シルクコード図書館 · 小説社員ゼロの社長 · よし

社員ゼロの社長 · 著者 よし

第5章 初めての社員

目次

千葉遥は、面接の最初に余白ノートの使い方を尋ねた。

「一度、登録して試しました。見積の版が変わったときの表示、分かりやすかったです」

 修一は用意していた会社紹介の紙を伏せた。

「ありがとうございます」

「でも、請求書の前に戻ると、何を確認したか分からなくなりました」

 修一は紙をもう一度表にした。

「そこは改修する予定です」

「いつごろですか」

「優先順位を見て、ですけど」

 千葉はうなずき、ノートに何か書いた。二十九歳。以前は業務用のソフトを扱う会社で、顧客対応と運用の整理をしていた。

 求人には、問い合わせへの返信、使い方の案内、開発の補助と書いていた。開発の補助という言葉には、修一もはっきりした意味を持たせていなかった。

「今、一日に問い合わせは何件くらいですか」

「日によります。二十から三十」

「答えをまとめた資料はありますか」

「ブログの解説と、メールの履歴があります」

「同じ質問を、毎回答えている感じですか」

 修一は笑った。

「まさに。それを、お願いしたくて」

 千葉も笑った。修一は、自分の仕事の苦労を初めて同じ角度から見てもらった気がした。

 面接のあと、早瀬へ採用の話をした。

 月の売上は、前後しながら二百五十万円ほどになっていた。固定の支出が増えることは分かっている。だが、今の作業を減らせれば新機能を作れる。

「給与以外の費用も入れた見込みですね」

「ええ」

「教える時間は、どこに入っていますか」

 修一は計画の表を見た。時間の欄には、千葉が働く時間を入れていた。

「経験者なので」

「経験があっても、佐伯さんの頭の中は読めません」

「資料を作ります」

 言ってから、まだ作っていないことに気づいた。求人に書くのは簡単だった。給料を払う約束をすることも、書面にすれば出来る。何を任せるかを決めることは、それより難しかった。

 修一は帰宅して、問い合わせの答えをまとめ始めた。三日後、まだ三分の一しか終わらなかった。

 千葉の初出勤日は、翌週だった。

 借りた小さな事務所には、机を二つ置いた。

 自宅の隅で会社の仕事をするより、会社らしく見えた。修一はその机を写真に撮り、真紀に送った。

〈社長の机?〉

〈同じ机を二つ〉

〈じゃあ、一人だけ偉そうじゃなくていいね〉

 修一は返事に笑いの印をつけた。

 初日、千葉は資料を読み、修一が問い合わせに答えるところを見た。夕方には、質問を一枚にまとめてきた。

「ここから先の返金は、どなたが決めますか」

「僕です」

「不具合か使い方の違いか、判断出来ないときは?」

「僕に聞いてください」

「公開した機能が説明と違う場合、こちらから約束していい範囲は?」

「それも、聞いてもらえれば」

 千葉は書き終えてから、修一を見た。

「最初はそうします。慣れたら、決められる範囲を作っていただけますか」

「もちろん」

 修一は本気で答えた。

 一週間後、問い合わせの数そのものが減った。

 千葉が、同じところで迷う人を並べていた。画面の文を二行変え、解説へ直接移れるようにすると、初めて使う人からの質問が少なくなった。

「回答を速くする前に、質問をしなくていいようにしたかったんです」

 千葉は、修一の修正した画面を見て言った。

 修一は椅子を寄せた。

「これ、ほかにもあります?」

「あります。聞かれる回数の多い順に並べています」

 表には、顧客の言葉が短く残されていた。誰が何を求めたかではなく、どこで止まったかを分類してある。

 修一は、これなら自分が夜に返信しなくても済むと思った。

「助かります」

 その言葉に、千葉の顔が少し明るくなった。

 帰宅すると、夕食を食べ終えてからパソコンを開かずに済んだ。真紀とテレビを見た。内容はあまり覚えていない。途中で仕事の通知を見なかったことだけを覚えていた。

 人を雇ってよかった。

 修一は、まだ一週間でそう判断した。

 二週目、開発を速めた。

 問い合わせに使っていた時間を、余白ノートの新機能に使える。ほかのアプリも直せる。解説コンテンツをまとめ、読者向けの読み物も作れる。

 修一が夜に変更を公開すると、翌朝、千葉から質問が来た。

「画面が変わっています。案内はどこにありますか」

「少し変えただけです。触れば分かります」

 千葉は自分の画面を修一に向けた。

「昨日送った説明は、今朝もう違っています」

「じゃあ直してください」

「どこを変更したか、教えていただけますか」

 修一は手を止めた。直したばかりの仕事を、また説明する。自分が一人なら要らなかった時間だと思った。

「ここです。ここからここまで」

「次から、公開前に見せていただけますか」

「毎回、それを待ってたら遅くなるので」

 千葉は少し黙った。

「分かりました。公開したあとでも、変更の一覧があれば」

「それは作ります」

 修一は変更の一覧を、今日の作業の下に書き足した。

 月の終わり、千葉が宮本の問い合わせに答えていた。

 見積の条件が途中で変わる場合、確定した部分だけを請求する手順を知りたい。修一はその問題を以前から聞いていたが、まだ簡単な案内しか作っていなかった。

「佐伯さん、今週、ここを先に直せますか」

「今週は新しい契約の機能を入れたい」

「宮本さんには、今月中に確認すると返信しています」

「確認は出来ますよ。改修とは言ってないでしょう」

 千葉の表情が変わった。

「相手が何を期待しているかは、分かりますよね」

「期待を全部受けると、きりがありません」

 修一は、正しいことを言っていると思った。自分が出来る範囲を決めなければ、会社は続かない。

 千葉は宮本に電話し、現状で出来る手順と、まだ出来ない部分を説明した。修一は隣でその声を聞きながら、作業を続けた。

 電話が終わると、千葉は新しい欄を表に加えた。

 約束したこと。

 修一には、その見出しが少し大げさに見えた。

 二か月目、千葉は通常の問い合わせをほぼ一人で処理した。

 修一は、もっと任せられると思った。ブログの記事の確認、アプリの不具合の整理、契約の書類の準備。思いついた仕事をそのつど頼む。

「今日中に、これもお願いします」

「今の回答の確認が終わってからでいいですか」

「両方、急ぎです」

 千葉は手元の一覧を見た。

「どちらを先にするか、決めてください」

 修一は顔を上げた。昔の自分が言っていた言葉だった。

 だが、今は状況が違う。会社を作ったのは自分だ。給料を払うのも自分だ。全部を守らなければ会社が困る。

「顧客対応を先に。記事は、夕方までに」

「では、記事はどこまで確認するか絞ってもいいですか」

「間違いがないようにお願いします」

 千葉は返事をした。

 夕方、記事の確認が終わらなかった。修一は自分で続きを見た。任せたのに、結局自分がやっている。その苛立ちは、千葉が何に時間を使っていたかを見るより先に来た。

 金曜、真紀と一泊で出かけることになった。

 千葉には、修一がいない間の対応を頼んだ。珍しく晴れた週末だった。修一は自動車の助手席から川を見た。運転は真紀がしていた。

 スマートフォンに、通常の問い合わせの共有が届いた。緊急ではなかったが、答えの順序が気になった。

〈最初に、確認していると書いた方がいいです〉

 送ると、千葉から返信が来た。

〈承知しました。今後の回答にも反映します〉

 十五分後、別の回答を見た。今度は、まだ修正を約束しない方がよいと思った。

〈ここは、検討中としてください〉

 真紀が言った。

「景色、見えてる?」

「見てるよ」

「今、川を渡ったの、気づいた?」

 修一は顔を上げた。道はもう山に入っていた。

 昼食の店で、修一は千葉へ電話した。回答の文言を揃えたい。数分のつもりだった。

 千葉が、今は休憩中なので戻ったら確認すると言った。修一は、そうですか、と答えた。

 電話を切ったあと、真紀が水を飲んだ。

「任せてるの?」

「任せてるよ。まだ、慣れてないから確認してるだけ」

「あなたが?」

「何が」

「任せることに」

 修一はメニューを開いた。値段を見て、食べたい物を決めるまで、返事をしなかった。

 事務所へ戻ると、千葉が改修の提案を置いていた。

 普通の質問に答えられる範囲、金額に関わる判断を修一へ回す範囲、休日に連絡する条件。修一の作業を増やす案ではなく、減らす案だった。

「この区分で、私が決めていいところを確認してください」

「全部のケースを、先に決めるのは難しいですよ」

「全部ではなく、よくあるものだけです」

「想定してないことが起きたら?」

「聞きます。でも、全部を聞くなら、全部が止まります」

 修一は紙を持ち上げた。言われていることは分かる。それでも、見ていないところで顧客に何か約束されるのは怖かった。

 自分の名前で作った会社だった。自分の作品を、自分が知らない形で使われる気がした。

「少し考えます」

 千葉はうなずいた。

「いつまでに、返事をいただけますか」

「今週中に」

 修一は紙を机の端に置いた。翌日、そこには請求書が重なり、その翌日には新機能のメモが載った。

 千葉は一度だけ確認した。修一は、まだ考えていると答えた。

 給料を支払う日は、修一にとって少し特別だった。

 自分以外の誰かの暮らしを、会社の金で支える。その責任を誇らしく思い、同時に重く感じた。

 早瀬に話すと、支払うことと、働く条件を守ることは両方必要だと言われた。

「もちろんです。条件は守っています」

「千葉さんには、そう聞こえているでしょうか」

 修一は、早瀬が千葉から何か聞いたのかと思った。聞いていないという。一般的な問いだった。

 帰りの電車で、給与の額を思い出した。会社員時代の自分なら、もっと任せてもらいたかった。その自分を、今は部下の中に置いて考えることが出来なかった。

 事務所に戻ると、千葉は問い合わせの整理をしていた。

「新機能、明日出します」

 修一が言うと、千葉は手を止めた。

「先に、話す時間をいただけますか」

「何の話ですか」

「仕事の進め方です」

 机には、先週の区分の紙があった。請求書の下から出され、皺が伸ばされていた。

 修一は紙を見た。

「それなら、あとで読んで返事します」

「読むだけでは、足りないと思います」

 千葉の声は静かだった。

「ここに書いたことを、一緒に決めたいんです」

 修一は椅子に座ったまま、隣の空いた椅子を見た。

 初めて、その二つの机の間が、面接の日より広くなっていると感じた。

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この作品はフィクションです。経験を出発点に人物・企業・出来事を創作・再構成しています。将来の成功を描く部分は創作であり、実際の業績を示すものではありません。