は頼まなかった。
記事が出ると、問い合わせが増えた。
仕事を任せたいという人も、社員をなくす方法を知りたいという人もいた。修一は後者への返信に困った。
社員をなくす方法を売った覚えはない。自分は雇用で失敗したあと、違う方法を選んだだけだ。
だが、記事を読んだ人は、修一の会社を一人の会社として見ていた。
導入を手伝っている外部の担当が言った。
「現場で設定をしているのは、こちらのスタッフですよね」
「記事には書いてあります」
「ええ。ただ、お客様から佐伯さん一人が全部していると聞かれることがあって」
修一は、その日の会社紹介に協力体制を書き足した。取材の記事まで変えてもらうことはしなかった。
紹介資料を直したので、十分だと思った。
自分が少し見栄を張ったことで、他人の仕事が見えにくくなった。そのことを、まだ売上と同じ重さでは考えられなかった。
売上が伸びると、入る金も増えた。
同時に出る金も増えた。AIを使う処理、保存する記録、監視、問い合わせ、導入支援。修一は一千万円の表を何度も見たが、同じ回数だけ支出の表を見たわけではなかった。
早瀬は、契約ごとに残る金を見せた。
たくさん使う顧客の中には、売上が大きいのに費用も大きい会社があった。料金を上げるか、使い方を変えてもらうか、提供範囲を決める必要がある。
「今は増やす時期なので」
修一が言うと、早瀬は一社の欄を指した。
「この契約が十倍になったら、残るお金はどうなりますか」
修一は計算した。売上を増やしても、困る額が増える。
相手へ説明すると、条件の変更を受け入れた会社もあった。別の会社は、契約を減らした。
契約数が減った日の夜、修一は管理画面を何度も見た。正しい条件へ直したのだから、悲しむ理由はないはずだった。
理由がなくても、数字が減れば胸がざわついた。
余白ノートの自動処理は、少しずつ使われ始めた。
利用者が条件を確かめ、どこまで進めるかを選ぶ。修一は説明を作り、解説コンテンツにもした。全てを自動化しない会社も多かった。
宮本は、まだ最後の確認を残していた。
「ほかの会社は、自動にしてるんでしょう」
ある商談で担当者が言うと、修一は、ほかの会社が使っていることと、その会社に合うことは別だと説明した。
話しながら、少し前なら自分も同じことを言ったかと思った。
自動化という言葉は、手間を減らすだけでなく、他の会社に遅れたくない気持ちも動かした。
修一は、使わない選択を説明に残した。それでも、紹介するときに目立たせるのは、時間を減らせる方だった。
具体的な時間の削減を示すと、導入の相談が増える。
事故の可能性を一つずつ説明すると、商談は長くなる。
どちらも必要だと分かっていながら、短く済む話の方を先にした。
小さな事故は、その年の冬にあった。
似た名前の案件が候補に出て、顧客が違う方を選んだ。確定する前に気づき、金銭の影響は出なかった。
修一は番号の表示を大きくした。対応の報告を作り、顧客へ知らせた。
外部の担当が、同じことが他で起きていないかを調べたいと言った。修一は必要な範囲を指定した。
「ここまでで、まず確認してください」
全部を調べれば時間がかかる。毎回そうしていたら、新しい機能が遅れる。
千葉の停止基準を思い出し、保存した場所を開いた。一件で、利用者が訂正できている。大きく止める条件には当たらないと思った。
修一は報告を閉じ、次の作業に戻った。
その判断自体が間違いとは限らなかった。だが、起きたことを学ぶ仕事が、先へ進む仕事より後ろに置かれていることには気づかなかった。
真紀との外出は、以前より金を使うようになった。
店を選び、泊まる場所を予約し、空いた日を決める。昔は値段を見て諦めたことも、今は出来た。
それなのに、旅行の朝、修一は事務所へ寄った。出発までに一つだけ作業を終えたい。
真紀は自宅で待っていた。電話が来たとき、修一は、もう少しと答えた。
「あと何分?」
「三十分くらい」
「分かった。三十分後に出られるようにしておく」
作業が終わると、新しい問い合わせが来た。
修一は時計を見た。外部の担当が対応できる内容だった。転送して終わればよい。
それでも、自分で答えた。客に速く返したかった。自分の方が分かっていると思った。何より、未回答のまま出かけるのが落ち着かなかった。
四十五分後に家へ戻ると、真紀は玄関に座っていた。
「行こう」
修一が言うと、真紀は立った。
「次は、私は先に行くね」
「何で」
「待つかどうかは、私が決めたいから」
修一は鍵を持ったまま、返事をしなかった。
旅行中、管理画面を開かない時間を決めた。一時間なら出来る。二時間も出来る。半日になると、何かを失っている気がした。
失っているのが売上なのか、働いている自分を確認する機会なのかは分からなかった。
日曜の夜、事務所に戻る必要はなかった。
それでも修一は寄った。自宅で机を開けば、真紀に何か言われると思ったからだった。
窓に向かい、月の契約数を見た。目標より少し上だった。来月はもっと増やせる。
数年前、自分は、木崎の連絡がなくなれば眠れると思っていた。
今、連絡してくる相手はみな、少なくとも理由があった。顧客の問い合わせ、外部の確認、契約の相談。木崎の機嫌を取る仕事はなくなっている。
それなのに眠る時間は遅くなっていた。
「誰にも命令されなくなったのに、何で俺はこんなに働いてるんだ」
声に出すと、事務所では自分の声だけが返った。
問いに答える代わりに、修一は来月の目標を二割上げた。
目標があれば、明日何をするかが決まる。何もしないでいい一日より、考えやすかった。
大手の新サービスの知らせは、その翌週に届いた。
オルビスリンク。名前を知らない人はいないほどではないが、企業向けの道具では販売網を持つ会社だった。
画面の写真を開いた。見積、作業記録、請求をつなぐ。AIが照合し、条件に合うものを自動で進める。
修一は手を止めた。
余白ノートと同じ言葉ではない。同じ順序で、似た仕事を減らそうとしている。
既存の契約に含まれる料金は、修一の会社よりずっと低かった。相手がすでに使っている道具と、一緒に導入できる。
修一は公開された機能を一つずつ読んだ。足りないところを探した。見つけたところに線を引くと、少し安心した。
翌朝、顧客から比較の相談が来た。
〈今使っている契約に入るそうなので、併用から試したいです〉
解約ではなかった。それでも修一は、会社の給料をなくした月と同じように、来月のセルを見た。
一千万円を超えた数字が、その瞬間、もう過去のものに見えた。