シルクコード図書館 · 小説社員ゼロの社長 · よし

社員ゼロの社長 · 著者 よし

第3章 逃亡

目次

会議室へ入ると、出荷の記録が壁に映っていた。

 納期を過ぎた注文。客からの催促。仕入先への発注日。その三つだけが、赤い線で結ばれている。

 修一が送った承認の依頼はなかった。

「取引先から、信用に関わるって言われてる」

 木崎はリモコンを机に置いた。

「佐伯、説明して」

 修一は手元の印刷を広げた。昨日の夜、会社の中で準備したものだった。会社のデータを家へ持ち帰ってはいない。承認を依頼した日時と、返事が来た日時を一枚に並べていた。

「発注には仕様の確認が必要でした。こちらは火曜に確認をお願いしています」

「返事がなかったら、もう一度聞くだろ」

「水曜も、木曜も聞きました」

「聞き方が悪いんじゃないの」

 修一は紙を押し出した。

「この時間に、口頭でもお願いしています」

 木崎は紙を見ずに、修一の顔を見た。

「俺が悪いって言いたいの?」

 室内で椅子の音がした。西尾が少し体を動かしたが、言葉は出なかった。

 修一は息を吸った。ここで謝れば終わる。この注文の話は終わり、来週別の注文で同じことが起きる。

「どこで止まったかを確認したいんです。自分が遅らせたところがあるなら、直します」

「お前のそういう態度の話をしてるんだよ」

「態度では納期は変わりません」

 自分が思っていたより大きな声が出た。

 木崎の口元が固くなった。

「会社に食わせてもらって、その言い方か」

 修一は木崎を見た。あれだけ頭の中で用意した反論が、どれも出てこなかった。

 副業で稼いでいる。もう困らない。言い返すために持っていた数字は、ここで口にすれば別の弱みになる。何より、会社の仕事をきちんとしたという話から外れてしまう。

「仕事をした分の給料をいただいています」

「だったら、給料分は働け」

 修一は紙をそろえた。角がうまく合わなかった。

 その日の仕事は、普通に終えた。

 注文を確認し、仕入先へ電話をし、西尾から聞かれた条件を説明した。西尾は何度も礼を言った。気を遣われていることが分かり、修一は目を合わせなかった。

 机の引き出しには、使いかけの付箋と予備の電卓があった。辞めるなら持ち帰る物だと思ったが、触らなかった。

 帰り際、木崎が言った。

「明日は朝一で、先方への謝罪文を出して。佐伯の確認不足って書くから」

「承認の経緯も書いてください」

「お前が決めることじゃない」

 修一は返事をせず、鞄を持った。

 エレベーターの扉が閉まると、膝から力が抜けた。壁に背中をつけ、階数の表示を見上げた。

 勝ったわけでも負けたわけでもない。ただ疲れた。

 会社の外に出てからも、木崎の声が止まらなかった。

 翌朝、修一はいつもの時間に家を出た。

 真紀は先に出勤していた。朝食の皿を洗い、鍵をかけた。駅までの道を歩き、売店の前を通った。

 改札の手前で、足が止まった。

 電車はあと二分で来る。間に合う。行けば今日も仕事をして、帰ってから記事を書く。そうすれば、会社の給与も副業の収入も入る。

 合理的には、それが一番いい。

 修一は定期券を握ったまま動けなかった。自分の後ろを人が通る。会社へ向かう人たちは、ぶつからないよう少しだけ体をずらした。

 電話をかけようとした。会社の番号が出たところで、指を止める。木崎が出たら何と言うのか。

 具合が悪い。理由を説明しろと言われるかもしれない。休みたい。仕事はどうするんだと言われる。

 どの返事も頭の中で先に聞こえた。

 修一は駅から出た。

 帰り道は、通勤とは逆向きなので歩きやすかった。それがひどく恥ずかしかった。

 家へ戻り、靴を脱いだ。スーツのまま食卓に座る。会社から電話が来た。画面を伏せた。

 二度目が鳴る前に、連絡先へ短い文を送った。

〈本日は出勤できません。改めて連絡します〉

 送ったあと、何を改めるつもりなのか分からなくなった。

 真紀が昼休みに電話をかけてきた。

「会社から連絡があった。家にいる?」

「いる」

「何があったの」

「行けなくなった」

 電話の向こうで何か紙を置く音がした。

「具合が悪い?」

「会社に行けない」

 修一は同じ言葉を繰り返した。まだ辞めたわけではない。辞めると言えば、決めた人のように聞こえる。自分は、改札を通らなかっただけだった。

「今、誰かと話せる?」

「君とは」

「夕方、帰る。会社の連絡は、そのままにしないで」

 修一はうなずいてから、電話なので見えないと思い、返事をした。

 午後、ブログの管理画面を開いた。書けば稼げる。自分のために働けばよい。

 見出しを一行書いて、止まった。

 会社の着信を気にしながら書く文章は、家にいても会社の中にいるようだった。

 真紀は帰ると、鞄を置く前に修一の顔を見た。

「朝ごはん、食べた?」

「食べた」

「昼は?」

「まだ」

 真紀は冷蔵庫を開け、残り物を皿に出した。修一が食べている間、向かいに座って待った。

 会議の話をすると、真紀は途中で口を挟まなかった。最後に、修一が言った。

「もう戻りたくない」

「それは分かった」

「副業を本業にすれば、何とかなると思う」

「何とかなる、の中身を知りたい」

 修一はノートパソコンを持ってきた。売上の表を開き、七十万円の月を示す。

「最近は、このくらい」

「一番多い月?」

「三か月は、似たような額だよ」

「会社を辞めたら、必要なお金も変わるんでしょう」

 修一は費用の欄を示した。真紀はその下の空白を指した。

「今まで会社がしてたことは、どこに入ってる?」

「調べる」

「辞めたいと思ってたなら、先に調べてほしかった」

 修一は画面を閉じかけた。責められるなら、もう見せたくなかった。

 真紀が続けた。

「戻れと言ってるんじゃない。私は、今日あなたがどこにいるか、会社から聞いた。明日の生活も、ある日そうやって知るのは嫌なの」

 修一は手を止めた。

「悪かった」

 会社では言えなかった謝罪が、ここでは必要だった。

 数日間、仕事より連絡をする方が難しかった。

 会社へ出勤を続けられないことを伝え、必要な手続きについて相談した。担当者からは退職する場合の書類と、返却する物の一覧が届いた。すぐに全てが終わるわけではなかった。

 木崎からも連絡が来た。

〈引継ぎなしで逃げるのか〉

 修一は何度も返事を書き直した。言い返す文は長くなる。結局、現在の案件と記録の場所を整理し、担当者へ送った。自分が承認したもの、まだ承認を待っているものを分けた。

 分けている間に、西尾の困る顔を思い出した。

 木崎に困ってほしかった。会社に困ってほしかった。その中に西尾や、自分へ丁寧に対応してくれた仕入先の人も含まれることは、考えないようにしていた。

 西尾へ電話をかけた。

「今の仕事、一覧を送った。分からないところは聞いて」

「佐伯さん、戻らないんですか」

「たぶん」

「そうですか」

 西尾は短く答えた。少しして、会社で説明してもらった品番の違いを確認したいと言った。

 修一は説明した。仕事が終わると、西尾が言った。

「あの日、何も言えなくて、すみませんでした」

「俺も、君にきつく言った」

 電話の向こうで、誰かが西尾を呼んだ。

「行って。あとは、表の下に書いてある」

 切ってから、修一は空の机を見た。もう、誰かに呼ばれて席を立つことはない。

 持ち物の返却と書類のやり取りが進み、退職の日が決まった。

 自分の電卓と少しの私物は、箱に入って届いた。送り状の字は西尾のものだった。礼のメッセージを送ると、返事は〈お疲れさまでした〉だけだった。

 箱の底に付箋が一つ入っていた。

〈注文表、引き続き使います〉

 修一はそれを机の引き出しへ入れた。会社のためにした仕事のすべてが、木崎のものになったわけではなかった。

 その夜、森田から電話が来た。

「辞めたって?」

「真紀から聞いた?」

「連絡が来た。飯くらい付き合ってって」

「そんなに心配することじゃないよ」

「俺も、まだ何も言ってない」

 修一は笑った。何を聞かれても先に防ごうとしている。

「会社に行かなくなったんだ」

 そう言うと、森田はしばらく黙った。

「じゃあ明日、昼に会える?」

 平日の昼に友人と会う。修一には、その予定が初めて自分の時間らしく思えた。

 翌朝、目覚ましが鳴っても急いで起きる必要はなかった。

 それなのに、修一は会社員のときより早く机についた。誰にも邪魔されない一日がある。ライターの案件を終え、ブログを更新し、収入の良い記事を増やせる。

 カレンダーに、今日やることを書いた。空白はすぐ埋まった。

 九時を過ぎても、木崎から電話は来なかった。

 修一は何度も時計を見た。胸が軽かった。その軽さを忘れたくなくて、作業を続けた。

 昼に森田と会うはずだったが、原稿が終わらなかった。待ち合わせを三十分遅らせてもらう。森田は了解とだけ返した。

 出かける前、継続案件の編集者からメールが来た。

〈今月分、公開日を調整します。納品も来月に変更できますか〉

 入金の見込みが後ろへずれる。

 修一は返事を書く前に、アフィリエイトの成果を見た。検索からの訪問は、先月の同じ週より減っていた。一時的な変化かもしれない。毎日見ていれば、そういう日はある。

 収入の表を開いて、七十万円のセルから下へ目を移す。

 今月の空欄は、まだ白かった。

 修一はパソコンを閉じた。駅へ向かう道は、朝とは違って空いていた。

 昼の電車に乗れる自分を嬉しく思いながら、さっきの白いセルを頭の中で埋めようとしていた。

右から左へ読み進めます · この章 0%

この作品はフィクションです。経験を出発点に人物・企業・出来事を創作・再構成しています。将来の成功を描く部分は創作であり、実際の業績を示すものではありません。