千葉が話したいと言った翌朝、修一はいつもより早く事務所へ来た。
区分の紙に印をつけた。通常の回答は任せる。不具合の判断は確認する。料金の変更も確認する。顧客への約束は、全て確認する。
そうしてみると、通常の回答以外はほとんど自分に戻ってきた。
千葉が来たとき、修一はその紙を机の間に置いた。
「これでどうでしょう」
「ありがとうございます。でも、今日話したいのは、それだけではありません」
千葉は手帳を開いた。
「休日の連絡について、決めたいです」
「緊急のことは、必要ですよね」
「必要です。何を緊急とするか、決めたいんです」
千葉は先週の土曜の記録を見せた。修一が送った、回答の表現を直す指示だった。
「これは、月曜でも変えられます」
「送ったときに読まなくても、いいですよ」
「読まなかったあと、電話が来ました」
修一は返事を止めた。電話した理由は覚えている。すぐに話した方が早いと思った。それだけだった。
「すみません。そこは直します」
「あと、開発の補助に何が入るか確認したいです。今は記事の確認と、アプリの動作確認もあります」
「会社の仕事なので、全体を手伝ってほしいんです」
「それは分かります。時間が足りないとき、何を後にするかを決めたいです」
修一は紙を引き寄せた。
「千葉さんが、もう少し慣れたら」
「慣れることと、優先順位が決まっていないことは、別だと思います」
言葉に間違いはなかった。だからこそ修一は、自分が否定されているように感じた。
話し合いのあと、修一は一週間、変更の一覧を作った。
千葉が公開前の説明を読んだ。顧客に何を伝えるかを決め、回答の種類も揃えた。問い合わせは少し速く片づいた。
修一の開発は、少し遅くなった。
説明する時間が増えたことだけが、修一には見えた。その説明をしなかったことで、千葉がどれだけ遠回りしていたかは、数字にしていなかった。
二週目、大口の顧客が急な対応を求めた。
修一は夜に変更を出し、翌朝の一覧を省略した。千葉は古い手順で答え、顧客から画面が違うと指摘された。
「一覧が、まだでしたね」
修一は言った。
「急いでいたので」
「急いでいるときほど、何を変えたか知りたいです」
「じゃあ、変更を止めた方がいいですか」
千葉は修一の顔を見た。
「止めるかどうかではなく、伝えてほしいんです」
修一は謝った。二度目の謝罪だった。同じことを繰り返す人の謝罪は、聞く側には新しくない。
その日の午後、別の問題が起きた。
千葉が、以前の説明をもとに、翌週には直ると顧客へ返信していた。修一はそこまで約束したつもりではなかった。
「何で日付を入れたんですか」
「先週、来週までに出来ると聞いています」
「来週には触れる、と言ったんです。終わるとは言ってない」
「すみません。確認すべきでした」
千葉はすぐに謝った。
修一には、その謝罪が物足りなかった。自分がこれから顧客へ説明し、期待を下げなければならない。その面倒を、相手にも分かってほしかった。
「こういうことがあるから、全部確認してほしいんです」
千葉は一度うなずいた。それから言った。
「確認をお願いしたメールには、まだ返事がありません」
修一は受信箱を開いた。表題に顧客の名前があるメールが残っていた。見た覚えはあった。開発の途中で、あとで読む印をつけていた。
返事をしていない。
修一は画面を閉じた。
「急ぎなら、声をかけてください」
言ったあと、木崎の顔が浮かんだ。
返事がなかったら、もう一度聞くだろ。
今、自分は同じ場所に座っていた。
顧客への説明は、修一がした。
翌週に完成すると断言できないことと、今使える方法を伝える。顧客は、別の方法で進めると言った。契約は続いたが、期待は下がった。
修一は電話を切っても、千葉へ何も言わなかった。
夕方、千葉が尋ねた。
「お客様には、何と説明されましたか」
「対応しました」
「次に私が答えるときのために、内容を知りたいです」
修一は文をまとめて送った。
仕事で必要な連絡なのに、修一には、もう自分の判断を確かめられているように感じた。
初めて雇った人が優秀であれば、会社は楽になる。自分の期待はそのくらい単純だった。優秀な人は、修一の判断を黙って受け取る人ではなかった。
家でその話をすると、真紀は、千葉を庇うようなことは言わなかった。
「あなたは、どうしたいの」
「このままだと、任せられない」
「任せたいの?」
「そのために雇ったんだよ」
「全部、自分の思った通りに進めたいなら、自分で決める時間は減らないんじゃない」
修一は黙った。
初めは、自分と違う気づきを持つ人が来たことが嬉しかった。仕事が進むと、その違いを直したくなった。
「給料も払ってるし、いい環境にしたいとは思ってる」
「思ってるのは、分かる。でも千葉さんに、そう伝わってるかは、私には分からない」
真紀は台所へ戻った。話せばいつも結論をくれる妻ではなかった。
修一は椅子に残り、採用のときの条件を読み返した。
〈裁量を持って働けます〉
自分の文章なのに、誰が書いたのかと一瞬思った。
三か月目に入ってから、修一は早瀬へ相談した。
「続けるのが難しいと思っています」
早瀬は、どこを変えるために何を試したかを聞いた。修一は説明し、途中で、自分が変えたことが少ないと気づいた。
「退職してもらえば済む、という話ではありません」
「分かっています」
「相手の希望も聞いてください。条件を確認するため、必要な人にも相談しましょう」
修一は、話し合いのための相談を頼んだ。費用がかかった。雇うときに想像しなかった支出だった。
話す日時を決めると、千葉から、その時間は新しい顧客への案内が入っていると返事が来た。
修一は別の日を提案した。
辞めるかもしれない会社の顧客に、千葉はいつも通り仕事をしていた。そのことを見て、修一は何も言えなくなった。
話し合いは、一度では終わらなかった。
修一は、今の規模で千葉に任せられる役割と、自分が守れる約束を説明した。途中で、今後も急な変更を減らしきれない、と言った。
千葉は、その部分に線を引いた。
「それなら、私は長く続けられないと思います」
「会社が小さいので」
「小さいことを知らずに来たわけではありません」
千葉はノートを閉じた。
「私は、仕事が増えることが嫌なんじゃないんです。何を任せてもらって、どこで確認を待つのか分からないまま、結果だけを求められるのが難しいんです」
修一は、自分の会社の話をされているのに、昔の会社で誰かがしてほしかった話を聞いていた。
改善を続けてみる案も話した。役割を狭める案も出た。だが、修一が雇うために期待したものと、千葉が働くために求めたものは、最後まで同じにならなかった。
千葉も、別の仕事を探したいと言った。
退職の日と、引継ぎと、支払うものを整理した。紙にすれば関係が解けるわけではない。それでも、言わなかったことを後で約束にしないために、一つずつ残した。
退職を決めてからの千葉は、修一が想像したより穏やかだった。
問い合わせの整理を仕上げ、回答の例を残した。何をすると顧客の仕事を止めるか、修一が判断すべき場合はどれかもまとめた。
修一が一枚を見ると、見出しに「停止を検討する条件」とあった。
「まだ、こんなことは起きてませんよ」
「起きてからだと、忙しくて考えられないので」
複数の顧客で、同じ種類の金額の誤りが出た場合。契約した条件と画面の処理が食い違う場合。顧客が修正できない場合。
修一は、少し慎重すぎると思った。
「全部止めたら、それも迷惑でしょう」
「だから、何を止めるかを分けています」
千葉は三種類の線を示した。回答を止める。新たな利用を止める。問題の処理を止める。
全てを一度に止める話ではなかった。
修一は紙を受け取った。
「ありがとうございます」
それは採用の日と同じ言葉だったが、言うまでに時間がかかった。
最後の金曜、千葉は机を拭いた。
三か月しか使っていない机に、跡はほとんどなかった。修一の机には、空き箱と古い資料が積まれている。
私物を小さな袋に入れ、千葉は鍵を返した。
「お世話になりました」
「こちらこそ」
修一は立ったが、何を言えばよいか分からなかった。
働く環境を良く出来なかった。能力を十分に使ってもらえなかった。謝る言葉はいくつもあった。全部言えば、千葉に慰めてもらいたいように聞こえる気がした。
「最初に直した案内、今も質問が減っています」
修一は言った。
「あれは、助かりました」
千葉は少し笑った。
「見せていただいた表が、分かりやすかったので」
自分だけの成果ではないと、千葉は最後まで言う。
修一は鍵を受け取った。
扉が閉まると、二つの机が同時に見えた。空いた方が、急に大きく見えた。
月曜の朝、問い合わせは待ってくれなかった。
修一は千葉の一覧を開き、答えを探した。千葉に聞けばすぐ分かったことを、一人で調べる。
人を雇うのは難しい。
その一言で片づければ楽だった。相手と合わなかった。自分の会社には向かなかった。そう言えば、自分が何を説明しなかったかを、もう見なくてよい。
修一は、千葉が書いた停止の条件を保存した。すぐ使うとは思わなかった。消す理由もなかった。
夜、解説コンテンツを更新していて、開発を手伝うAIについての記事を読んだ。短い指示から、処理の下書きが出るという。
修一は、試しに小さなアプリの入力処理を説明した。返ってきたものは、そのままでは動かなかった。違うところを伝えると、次の案が出た。
三度目で、思った通りに動いた。
千葉に説明するより簡単だ、と最初に思った。反対の意見が来ない。疲れているとも言わない。夜中でも返事が来る。
修一は椅子に深く座った。
これなら、一人で出来る。
空いた机の上に、千葉が残した一枚の紙があった。片づけるときに見落としたものだった。
〈回答を返す前に、何を聞かれているかを確かめる〉
修一は紙を引き出しに入れ、もう一度AIに指示を送った。
今度は、もっと大きな処理だった。