CHAPTER 13 / 13

第13章 四時十七分

 三月の筒木は、春というにはまだ冷たかった。

 灯里は駅前のバス停で降り、上着の襟を立てた。案内室のあった場所には、低い植込みと、食品会社の直売所の入口ができていた。煉瓦の壁はなく、窓の位置を思い出そうとしても、看板の高さと重なってうまく合わなかった。

 新しい通路は、前日から使えるようになっていた。

 町から依頼された案内の最終確認のために、灯里は戻ってきた。仕事は三日間。最初に現地を確認し、文字と図の案内を修正する。音声版は同じ情報を読み上げ、更新日と問い合わせ先を明示する。母の声は使わない。灯里自身の声でもなく、町の業務で案内を担当する人が読む。声を持つ一人が辞めても、情報が変えられるようにする。

 大庭は待合室の入口で、地図を二枚持っていた。片方は新しい道、片方は南の迂回路だった。

「今日、学校の方にも確認してもらいます。利用できるようになっても、残る課題がありますから」

「工房からも?」

「坂本さんが来ます。会社の搬入がある時の見え方を、一緒に確認します」

 灯里は地図を受け取った。新しい道には、途中の勾配、横断する出入口、休める平らな場所が記されていた。所要時間は一つではなく、複数の実測と条件が載っている。その下に、実測例はすべての利用者の所要時間を保証するものではありません、と短く書かれていた。

「注意が多くて、読みにくくなりませんか」

 灯里が聞くと、大庭は紙を裏返した。

「だから、最初に知りたいことから読めるように分けました。使える道、閉じている道、詳しい条件。そこを見てほしいんです」

 灯里は笑った。大庭もこの数か月、案内を読む順番のことを考えていたのだ。

 午前十時、三人で東側の道を歩いた。柵は工場の車道と歩行部分を分け、曲がり角には外の様子が見える広い隙間が取られていた。坂の途中に小さなベンチがある。車椅子の人が自力で上るには厳しい勾配の区間も残り、無理に利用しないための別経路の情報が入口に置かれていた。

 道は、誰にとっても同じになったわけではない。それでも、階段を下りられない人に別の選択肢が一つ増えた。灯里はそれを、過大にも過小にも言いたくなかった。

 上まで着くと、学校の門の前に結衣がいた。制服姿で、鞄だけを持っている。卒業式は来週だという。背負っていた箱がないと、少し背が伸びたように見えた。

「間に合いました」

 結衣が言った。

「卒業に?」

「はい。あと、一昨日の工房の実習が最後だったんです。道は昨日からだから、実習の帰りには間に合わなかったけど」

 灯里は、よかったとすぐには言えなかった。結衣は自分から笑った。

「でも今日は、通れます。普通に」

 四人で、もう一度道を下りた。結衣は歩幅を合わせようとせず、自分の速さで先を行った。灯里は後ろから追いかけなかった。途中のベンチで坂本が靴紐を結び直し、大庭が入口の掲示の高さを測った。

 工房口の停留所まで、結衣は十二分少しで着いた。北階段よりは長いが、荷物を抱えて段を下りる怖さはない。学校の実習が四時に終われば、四時十七分に乗れる可能性が高い。ただし片づけが延びる日、荷物が重い日、雪や雨の日には変わる。

「十分にならないんですね」

 結衣が時計を見て言った。

「しなくていい」

 灯里は答えた。

 結衣はうなずき、記録用紙に十二分十四秒と書いた。荷物なし、四人で移動、途中で一度停止。北階段がなくなった後の、新しい一つの時間だった。

 昼、直売所へ入ると、真琴のパンが売られていた。工房の器も、学校の卒業制作の小品もある。案内室の模型は、ガラスの棚へ移されていた。題名は変わらず、十月二十日の駅前。隣に、現在の通路の図が並んでいる。

「これ、あなたが頼んだの?」

 灯里が結衣に聞くと、彼女は首を振った。

「三枝さん。古い道を見せるなら、今の道もわかる方がいいって」

 三枝は今日は別の現場にいるという。灯里は、ここにいない人の仕事が、棚の並べ方にも残っているのを見た。誰か一人の物語にまとめれば、またその人の手が消える。

 午後、資料室へ寄った。下駄箱は変わっていなかった。百八十七本のテープは、番号をつけた箱の中に収まっている。保存状態の確認は、地域資料を扱う団体へ一部を相談できたという。すべてをすぐにデータ化する予算はないが、劣化の進むものから優先順位をつけていた。

 担当者は、七四番の目録を見せてくれた。未完成の道順案内及び協議に関する音声、一般公開不可。確認できた経緯と、確認できない事項が分けてある。「戻す」の文字と、紙片の同一時刻については、意味未確認と記されていた。

 灯里はその二文字を見て、胸のどこかが静かになるのを感じた。わからないことが、きちんとわからないまま保管されている。誰かが後で見たとき、自分の想像を母の意思だと受け取らずに済む。

 七五番の欄は空白ではなく、予定のみ、未作成、と追記されていた。空いた場所は埋められず、空いている理由が添えられた。灯里はそれでよいと思った。

「個人的に複製を希望された完成音源は、手続きが終わりました」

 担当者が、小さな媒体と利用範囲の書類を出した。母が最後の年に読んだ、町民文化祭の案内だった。公開を目的としない家族の私的な利用として、灯里が受け取れることになった。

 灯里はその場では再生しなかった。受領の紙に署名し、鞄の内側へしまった。母の声を手に入れることが、今回の旅の終点になるとは思っていなかった。今は、いつ聞くかを自分で決められることが嬉しかった。

 夕方、駅前へ戻ると、千鶴が売店の前にいた。町で用事があり、灯里が来ていると聞いて寄ったという。二人は道子の店へ入り、窓際に座った。茶色のカップは、棚の上に小さな鉢を入れて置かれていた。ひびの上から、緑の葉が伸びている。

「今日、新しい道を歩いたんですね」

 千鶴が言った。

「はい。千鶴さんは?」

「まだです。今日は南の方に用があったから。今度、工房へ行く日に使います」

 灯里はうなずいた。千鶴に一番に歩いてもらい、昔の二十七分と比べる。その絵を期待していた部分が、まだ自分にあった。彼女は町の歴史の区切りを演じるために歩く人ではない。用がある日に、使いたい道を選ぶ。それでよかった。

「お母さんの声、少しだけ、受け取りました」

「聞きましたか」

「まだ」

「聞きたい日に、聞けばいいと思います」

 灯里は、はいと答えた。今度は千鶴が、灯里の仕事の話を聞いた。編集の確認に時間がかかり、最初の見積りをまた直した話をすると、千鶴は少し笑った。

「直せるうちは、いいですね」

「直したくない日もあります」

「ありますよね」

 二人の間に、いつもと違う種類の沈黙ができた。説明を待つものでも、怒りを押さえるものでもない。コーヒーが少し冷めるのを、そのままにしている時間だった。

 翌日、灯里は役場の小さな部屋で、音声案内の収録に立ち会った。読むのは交通担当の若い職員だった。原稿を一度読み、北階段は閉鎖されています、という箇所で噛んだ。職員は恥ずかしそうに笑い、初めから録り直すかと聞いた。

「その段落だけ、もう一度お願いします。前後も残します」

 灯里は答えた。

 読み直した後、職員はしばらく息を整えた。灯里は録音を止めず、終わりましたという合図を待った。長い息は原音に残る。完成版では必要な間を選ぶ。その選択は、誰かの歩く速さを証明するものではなく、情報を聞き取れるようにするためのものだ。目的を取り違えないよう、編集の記録に書いた。

 原稿の最後には、更新日と問い合わせ先があった。道順の情報は音声だけでなく、文字と地図でも確認できます。その一文を、職員は一度で読んだ。

 収録が終わると、灯里は相良と合流した。機械は資料室に移り、相良の手元には点検に使う工具だけが残っていた。彼は新しい通路の柵を見て、設置した会社のネジの選び方を褒めた。

「そこを見るんですね」

「ぼくの仕事ですから」

 灯里は笑った。

「七四番のこと、これで終わったと思いますか」

 相良は少し考えた。

「ぼくがしたことは、終わったことにはならない。でも、同じ場所で何も変えずにいるのとは、違います」

「私も、そう思います」

「お母さんの代わりに、終わらせなくてよかった」

 灯里は、すぐには返事をしなかった。相良はその間を待った。

「代わりには、なれなかったです。でも、自分の仕事はできました」

「ええ」

 午後四時、学校から何人かの生徒が出てきた。結衣もその中にいた。鞄のほかに、両手で持つ紙袋がある。卒業制作の試作品だという。灯里と相良を見つけると手を振り、新しい道へ入った。

 灯里は追いかけず、停留所の方へ回った。四時十五分、結衣が坂の出口へ現れた。少し息が上がっていたが、走ってはいなかった。停留所のベンチに紙袋を置き、肩を回す。

 四時十七分、バスが来た。

 結衣は乗り込む前に、灯里を見た。

「今日は、間に合いました」

「うん」

 灯里はそれだけ答えた。これから毎日、誰もが間に合うという意味にはしなかった。今日、この荷物と、この道と、この身体で、結衣が間に合った。そのことを、余計な言葉で大きくしなかった。

 バスが去ると、停留所に風が戻った。灯里は鞄から母の台本を一冊出した。今回、資料にするためではなく、夜に読むために持ってきたものだった。表紙の端が少し反っていた。

 ここで待つ。

 母の印は、もう命令には見えなかった。相手がいる場所を、自分の言葉で塞がないための、小さな目印だった。

 灯里は台本をしまい、新しい道を上り始めた。途中のベンチで、一度座った。何分かかるかは、まだ測らなかった。