千葉遥は、面接の最初に余白ノートの使い方を尋ねた。
「一度、登録して試しました。見積の版が変わったときの表示、分かりやすかったです」
修一は用意していた会社紹介の紙を伏せた。
「ありがとうございます」
「でも、請求書の前に戻ると、何を確認したか分からなくなりました」
修一は紙をもう一度表にした。
「そこは改修する予定です」
「いつごろですか」
「優先順位を見て、ですけど」
千葉はうなずき、ノートに何か書いた。二十九歳。以前は業務用のソフトを扱う会社で、顧客対応と運用の整理をしていた。
求人には、問い合わせへの返信、使い方の案内、開発の補助と書いていた。開発の補助という言葉には、修一もはっきりした意味を持たせていなかった。
「今、一日に問い合わせは何件くらいですか」
「日によります。二十から三十」
「答えをまとめた資料はありますか」
「ブログの解説と、メールの履歴があります」
「同じ質問を、毎回答えている感じですか」
修一は笑った。
「まさに。それを、お願いしたくて」
千葉も笑った。修一は、自分の仕事の苦労を初めて同じ角度から見てもらった気がした。
面接のあと、早瀬へ採用の話をした。
月の売上は、前後しながら二百五十万円ほどになっていた。固定の支出が増えることは分かっている。だが、今の作業を減らせれば新機能を作れる。
「給与以外の費用も入れた見込みですね」
「ええ」
「教える時間は、どこに入っていますか」
修一は計画の表を見た。時間の欄には、千葉が働く時間を入れていた。
「経験者なので」
「経験があっても、佐伯さんの頭の中は読めません」
「資料を作ります」
言ってから、まだ作っていないことに気づいた。求人に書くのは簡単だった。給料を払う約束をすることも、書面にすれば出来る。何を任せるかを決めることは、それより難しかった。
修一は帰宅して、問い合わせの答えをまとめ始めた。三日後、まだ三分の一しか終わらなかった。
千葉の初出勤日は、翌週だった。
借りた小さな事務所には、机を二つ置いた。
自宅の隅で会社の仕事をするより、会社らしく見えた。修一はその机を写真に撮り、真紀に送った。
〈社長の机?〉
〈同じ机を二つ〉
〈じゃあ、一人だけ偉そうじゃなくていいね〉
修一は返事に笑いの印をつけた。
初日、千葉は資料を読み、修一が問い合わせに答えるところを見た。夕方には、質問を一枚にまとめてきた。
「ここから先の返金は、どなたが決めますか」
「僕です」
「不具合か使い方の違いか、判断出来ないときは?」
「僕に聞いてください」
「公開した機能が説明と違う場合、こちらから約束していい範囲は?」
「それも、聞いてもらえれば」
千葉は書き終えてから、修一を見た。
「最初はそうします。慣れたら、決められる範囲を作っていただけますか」
「もちろん」
修一は本気で答えた。
一週間後、問い合わせの数そのものが減った。
千葉が、同じところで迷う人を並べていた。画面の文を二行変え、解説へ直接移れるようにすると、初めて使う人からの質問が少なくなった。
「回答を速くする前に、質問をしなくていいようにしたかったんです」
千葉は、修一の修正した画面を見て言った。
修一は椅子を寄せた。
「これ、ほかにもあります?」
「あります。聞かれる回数の多い順に並べています」
表には、顧客の言葉が短く残されていた。誰が何を求めたかではなく、どこで止まったかを分類してある。
修一は、これなら自分が夜に返信しなくても済むと思った。
「助かります」
その言葉に、千葉の顔が少し明るくなった。
帰宅すると、夕食を食べ終えてからパソコンを開かずに済んだ。真紀とテレビを見た。内容はあまり覚えていない。途中で仕事の通知を見なかったことだけを覚えていた。
人を雇ってよかった。
修一は、まだ一週間でそう判断した。
二週目、開発を速めた。
問い合わせに使っていた時間を、余白ノートの新機能に使える。ほかのアプリも直せる。解説コンテンツをまとめ、読者向けの読み物も作れる。
修一が夜に変更を公開すると、翌朝、千葉から質問が来た。
「画面が変わっています。案内はどこにありますか」
「少し変えただけです。触れば分かります」
千葉は自分の画面を修一に向けた。
「昨日送った説明は、今朝もう違っています」
「じゃあ直してください」
「どこを変更したか、教えていただけますか」
修一は手を止めた。直したばかりの仕事を、また説明する。自分が一人なら要らなかった時間だと思った。
「ここです。ここからここまで」
「次から、公開前に見せていただけますか」
「毎回、それを待ってたら遅くなるので」
千葉は少し黙った。
「分かりました。公開したあとでも、変更の一覧があれば」
「それは作ります」
修一は変更の一覧を、今日の作業の下に書き足した。
月の終わり、千葉が宮本の問い合わせに答えていた。
見積の条件が途中で変わる場合、確定した部分だけを請求する手順を知りたい。修一はその問題を以前から聞いていたが、まだ簡単な案内しか作っていなかった。
「佐伯さん、今週、ここを先に直せますか」
「今週は新しい契約の機能を入れたい」
「宮本さんには、今月中に確認すると返信しています」
「確認は出来ますよ。改修とは言ってないでしょう」
千葉の表情が変わった。
「相手が何を期待しているかは、分かりますよね」
「期待を全部受けると、きりがありません」
修一は、正しいことを言っていると思った。自分が出来る範囲を決めなければ、会社は続かない。
千葉は宮本に電話し、現状で出来る手順と、まだ出来ない部分を説明した。修一は隣でその声を聞きながら、作業を続けた。
電話が終わると、千葉は新しい欄を表に加えた。
約束したこと。
修一には、その見出しが少し大げさに見えた。
二か月目、千葉は通常の問い合わせをほぼ一人で処理した。
修一は、もっと任せられると思った。ブログの記事の確認、アプリの不具合の整理、契約の書類の準備。思いついた仕事をそのつど頼む。
「今日中に、これもお願いします」
「今の回答の確認が終わってからでいいですか」
「両方、急ぎです」
千葉は手元の一覧を見た。
「どちらを先にするか、決めてください」
修一は顔を上げた。昔の自分が言っていた言葉だった。
だが、今は状況が違う。会社を作ったのは自分だ。給料を払うのも自分だ。全部を守らなければ会社が困る。
「顧客対応を先に。記事は、夕方までに」
「では、記事はどこまで確認するか絞ってもいいですか」
「間違いがないようにお願いします」
千葉は返事をした。
夕方、記事の確認が終わらなかった。修一は自分で続きを見た。任せたのに、結局自分がやっている。その苛立ちは、千葉が何に時間を使っていたかを見るより先に来た。
金曜、真紀と一泊で出かけることになった。
千葉には、修一がいない間の対応を頼んだ。珍しく晴れた週末だった。修一は自動車の助手席から川を見た。運転は真紀がしていた。
スマートフォンに、通常の問い合わせの共有が届いた。緊急ではなかったが、答えの順序が気になった。
〈最初に、確認していると書いた方がいいです〉
送ると、千葉から返信が来た。
〈承知しました。今後の回答にも反映します〉
十五分後、別の回答を見た。今度は、まだ修正を約束しない方がよいと思った。
〈ここは、検討中としてください〉
真紀が言った。
「景色、見えてる?」
「見てるよ」
「今、川を渡ったの、気づいた?」
修一は顔を上げた。道はもう山に入っていた。
昼食の店で、修一は千葉へ電話した。回答の文言を揃えたい。数分のつもりだった。
千葉が、今は休憩中なので戻ったら確認すると言った。修一は、そうですか、と答えた。
電話を切ったあと、真紀が水を飲んだ。
「任せてるの?」
「任せてるよ。まだ、慣れてないから確認してるだけ」
「あなたが?」
「何が」
「任せることに」
修一はメニューを開いた。値段を見て、食べたい物を決めるまで、返事をしなかった。
事務所へ戻ると、千葉が改修の提案を置いていた。
普通の質問に答えられる範囲、金額に関わる判断を修一へ回す範囲、休日に連絡する条件。修一の作業を増やす案ではなく、減らす案だった。
「この区分で、私が決めていいところを確認してください」
「全部のケースを、先に決めるのは難しいですよ」
「全部ではなく、よくあるものだけです」
「想定してないことが起きたら?」
「聞きます。でも、全部を聞くなら、全部が止まります」
修一は紙を持ち上げた。言われていることは分かる。それでも、見ていないところで顧客に何か約束されるのは怖かった。
自分の名前で作った会社だった。自分の作品を、自分が知らない形で使われる気がした。
「少し考えます」
千葉はうなずいた。
「いつまでに、返事をいただけますか」
「今週中に」
修一は紙を机の端に置いた。翌日、そこには請求書が重なり、その翌日には新機能のメモが載った。
千葉は一度だけ確認した。修一は、まだ考えていると答えた。
給料を支払う日は、修一にとって少し特別だった。
自分以外の誰かの暮らしを、会社の金で支える。その責任を誇らしく思い、同時に重く感じた。
早瀬に話すと、支払うことと、働く条件を守ることは両方必要だと言われた。
「もちろんです。条件は守っています」
「千葉さんには、そう聞こえているでしょうか」
修一は、早瀬が千葉から何か聞いたのかと思った。聞いていないという。一般的な問いだった。
帰りの電車で、給与の額を思い出した。会社員時代の自分なら、もっと任せてもらいたかった。その自分を、今は部下の中に置いて考えることが出来なかった。
事務所に戻ると、千葉は問い合わせの整理をしていた。
「新機能、明日出します」
修一が言うと、千葉は手を止めた。
「先に、話す時間をいただけますか」
「何の話ですか」
「仕事の進め方です」
机には、先週の区分の紙があった。請求書の下から出され、皺が伸ばされていた。
修一は紙を見た。
「それなら、あとで読んで返事します」
「読むだけでは、足りないと思います」
千葉の声は静かだった。
「ここに書いたことを、一緒に決めたいんです」
修一は椅子に座ったまま、隣の空いた椅子を見た。
初めて、その二つの机の間が、面接の日より広くなっていると感じた。