案内室の鍵は、母の骨壺より軽かった。
桂木灯里は役場の封筒からそれを取り出し、駅前で掌に載せた。真鍮の輪に、四角い樹脂の札が一枚ついている。油性ペンで書かれた「声」の字だけが消えずに残っていた。母は鍵の名札に建物の名前を書かなかった。灯里が子供のころから、あの建物はただ声と呼ばれていた。
筒木町には、もう鉄道の駅がない。駅舎だった建物の前を小型の路線バスが日に九往復し、待合室では焼き物の土産と冬物の軍手が並んで売られている。隣の赤い煉瓦の小屋は時刻案内室だ。電話をかけると、バスの時間や診療所の休み、山向こうの窯業学校までの道順を人の声で聞けた。今は役場のホームページと同じ文章を、機械が読み上げる。母の勤めていた有人の窓口は、十年前に終わっていた。
灯里は東京で音を編集している。会話から空調の音を薄め、言い直しをつなぎ、持ち時間に収める。母が死んだ四月にも、病院からの電話の後で、依頼された対談の咳を三つ消した。あの仕事を断る理由はあったが、断った後に何をするのかがわからなかった。
今度の仕事は、役場から正式に頼まれたものだった。案内室に残る録音を整理し、保存する分と処分できる分を分ける。建物は十一月に解体される。土地を買う食品会社の小さな工場と直売所ができるという。引き渡しの前に、母が半生を過ごした戸棚を空にする。それなら自分にもできると思った。
十月二十一日、水曜日。午後一時を指す腕時計を確かめて、灯里は鍵を差した。解体まで十日、荷物の搬出期限までは一週間だった。
扉を開くと、紙と温まった埃の匂いがした。窓から差す光が、机の上の細かい傷を浮かせている。母はそこに透明な下敷きを敷き、裏に灯里の給食当番表を入れていた。その下敷きはなくなっていたが、机の手前に小さな白い半円が残っていた。湯飲みの底が二十年かけて削った跡だ。
「すぐに機械を回さないで」
背中から声がして、灯里は肩を縮めた。
入口に男が立っていた。灰色の作業着を着て、脇に小さな扇風機を抱えている。相良滋だった。子供のころは駅の切符売場で見かけ、後にはバス会社で配車と機器の保守をしていた人だ。母の葬儀では一番後ろに座っていた。
「ゴムの具合を見ます。溶けてるとテープを巻き込みますから」
「来ていただくと聞いてなくて」
「大庭さんが連絡を忘れたんでしょう。ぼくは機械の方です。中身は桂木さんの担当」
相良は白髪を短く刈っていた。昔より背中が丸いのに、戸棚の上へ手を伸ばす動きは早かった。扇風機を置き、窓を開ける。線路の跡に植えられた銀杏から、黄緑の葉が一枚、網戸に貼りついた。
戸棚にはカセットが百八十七本あった。年と月を記した箱、診療所、祭礼、学校などの用途を記した箱。灯里は写真を撮り、棚の位置を記録した。いきなり中身を取り出さず、まず物がどこにあったかを残す。それは音声資料を扱う研修で教わったことで、母の遺品を片づけるときには守れなかった手順だった。
母の家の台所を、灯里は二日で空にした。何を捨てるにも悲しくなりそうで、悲しくなる前に終えることを選んだ。必要のない速さだったと、今ではわかっていた。
「仕事として残すのは、案内放送の完成音源だけでいいんですよね」
「契約書ではそうです。ただ、完成前の物にも、台帳と対応する番号はあります」
相良はゴム手袋をはめ、一台目の蓋を開いた。
「聞いてから選ぶのは手間です」
「それが仕事ですから」
「ええ。手間は、あなたの方で勘定してください」
責めるような口調ではなかった。それがかえって灯里には引っかかった。町の人は、帰ってきた者には時間が無限にあると思う。灯里には東京の家賃も、来月の仕事もあった。七日で終える、そのための見積りだった。
午後二時半、役場の大庭直が顔を出した。四十二歳、灯里の中学校の六学年上だった人で、今は公共施設の統合を担当している。紙袋にパンと缶コーヒーを入れて持ってきた。
「到着早々すみません。条件だけ、もう一度」
彼は机に図面を広げた。土地の境界が赤線で引かれ、案内室の裏の細長い帯も敷地に含まれていた。
「録音は町の記録ですけど、かけてきた人の相談は公開しません。名前や家庭の事情が入っていたら別扱いに。判断に迷ったら止めてください。思い出展みたいなものにする予算はありません」
「わかっています」
「二十八日搬出。二十九日に中を確認します。保管先は資料室の棚二段。全部を恒久保存、という約束はできないです」
灯里は図面を見た。裏の帯は幅二メートルほどで、案内室の脇から斜面の上へ抜けている。
「この階段もなくなるんですか」
「今は構内通路の扱いです。正式な町道じゃない。安全上も、手すりの補修が必要で」
「学校へ行く近道でした」
「新しい道は南から回れます。少し距離が増えますが」
少し、と大庭が言ったとき、相良のドライバーが止まった。灯里が顔を向けると、相良はまたネジを回していた。
大庭は保存についての書類に付箋を貼り、食品会社に渡す鍵は別に用意すると言って帰った。窓の外でバスの空気ブレーキが短く鳴った。運転手が待合室へ手を挙げる。売店の人が同じ高さに手を挙げ返した。
最初のテープは、町民文化祭の臨時バスの案内だった。母より若い女性の声が「九時四十分」と読み、途中で笑った。相良が機器の再生状態を確かめ、灯里は音を保存した。録音年月日、テープの面、経過時間。紙にある情報と耳で確かめた情報を分けて入力する。母の声が出てきたのは、六本目だった。
『筒木診療所の、十月の休診日をお伝えします』
灯里は再生を止めた。
電話越しの母よりずっと明るかった。母は家では、明日の持ち物を確認するときも、ニュースを見るときも、声を低くしていた。放送の声は、町の誰かが借りて使うために一段高く磨かれていた。
「続けられますか」
相良が聞いた。
「仕事の声だから、大丈夫です」
灯里は言ってから、仕事でなければ大丈夫ではないのか、と自分に聞き返した。答える代わりに再生ボタンを押した。
午後五時、母の書いた台帳の最後の一冊を開いた。二〇〇〇年の欄に、一行だけ時刻のない記載があった。番号は七四。題名は「北階段」。収録時間は空白で、備考欄に小さな四角が描かれている。完了の丸でも、取り直しの斜線でもない。
七四番のケースは棚の隅にあった。表には何も書いていない。背に母の字で「戻す」とだけある。灯里はカセットを取り出し、ケースの内側に挟まれた紙片を見つけた。
午後四時十七分。
それが二行、同じ筆圧で書かれていた。二行目の下には、鉛筆で短い線が引いてある。
灯里は音を取り込みながら聞いた。最初の十秒に低い機械音があり、やがて母が喉を整えた。
『北の階段を利用される方に、お知らせします』
そこから二十三秒、誰もしゃべらなかった。
テープが止まったわけではない。紙をずらす音、遠くで椅子を引く音、母の鼻から息が抜ける音が入っている。灯里は波形を拡大しようとした。そのとき、母とは違う声がした。
『そこを消すと、私が間に合ったことになってしまいます』
若い女の声だった。怒鳴ってはいない。けれど、言葉の端がまっすぐで、相手に譲る場所がなかった。
何かが倒れる音がし、母が小さく「もう一度」と言った。続けて、相良らしい男の声が聞こえた。
『今日はやめましょう』
録音はそこで終わっていた。
灯里は停止した。部屋の外では売店のシャッターが半分まで下ろされ、金属が擦れた。相良は鞄の留め具を押さえたまま、机を見ていた。
「この女の人、誰ですか」
「声だけでは」
「相良さんは、このときいましたよね」
相良はしばらく返事をしなかった。灯里はヘッドホンを外した。耳の周りに溜まっていた熱が冷たい空気に触れた。
「そのテープは、完成していません」
「だから聞いています」
「使われなかった声には、使わなかった理由があります」
「誰の理由ですか」
相良は答えず、修理した機械の蓋をそっと閉めた。その音は録音の最後の音と、よく似ていた。
日が落ちると、案内室の窓は鏡になった。灯里は母の机に座る自分を見た。違う顔の人間が同じ椅子に座っただけなのに、ガラスの向こうで、母の姿勢を真似ているように見えた。
作業記録に、七四番、未完成、内容確認保留と入力した。「戻す」という字の意味は書かなかった。元の棚に戻すのか。誰かに返すのか。時間を戻すというような、できないことを母が書くとは思えなかった。
鍵をかけようとして、裏の通路に明かりが見えた。制服の上に紺の作業着を羽織った女の子が、自転車を押して階段を下りてくる。前輪を一段ずつ持ち上げ、手すりにペダルを当てないよう、体を斜めにしていた。
「そっちは通行止めじゃないの」
「まだですよ。三十一日まで」
女の子は息を切らしながら言った。
「南を回れば、自転車で来られるでしょう」
「回ると四時十七分に乗れないです」
灯里は鍵を持った手を止めた。
「バス、四時二十分じゃない?」
「二十分は駅前発です。工房口は十七分。うちの実習、四時までだから」
女の子は前輪を路面に下ろし、額の髪を手袋で押し上げた。灯里の顔を初めてよく見るように、少し首を傾けた。
「案内室の人ですか。じゃあ、階段がなくなった後の時刻表って、どこで聞けばいいですか」
問い方は丁寧だった。そこにあるはずの窓口へ、普通の質問をしているだけだった。灯里にはまだ、答えを出す机がなかった。