シルクコード図書館 · 小説社員ゼロの社長 · よし

社員ゼロの社長 · 著者 よし

第1章 嫌な会社

目次

木崎の机には、いつも二種類の紙があった。部下に見せる数字と、部下には見せない数字だった。

 その朝、佐伯修一が見せられたのは、配送の遅れを赤で囲った一覧だった。

「三件。先月は一件。どう説明する」

 会議室の窓は開いていた。荷物を積み下ろす音が、下の倉庫から上がってくる。修一は資料の二枚目を示した。

「仕様変更の承認が金曜まで出なかったので、仕入先への発注が月曜に――」

「客はそんな事情を聞きたいんじゃない」

「原因を聞かれたと思ったので」

 木崎が椅子の背から体を起こした。隣の営業担当がペンを置く。会議には六人いた。誰も資料の二枚目を見なかった。

「お前はすぐ、そういう言い方をする」

 修一は口を閉じた。言い方の話になれば、何を言っても負ける。

 金曜の夕方、承認を催促したメールには木崎の名前があった。返事はなかった。月曜の朝にもう一度送り、昼前に電話をかけた。それでようやく承認された。その順序を説明すれば、課長を責めていることになる。説明しなければ、修一が遅らせたことになる。

「申し訳ありません」

「それが最初に出ないから問題なんだよ」

 木崎は赤い一覧を伏せた。会議は次の議題に移った。

 東都機材は、工場や設備業者へ部品を卸す会社だった。修一は受注を処理し、仕入先と日程を合わせ、営業が取ってきた注文を出荷できる形に整えていた。四十二歳。役職はなかった。

 自分の仕事が嫌いなわけではなかった。品番の一文字の違いを見つけ、入らないはずの納期に代替品を間に合わせる。客の工場が止まらずに済んだときには、机の下で小さく拳を握った。

 嫌いなのは、何をしたかより誰がしたかで評価が決まることだった。

 昼休み、修一は倉庫の端で弁当を開いた。休憩室には木崎がいる。冷たい卵焼きを箸で切っていると、若い営業の西尾が来た。

「佐伯さん、さっきの件」

「もういいよ」

「僕も金曜に課長へ確認したんですけど」

「だったら会議で言えばよかっただろ」

 自分の声の硬さに、修一は顔を上げた。西尾が袋の持ち手を握り直す。

「すみません」

「いや。君に言うことじゃない」

 西尾は空いた木箱に腰を下ろした。二人はしばらく弁当を食べた。

「佐伯さんの注文表、助かってます。あれで取り違えが減りました」

 修一は礼を言う代わりに、箸を止めた。

「今月の改善報告、見た?」

「まだです」

「あとで見て」

 注文表は、修一が半年かけて直したものだった。品番を選べば確認すべき項目が出る。納期の変更があれば色が変わる。特別な技術ではないが、忙しいときにも間違えにくくした。西尾のような営業と何度も話し、使わない欄を消した。

 今月の改善報告には、木崎の名前だけがあった。

 午後三時、木崎が席に戻るなり言った。

「佐伯、追加の二十件、今日中な」

「通常の受注がまだ残っています。先にするのはどちらですか」

「そこは考えてよ。全部大事だから」

 修一は画面の時計を見た。真紀と、六時半に家の近くの店で食事をする約束だった。結婚記念日ではない。忙しくなる前に一度行こうと、妻が予約しただけだった。

「承認を先にいただければ進められます」

「一件ずつ持ってこられても困る。まとまったら見せて」

 木崎は電話を取り、修一には背中を向けた。

 まとめて持っていけば、確認が遅いと言われる。早く持っていけば、自分で考えろと言われる。修一は一覧を開き、二十件を並べた。

 六時に真紀へ連絡した。

〈少し遅れる〉

 七時に西尾へ、午前の言い方は悪かったとメールを書いた。送りかけて、やめた。顔を合わせたときに言えばいい。

 七時半、真紀から〈予約は取り消した。家で食べよう〉と返ってきた。

 修一はそれを読んでから、ようやく承認の一覧を木崎の机へ持っていった。

「もう帰るところだよ」

「今日中と言われたので」

「だから、もっと早く持ってくればよかっただろ」

 木崎は上着を着たまま、紙をめくった。二ページ目で止まる。

「ここ、何でこの仕入先なの」

「他は在庫がありません」

「念のため、全部もう一度確認して」

「在庫は五時に確認しました」

「何かあったとき、お前が責任取れるの?」

 修一は紙を受け取った。相手の要求が正しいかどうかと、自分が従うかどうかは、別の問題になっていた。

 電車の窓に映った顔は、朝より少し老けていた。

 スマートフォンに森田から連絡が来ていた。

〈土曜、飯どうだ。久しぶりに〉

〈忙しい。また今度〉

 返してから、自分が土曜に何をするのか考えた。別に何も決まっていなかった。疲れているので、人と話したくない。それだけだった。

 四十三歳の森田は、印刷会社で働いていた。以前は二人で会社の悪口を言うのが楽しかった。最近の森田は、若い人に任せる難しさや、客と長く仕事をする方法を話す。修一には、それが少し遠く聞こえた。

 家に着くと、真紀は食卓で本を読んでいた。皿にはラップがかかっている。

「食べる?」

「うん」

 修一は上着を椅子にかけた。真紀が台所でスープを温める。

「課長が急に仕事を振ってきてさ」

「連絡は見た」

「普通、あの時間からやらせるかね」

「お店の取り消しが間に合ってよかった」

 真紀の声に怒りがあると分かって、修一は黙った。謝るつもりだった。けれど、会社であれだけ謝ったあと、家でも最初に謝るのが嫌だった。

「俺だって好きで残ってたわけじゃない」

「好きだったとは言ってない」

 温めたスープが置かれた。湯気の向こうに、真紀の目が見えた。

「忙しいときほど、予定が変わったことを一緒に話したいの。あなたの会社の話を聞くのが嫌なんじゃない」

 修一はスプーンを取った。

「分かった」

 分かったと言えば、会話を終えられる。それを妻にも使っていることには、気づかないふりをした。

 風呂のあと、仕事のメールを見た。木崎から、翌朝までに一覧を修正するよう指示が来ていた。

 修一はパソコンを開いた。家で会社の資料を扱うことはしなかったが、頭の中では、明日どの順序で仕事を片づけるかを考え続けていた。ひとまずメールを閉じて検索する。

 会社を辞めたい。

 それだけ入力すると、求人、退職の相談、転職の体験談が並んだ。修一は順番に読み、途中から副業の記事に移った。

 仕事を変えても、上司が変わるだけかもしれない。

 誰かの会社で採用され、評価され、賞与の額を決められる。自分はまた、会議室で口を閉じるのではないか。

 自分の仕事で暮らしている人の文章があった。毎月の売上が図になっている。修一は本文より先に、金額を拡大した。

 このくらいあれば。

 生活費を計算した。家賃、食費、光熱費、保険。会社員でいることで見えなくなっている支出は、まだ計算に入っていなかった。それでも数字は、自由の値札に見えた。

 金さえあれば、木崎の顔を見ずに済む。電車に乗らずに済む。誰に何をするか決められる。

 それを考えていると、久しぶりに眠気が消えた。

 修一は、在宅でできる仕事の募集を開いた。動画編集、デザイン、プログラム制作。どれも実績が必要に見える。文章を書く仕事なら、調べて説明することは毎日やっている。

 募集には「未経験可」とあった。

 家電についての記事。千五百字。報酬千二百円。

 少ない。最初にそう思った。時給で考えれば、本業よりずっと低いかもしれない。それでも、金額を木崎が決めたのではないことに、妙な魅力があった。

 翌日の昼、銀行へ行くつもりだった修一は、空いた休憩室で応募文を書いた。

〈受注業務に長く携わり、分かりやすい説明を心がけています〉

 これでは何の説明にもなっていない。自分が仕事で誇っていることを、会社の外の人へ伝える言葉がない。

 文を消し、書き直した。

〈使う人が迷う条件を調べ、違いを具体的に説明したいと思っています〉

 偉そうだろうか。募集している人は、安く、早く書ける人が欲しいだけかもしれない。

 送信する前に画面を閉じた。その日の帰りにまた開き、募集が終わっていないことを確認した。

 真紀が隣の部屋にいる。まだ副業の話はしていなかった。始めてもいないものを説明して、心配されるのが面倒だった。少し稼げてから話せば、説得ではなく報告になる。

 そう考えたところで、修一は木崎の「まとまったら見せて」を思い出した。

 他人の判断を待つのは嫌いなのに、自分の判断に他人が関わるのも嫌いなのだ。

 画面の応募ボタンを押した。

 すぐに、受け付けたという自動の返事が来た。人が返した言葉ではなかった。それでも修一は、胸の奥で、会社の外へ一歩出たような気がした。

 真紀が戸口から声をかける。

「まだ仕事?」

「ちょっと、自分のこと」

「何?」

 修一は画面を閉じなかった。

「文章を書く仕事に応募した」

 真紀はしばらく画面を見て、それから修一を見た。

「会社とは別の?」

「そう」

「いつやるの」

「朝と、夜」

「今も、朝と夜に仕事のことを考えてるよね」

 修一は返事を探した。会社を辞めるためだ、と言えば大きすぎる。金のためだ、と言えば小さすぎる気がした。

「自分で決める仕事を、一つやってみたい」

 真紀はうなずいた。

「じゃあ、寝る時間も自分で決めてね」

 説教ではなく、今夜の予定についての言葉だった。

 修一はパソコンを閉じた。けれど布団に入ってからも、募集相手の返事が来ていないか、一度だけスマートフォンを見た。

 まだ返事はなかった。

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この作品はフィクションです。経験を出発点に人物・企業・出来事を創作・再構成しています。将来の成功を描く部分は創作であり、実際の業績を示すものではありません。